木下家
雪乃の家はコンビニから車で10分ほどだと聞いていたが、ゾンビ騒動のせいで走行している車が皆無だからか、障害物を避けて走りさえすれば7、8分で着きそうに思えた。
しかし、道中の景色は目を覆いたくなるほど酷い状況になっていた。
わずかな距離の間に、何台もの事故車が無残に放置されている。歩道には生気を失った死体が転がり、街を徘徊しているのは生ける屍――ゾンビの姿しかなかった。世界が完全に壊れてしまったことを、嫌でも実感させられる。
「ソコです! あそこの白い家です……。あっ、パパの車もママの車もない……」
助手席の雪乃が声を上げ、すぐに不安そうに声を落とした。
「他に同居している家族はいるのかい?」
「姉がいます。お姉ちゃんは……重度のオタクですから、普段から引きこもっていて、きっと家にいると思います」
家の前の駐車スペースにミニバンを滑り込ませ、周囲を厳重に警戒しながら外に出る。
「見える範囲にはゾンビの姿はないようだな」
「わたし、鍵を持っているので玄関を開けますね」
「ゆっくり頼むよ。……最悪のケースだけど、家の中にゾンビが侵入している可能性もあるから、僕の後ろについていて」
「はい……っ」
玄関のドアにゆっくりと鍵を差し込み、音を立てないようにそっとノブを回す。
靴箱も荒らされた形跡はなく、一見すると何の問題もないように思えた。僕は背後の雪乃に向かって静かに頷く。
「……ただいま。雪乃だよ、お姉ちゃん」
「雪……!? 本当に雪乃なの!?」
姉はリビングにいたのだろう。声を潜めてドアの隙間から覗き込み、妹の姿を確認した瞬間、弾かれたように駆け寄って雪乃を強く抱きしめた。
「良かった……っ、無事だったんだね! 本当に心配してたんだよ!? パパもママも連絡がつかないし、帰ってこないし、もう不安で不安で……っ」
「ただいま、お姉ちゃん。会えて嬉しいよ……う、うう……うえん……っ」
肉親の温もりに触れて張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、雪乃はその場で大粒の涙を流して泣き出してしまった。
雪乃の姉は妹を愛おしそうに抱きしめ、その頭を何度も撫でながら、ふと僕の存在に目を留めた。彼女はかけていた黒縁メガネのフチを指先でくいと上げると、警戒心を露わにした強い口調で問いかけてきた。
「……で、そのオジさんは誰? 雪乃の知り合い?」
オジさん――。
確かに十代の女の子から見れば、僕は立派な大人の男であり「オジさん」なのだろう。しかし、面と向かって容赦なく突きつけられると、胸の奥がチクリと痛んだ。
「初めまして。僕は雪乃が働いていたコンビニの同僚、井上と申します。彼女をここまで送り届けにきました」
「はぁ? 同僚? ……ちょっと待って、なんで今、自然に『雪乃』って呼び捨てにしてるわけ?」
お姉さんの鋭いツッコミに、雪乃が涙を拭いながら僕の腕にしがみつき、とんでもない爆弾を投下した。
「お姉ちゃん、違うの……! 井上さんはね、その……わたしのカレシなんだよ」
「……カレシ?」
そう呟いた瞬間、雪乃の姉は動きを完全に止めた。ゆっくりと黒縁メガネを外し、僕と雪乃の姿を交互に何度も見つめる。
その瞳の奥に奇妙な熱が灯り、見る間に彼女の顔が怒りと興奮で真っ赤に染まっていくのが分かった。
(これは……完全に地雷を踏んだな……)
背筋に冷たいものが走るのを覚えながら、僕は最悪の予感を抱いていた。
「おい! オッサン!! あんたウチの妹に何してくれてんの!?」
冬子は外したメガネを振り回しながら、怒髪天を突く勢いで僕に詰め寄ってきた。
「あー、わかったぞ! 世界がこんなことになって、雪乃が不安になっているのにつけ込んで犯したんだろ!? それ、普通に犯罪だから! 信じられない、サイテー、消えて! 今すぐ目の前から消えて!!」
「いや……無理やり犯したわけではありません」
「お姉ちゃん落ち着いてっ! わたしが前から井上さんのこと好きだったの! それに……エッチだって、わたしが嘘を吐いて、無理にしてもらったんだから!」
「――やっぱり、ヤったんだね。はい、アウトーッ!! 犯罪者はこの家には一歩も入れませーん!!」
あまりの剣幕と、妹の赤裸々な告白に対するショックで、冬子のテンションは完全に理性を失っている。僕はこれ以上の口論は無意味だと判断し、一歩引くことにした。
「分かりました。雪乃ちゃんの身の安全は、お姉さんに任せます。ただ、車の後部にコンビニから持ち出した食料が積んであります。それをここに下ろしたら、僕はすぐにこの家から去ります」
「待って、井上さん! あなたが去るなら、わたしも一緒に着いて行きます! もう絶対に離れたくないの!」
――バチンッ!
