帰還
「雪! 自転車なんてやめなさいってば!」
「大丈夫だよ、いつもこれでバイトに通ってたんだから。それに、あのバツバツバツの連中はもういなくなったんでしょ? だったらもう安全じゃん!」
「危険はあいつらだけじゃないの! 大体、マサキさんの車が施設に無いんだから、今行ったって無駄に決まってるでしょ!」
「そんなの、行ってみなきゃ分からないじゃん! もしマサキさんがどこかで怪我して動けなくなってたらどうすんの? ねえ、どうすんのよ!?」
別荘のある村を出発してからこのマンションにたどり着くまで、恐れていたトリプルXの襲撃に遭うこともなく、僕たちは驚くほどスムーズに帰還することができた。
一応、目立たない路地に車を隠し、そこから歩いてマンションへと近づいていると、聞き覚えのある姉妹喧嘩の声が耳に飛び込んできたのだった。
「おいおい、2人とも声が大きすぎるぞ?」
僕は歩調を早め、声をかけた。
「ん? えっ……ああああああ! マサキさん!?」
雪乃が弾かれたように振り返り、その瞳を丸くする。
「うう……マサキざーーーんっ!」
次の瞬間、冬子がなりふり構わず駆け出してきた。僕が両手を広げると、姉妹は示し合わせたように全力で僕の胸へと飛び込んできた。
「ただいま。2人とも、元気そうで本当に良かったよ」
2人の温もりを感じながら髪を撫でる。
「本当に、本当に心配したんだからぁ……ああ、ううっ……」
冬子が僕の胸に顔を埋めて激しく泣きじゃくる。
「もう、お姉ちゃん泣きすぎだってば。それより……ねえ、マサキさん、お帰りの――チュッ」
雪乃が涙目のまま不敵に笑うと、僕の頬に恥じらいもなく唇を押し当ててきた。
「雪乃、やめなさい! 咲愛ちゃんもいるんだから!」
冬子が慌てて涙を拭い、妹を引き離そうとする。
「えっ? 咲愛ちゃんも戻ってきたの?」
「……びっち」
遅れてトコトコと現れた咲愛が、ポツリと低い声で呟きながら、冷ややかな視線で雪乃を激しく睨みつけていた。
雪乃はバツの悪そうな渋い顔をして僕から一歩離れた。2人は以前からの知り合いのようだが、どうやら少し複雑な関係のようだ。
「冬子、出迎えてくれて、感激してくれて本当に嬉しい。だけど、今は一刻を争うとても大事な話があるんだ。どうか君の知恵を貸してほしい」
僕のただならぬ真剣な表情に、冬子もすぐさま涙を引っ込めて表情を引き締めた。
「……何か、あったのですか?」
エレベーターで7階へと登り、見慣れた部屋のドアを開けると、ようやく我が家に帰宅したという実感が湧いてきた。
だが、感傷に浸っている時間など一秒も無い。リビングのテーブルを囲んで腰掛けると、僕はすぐに本題を切り出した。
「彩香が、ゾンビに噛まれたんだ。どうにかして、ゾンビ化を阻止したい」
「彩香さんが……ゾンビに……」
冬子が息を呑み、痛ましそうに彩香を見つめる。
「その……現在の体調はいかがですか?」
「少し前から、なんだか身体が火照るように熱いの……それに胸が息苦しいような」
彩香が弱々しく答える。その横で、じっと話を聞いていた良子が彩香の額にそっと手を触れ、手首の脈を確かめ始めた。
「微熱ですが、明らかに発熱しています。それに脈拍にも異常な乱れがありますね。……目も少し充血しています、恐らく血圧も急上昇していますね。血中酸素も低下の兆候が見られます……」
良子が医師としての冷静な、しかし沈痛な面持ちで診断を下す。
「彩香さんは今、間違いなくゾンビウイルスに感染しています」
冬子が淡々と、しかし残酷な現実を告げた。
「これまでの観察データから見ても、恐らく一両日中に彩香さんの身体機能は一度停止して死亡し、その翌日までにゾンビとして覚醒することになります」
「そんなの嘘だろ……! 何とか、何とか止められないのか!?」
僕はテーブルを叩くようにして冬子に詰め寄った。
「そうですね……これはあくまで私の憶測、仮説なのですが」
冬子は眼鏡の位置を直しながら、静かに思考を巡らせる。
「このウイルスの挙動は、一般的なウイルスというよりも、昆虫などに寄生してその行動を支配する『寄生虫』の性質に酷似しているように思えるのです。通常のウイルスは宿主の細胞機能を利用して増殖するだけで、宿主の意思や行動まで直接操るようなことはしません。しかし、ゾンビは明確に『何者か』に操られるようにして生存者に噛みつき、対象の身体に侵入して増殖しようとします。自然界において、宿主を意のままに操る種というのは、圧倒的に寄生虫に多いのです」
「それが……彩香を救うことと、どう関係しているんだ?」
「大いに関係があります。もしそれが生きている寄生虫のような存在であるならば、何らかの強力な薬物、あるいは特殊な環境によって、宿主の身体の中で殺すことが可能かもしれません。……ただし、完全に死亡して脳が停止し、肉体がゾンビ化してしまった後では、現代科学のどんな手段を以てしても元に戻すことは不可能です」
