黒いもや
「……井上。いくらなんでも、さっきのは無茶苦茶すぎるぞ」
パトカーを運転しながら、原口が呆れ果てたように小言を言った。
「あ、あれは酷いです……死ぬかと思いました……っ」
後部座席で衰弱し、意識が朦朧としていたはずの女性も、死にかけた恐怖から文句の一つも言いたかったのか、息も絶え絶えに抗議の声を上げていた。
「すみません……とにかく必死だったもので」
「今回も結果オーライだったがな。あんな無茶ばかりしていたら、いつか本当に死ぬぞ」
原口は心底呆れた様子でため息をついた。
確かに僕は窮地に陥ると過激な手段を取ってしまう癖があるようだ。そこは反省しなければな、と心の中で呟いていた。
「……助けてくれて、ありがとう」
胸元から、消え入りそうな小さな声が聞こえた。
その言葉を聞けただけで、危険を冒した甲斐があったと思えた。
憩いの里に到着すると、僕は彼女を抱きかかえたまま非常階段を駆け上がり、3階の治療室へ飛び込んだ。
だが、あいにく良子は不在だったため、とりあえず彼女をベッドへ優しく横たえた。
それから施設長室へ向かい、ドアをノックし開けようとしたが施錠されていた。鍵がかかっているドア越しに声をかける。
「良子、夜遅くにすまない! 衰弱している女性を救助したんだ、治療を頼む!」
『マサキさんなの?す、 すぐに行きますから、治療室で待っててください』
室内から良子の声が返ってきた。言われた通り治療室に戻ると、ベッドの上の彼女は苦しそうに呼吸を整えながらも、意識を保っていた。
「……近藤陽葵ひまりです。助けてくれて、ありがとうございました」
「井上マサキです。助け出すことができて良かったよ。……だけど、こう言っては失礼だけど、よくあのトラックの中で無事だったね」
「ずっと……車の中にいたわけじゃないんです」
話を聞くと、ゾンビパニックが発生した当初、彼女は運送会社のドライバー仲間6人ほどと一緒に事務所で籠城していたらしい。幸いなことに宅配の荷物の中にはペットボトルの水や贈答用の食品が多く、食料には困らなかったそうだ。
だが、数日前に陽葵以外のメンバーが全員ゾンビ化してしまったという。
「……どうして、みんなが一斉に?」
「えっと……真田さんという女性のドライバーが、噛まれたのを隠していて……朝起きたら、ゾンビに変わっていたんです。みんなパニックになってドアが開いてしまって、外のゾンビまで侵入してきて……みんなが私を逃がそうとしてくれて……あっ、そしたら水田のおじちゃんまで噛まれて……うっ、ううっ……!」
その時の恐怖と光景がフラッシュバックしたのか、陽葵はポロポロと涙を溢れさせ、子供のように泣き出してしまった。
「……辛かったね。でも君は、これから命をかけて助けてくれた人たちの分まで生きなきゃいけない」
「うっ……はい……! 私……死にたくないです……っ」
僕が優しく頭を撫で続けてやると、緊張が解けたのか、陽葵はそのまま静かに眠りに落ちていった。
「マサキさん、遅くなってごめんなさい! 彼女が救助された人ね?」
そこへ、息を切らせた良子が駆け込んできた。彼女はすぐさま陽葵の脈を取り、手際よく体調をチェックし始める。
「かなり衰弱しているけれど、栄養剤の点滴を打って休ませれば良くなると思うわ」
「それなら良かった……」
良子とは同じ建物内にいるものの、医療と警察という役割の違いから顔を合わせるのは数日ぶりだった。間近で見ると、彼女の頬が少し痩せこけているように見えた。
「良子……少し痩せた? それに顔が火照っているというか、熱でもあるんじゃないか?」
「大丈夫ですよ。色々と慌ただしくて、少し不眠症気味なだけですから」
「そっか……無理はしないようにね。それと、彼女が元気になるまで頼むよ」
「任せておいて。マサキさんも、無茶はしないようにね?」
(ついさっき無茶をしてきたばかりだ)とは口が裂けても言えず、僕は苦笑いを返しておいた。
治療室を後にすると、廊下の先で浜田が待ち構えていた。
「こんばんは、井上さん。女性を救助されたとか。さすがのお手柄ですな」
「衰弱しているようですが、命に別条はないみたいでホッとしています」
「良子が慌てて部屋を出て行ったので、何事かと思いましたよ」
「……良子だと? 浜田さん、あなたが彼女に何か危害を加えたら、今度こそ許しませんからね」
僕が鋭く牽制すると、浜田は嫌らしく唇を歪めて笑った。
「これは手厳しいですな。……ですが井上さん、世界が崩壊したとて、人間の恋愛は自由です。もし将来、良子と私が結ばれるようなことがあったとしても、君に口を挟む権利がないことくらいは理解しておいてほしいですな」
相変わらず、この男と話していると虫唾が走る。やはり、この男の現場への復帰には強く反対しておくべきだったか──腹の中で苦々しい思いを抱えながら、1階の警察執務室へと向かった。
もう僕の勤務時間は終了していたが、原口に陽葵の容態を伝えておこうと思ったのだ。執務室に入ると、ちょうど署長の佐伯がいたため声をかけた。
「署長、原口さんはどちらに?」
「原口くんなら、また夜間のパトロールに出かけたわ。彼から、井上くんが女性を救助したと報告は受けています」
「はい。3階の治療室でしばらく療養することになりました」
「そうですか。それなら明日以降、体調の回復を待って聞き取りを行い、彼女の処遇を決めることになるわね。今日はご苦労様でした」
「失礼します」
挨拶を済ませて憩いの里を後にしたが、胸の奥にどこか晴れない、黒いモヤモヤがまとわりついて離れなかった。