乾いた音がリビングに響いた。冬子が雪乃の頬を平手打ちしていた。
「生意気なことを言ってんじゃないわよ……っ! せっかく無事に帰ってきたのに、雪乃がまた外に出ていくなんて絶対に許さないからね!」
「お姉ちゃんに何が分かるのよ! 自分は一歩も外に出られないクセに!!」
図星を突かれたのだろう。冬子の身体がびくりと硬直した。
「なっ……なんでそれを! 関係ないでしょ! 私だって、わたしだってぇ……っ! ……外に出たい、よぉ……うぅ、うあーん……っ!」
突如、子供のように声を上げて泣き崩れる冬子を前に、雪乃がハッとして表情を曇らせる。
「ごめん、お姉ちゃん……言い過ぎた……」
雪乃がうっかり特大の地雷を踏んでしまったせいで、お姉さんはリビングの床にへたり込んで泣き出してしまい、完全に収拾がつかなくなってしまった。僕と雪乃は困り果てて顔を見合わせ、彼女の涙が引くまで、ただ静かにその様子を見守るしかなかった。
数分後。ようやく鼻をすすりながら立ち上がった冬子は、真っ赤になった目で僕に向かってペコリと頭を下げた。
「……先程は、取り乱して失礼しました。妹を送り届けてくれた恩人に対して……」
「いえいえ。雪乃ちゃんに手を出してしまったのは紛れもない事実ですから責められるのは仕方がありません。気が済むのであれば、僕のことを殴っていただいても構いませんよ」
「えっ……あんた、そういう『特殊な趣味』があるの?」
「お姉ちゃん! 変な勘違いをしないで!」
冬子は感情の起伏が激しく、どこか挙動不審で落ち着きがない。だが、泣き止んでメガネをかけ直したその顔を改めて見ると、やはり雪乃の姉と言うべきか、かなりの美形だった。
部屋着なのだろう、身体のラインがはっきりと分かるピッチリとした長袖のスポーツシャツとスパッツを着用している。妹のふくよかな肉付きとは対照的に、無駄な脂肪のないスレンダーな体型で、ほどよく膨らんだ胸のラインが妙に生々しく、健康的な色気を放っていて魅力的だった。
「……木ノ下冬子です。申し遅れてすいません」
「井上正樹です。冬子さん、あなたも妹さんに負けず劣らず、とても綺麗な方ですね」
「えっ……あ、そんな、私なんて……っ」
ストレートな言葉に、冬子は途端にオドオドとして頬を林檎のように染めた。その様子を見て、雪乃が少し得意げに僕の耳元で囁く。
「ダメだよ、井上さん。お姉ちゃんは生まれてこの方、男の人に全く免疫がないんだから。それに、基本的には男嫌いだし」
「雪乃! 初対面の人に、私のそんな不名誉なプライベートまで暴露しないでよ!」
なるほど。僕をあれほど強固に追い出そうとしたのは、引きこもりゆえの恐怖だけでなく、男性に対する強い拒絶感も原因の一つだったのだ。
「あの……実際のところ、外は一体どうなっているのですか? ネットもテレビも完全に止まってしまって、家の中にいると全く情報が入ってこないんです」
冬子が不安を隠せない様子で問いかけてきた。
「それが……僕たちもコンビニに立て籠もっていたので、全体の正確な状況までは分かりません。ですが、街の惨状を見る限り……恐らく、少なくとも半分以上の人間はすでに亡くなっているか、あるいは化け物に変貌してしまったのではないかと……」
「ここに来るまでの短い距離でも、何人もの死体を見たし、ゾンビもたくさん歩いていたよ」
雪乃の補足に、冬子は絶望したように顔を青くした。
「……この家も、昨日の夜に電気が止まりました。今はまだ水とガスは使えているんですけど、これも時間の問題ですよね」
「都市ガスなら真っ先に止まるだろうね。幸い、この家はプロパンガスのようだから、ボンベの残量があるうちは使えるはずだ。問題は水だね……。浄水場や送水ポンプの機能が生きているうちに、浴槽やバケツに貯められるだけ貯めておいた方がいい」
僕の現実的な分析を聞きながら、冬子は自身の細い肩を抱きしめるようにして、小さく呟いた。
「これから、私たちは一体どうなっちゃうんだろう……」
ライフラインの喪失という容赦のない現実が、引きこもっていた彼女の安全圏を、確実に侵食し始めていた
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




