AI先生
その夜は珍しく一人で寝室に入ったものの、今後の展開やこれからのコミュニティの行く末を考えると、どうしても眠りにつくことができなかった。
ベッドを抜け出し、冬子の部屋へと向かった。彼女の部屋は外へ光が漏れないよう分厚い遮光カーテンが隙間なく締め切られており、モニターが放つ蒼白い薄明かりの中で、彼女がまだ一心不乱にキーボードを叩いていた。
「マサキさん……? どうされたんですか、こんな夜更けに」
「眠れなくてね。君はこんな時間まで何をしていたんだい?」
「前家主の岡田氏は、セミオーダーで作られた超高性能のノートPCも所有されていたのです。私がこのマンションを打って出る時が来たら、間違いなく必要になると考えて目をつけていたのですが……網膜認証の厳重なセキュリティがかかっておりまして、これまでは起動画面すら拝むことができなかったのです」
(冬子は自分も動くつもりなのか……)
冬子にはこの安全なマンションにじっと構え、僕の参謀として控えていてくれればそれで十分だと思っていただけに、彼女の先を見据えた覚悟には驚かされた。
「しかーし! 今日、私はついに叡知を手に入れました! それでAI先生に色々と手ほどきを受けていたのです」
「……何とかなりそうなのかい?」
「私とAI先生のタッグに不可能はありません! っと……すいません、調子に乗りました。ですが結果から言うと、何とかなりそうです。BIOSレベルでのROM書き換えとなると大掛かりですが、今回の認証はOSレベルで制御されているようですので、これなら私の手で突破できます」
「数桁のパスワードならともかく、生体認証をハックするのは難しそうに見えるけれど……」
僕が問いかけると、冬子はメガネのブリッジを指先でクイッと押し上げ、誇らしげに胸を張った。
「今回はパスワードやセキュリティそのものを力技でハックする必要はないのです。記憶メディア……つまり既存のSSDを取り外し、別のSSDへ換装して一からOSをクリーンインストールしてしまえば解決します。ちょうど今からOSのセットアップを始めるところですので、ご興味があれば見ていてください」
冬子は手際よく作業を進めると、すでに分解しかけていたノートPCから元々のSSDを引き抜き、手持ちの新しいストレージへと差し替えた。そして用意していたUSBメモリを挿し込み、OSのインストール手順を開始した。
「……その作業を待っている間に、君に相談したいことがあるんだ。明日は入院している奈緒の様子を見に、白心病院へ行こうと考えていてね。これからの立ち回りについて、君の意見を聞きたかったんだ」
「もちろんです、喜んで相談に乗ります。……ですがその前に、まずは客観的かつ確実な事実を整理しておきましょう」
「どういう意味だい?」
「憩いのがXXXに襲撃されたあの日……私はマサキさんの身が心配でたまらず、この部屋から望遠鏡を使ってずっと施設を監視していたのです。それで──」
冬子は、僕が車で施設を脱出し、激しいカーチェイスを繰り広げた後に起きていた、もう一つの出来事を語り始めた。
僕たちが現場を去った後、施設には大勢のXXXの仲間と思われる者たちが押し寄せ、僕の行方を捜索するためか目まぐるしく施設内を出入りしていたらしい。
そして翌日、一台の車が猛スピードで施設へ戻ってくるや否や、何台もの車が一斉に飛び出していったという。
(……僕が追っ手と遭遇し、高速道路へ逃げ込んだタイミングだな)
そして、その隙を突くかのように、多数のパトカーがサイレンを鳴らしながら一気に施設を包囲した。
警察はスピーカーで「施設を明け渡すように」と警告を開始し、前線にはライフルを構えた警官隊の姿も多く確認できたという。
しばらくすると施設から一人の男が出てきて警察と交渉を行い、やがてパトカーの包囲が解かれると、暴徒たちは抗争を起こすことなく素直に施設を明け渡して撤収していったらしい。
「なるほど……双方ともに、無駄な流血を避ける選択をしたんだね」
「そのように見えました。警察側にしてみても、あの混乱下で大勢の暴徒を逮捕・拘留し続けるのは負担が大きすぎますし、激しく抵抗されれば警察組織にも無視できない被害が出ますからね」
「しかし不思議だな。どうしてそれまで、警察の影も形も見留められなかったんだろう?」
「そうですね……推測ですが、まずは本院である白心病院内の感染者を全力で排除し、完璧な安全地帯(拠点)を確保することを優先したのではないでしょうか。XXXが襲撃するまで施設は自力で持ちこたえていましたから」
(あの白崎院長のことだ。監視を続けながら最も合理的かつ優先順位の高い判断を下していたのだろう。だがXXXの襲撃という予期せぬイレギュラーが発生したため、急遽警察を動かして施設を解放・接収させた……)
「それと……もう一つ。私はその後もずっと施設の監視を継続していたのですが……一つ、奇妙な違和感があったのです」
「違和感……? 教えてくれるかい?」
「あそこには多数のパトカーが配備されているように見えますが……実際に稼働しているのはほんの数台だけです。一見すると大人数の警官隊が配備されているように見せかけていますが、実態はそれほど多くないのかもしれません」
「どういうことだい?」
「いわゆる『張り子の虎』です。生き残っている警察官の絶対数が、実は相当少ないのではないでしょうか」
「……」
「その前提で考えると……おそらく白崎院長は明日、マサキさんたちに対して病院への移住を提案し、同時に手薄な警察の戦力として協力するよう持ちかけてくるはずです」
「……十分にあり得る話だな」
「ですが……私個人としては、その提案には賛成しかねます。病院には彩香さんがコールドスリープされていて、ある種、人質を取られているような状態ですが……私にとっては、何よりもマサキさんの身の安全が第一です。マサキさんがご自身や私たち自身のために危険を冒すのは勿論仕方ありませんが、見知らぬ他人のために命を危険に晒すのは絶対に嫌です。……私たちにとってマサキさんは、生殺与奪を預けた唯一無二の存在ですし……何より、私は愛していますから」
冬子の隠し立てのない真っ直ぐな本音は、僕の胸に強く深く響いた。
そして、彼女たちをこの極限状況の中で生き残らせ、導いてきたのは他でもない僕自身なのだという責任感を再認識させられた。
二人の話が一区切りついた頃、ノートPCのOSインストールは無事に終了し、画面にはクリーンなデスクトップが表示されていた。
冬子いわく、あとは元のSSDから必要なドライバやデータを抽出してインストールすれば、問題なくフルスペックで稼働するとのことだった。
「……すごいです! ノートPCでこれほどの処理スペックが出せるなんてあり得ません。これなら……どこへ移動する時でも、このAI先生を携帯して連れて行くことができます!」
詳しい技術的な仕様までは僕には分からなかったが、冬子とAIの持つ卓越したハッキング能力と知能は、これからの過酷な世界において間違いなく僕たちの強力な武器になる──そう確信した。