「だったら、どうすれば良いんだ!? 具体的にどうすれば彩香を救える!?」
「そうですね……。理想を言うのであれば、彩香さんがウイルスの侵食によって死亡し、脳の機能が完全に停止してしまう前に、彼女の身体を『仮死状態』に陥らせることでしょうか……」
「それって、コールドスリープ(人工冬眠)のことね……?」
良子がハッと目を見開いた。
「でも、それはまだ現代の医学では基礎研究の段階よ。人体をそのまま冷凍した場合、細胞内の水分が凍って体積が増え、細胞膜を内側から破壊してしまう。それが最大の懸念材料として未解決のはずだわ」
「はい、通常の人体であればそうです。ですが、話が少し逸れますが……『首が千切れて亡くなった死体がゾンビになり、その首が元通りの位置に接合して歩いていた』という事例を聞いたことはありますよね?」
「そんな馬鹿な……。指や四肢の切断であれば、微小外科手術で適切に治療すれば接合の可能性はありますが、首の完全切断からの自己接合なんて、医学的にありえません」
良子が首を振るが、僕は冬子の言葉に戦慄していた。
「良子……それを実際にこの目で体験したのは、僕なんだ。この部屋の元のオーナーが、首を切断されて亡くなっていてね。あまりに不憫に感じたから、僕が遺体の首を元の位置に綺麗に合わせて置いておいたんだ。そうしたら……数日後、ゾンビ化した彼は首をくっつけた状態で起き上がり、歩いていたんだよ。しかも、生前の記憶が微かに残っているのか、自らの車のドアを開けようとさえしていた」
「そんな、信じられないことが……」
良子が絶句する。
「これも私の推論ですが、ゾンビ化のプロセスにおいては、人間の常識を遥かに超えた異常なまでの『細胞治癒力・再生力』が付与されると思われます」
冬子が確信を込めて言った。
「ですから、ゾンビウイルスに感染し、その恩恵を受けている状態の肉体ならば、細胞破壊を伴う過酷なコールドスリープのプロセスにも耐えられるのではないかと……」
「未知数であるけれど……確かに、可能性はゼロではないわね」
良子の瞳に、微かな希望の光が宿る。
「問題は、そのコールドスリープを行うための施設です」
冬子が現実的な壁を突きつける。
「細胞の破壊を防ぐためには急激に冷却する、いわば絶対零度に近い超低温の冷凍設備が必要になります。食肉処理場などにある大型の冷凍庫等が必要不可欠ですが、電力を完全に喪失した今のこの状況では、稼働させること自体が極めて困難です……」
冬子の高度な推論によって、ようやく彩香を救う蜘蛛の糸が見えた気がした。しかし、世界が完全に崩壊している今、そんな特殊な設備を探し出し、さらに動かすなど容易なことではない。
その時、じっと話を聞いていた雪乃がパッと手を挙げた。
「はい! お姉ちゃんの難しい話はよく分からないんだけどさ、白崎先生が元いたあの医療施設には、そういう無いの?」
「残念ながら、私の施設は老人保健施設だから、そこまでの特殊な医療冷凍設備は無いの……。それに、あの施設は例の乱暴な悪党たちに乗っ取られてしまっていて……」
良子ががっくりと肩を落とすが、雪乃はケロリとした顔で言った。
「あ、それなら大丈夫だよ。昨日、警察が突入して、あの悪い奴らを全員追い払ってたから」
「なに!? 警察が追い払ったのか?」
僕は思わず椅子から立ち上がった。
「そうだよ。なんだ、マサキさんは知らなかったんだ。てっきりそれを知ってるから、この街に戻ってきたんだと思ってた」
僕は居ても立ってもいられず、窓際に移動すると、置いてあった双眼鏡を掴んで良子の施設がある方向を凝視した。レンズの向こう、確かに施設の敷地内には、何台もの警察の車両が物々しく並んでいる。
「あれは……マサキさん、その双眼鏡を貸してくださらない?」
良子が僕の隣に並んだ。
「どうぞ。良子の施設だ、気になるよね」
良子は双眼鏡を覗き込むと、細かくレンズを調整し、驚きの声を漏らした。
「やっぱり……! 警察車両の奥に、私の父が経営している本院の医療用大型トラックと救急車が停まっているわ」
「ごめんなさい、私にも見せてくださる?」
今度は彩香がフラつきながらも双眼鏡を覗き込む。
良子の父親の病院は、この街で最も規模の大きい総合病院だ。良子が所長を務めていた施設は、その病院の系列にあたる医療老人施設だった。
彩香は双眼鏡を覗き、しばらくその光景を観察していたが、何かを確信したように呟いた。
「いくらなんでも、警察の車の数が多すぎるわね。これはもしかしたら……」
「彩香、何かに気が付いたのか?」
「良子さんのあの施設、まるで警察や市の臨時本部のようになってしまっているのよ。本署の機能が麻痺して人数が減ったこと、それにあの施設には巨大な自家発電装置や宿泊可能な設備、備蓄が揃っているから、警察や市の上層部がそこを拠点に選んだのね」
「十分にあり得ます」と良子が頷く。
「私の父は、警察署長や市長、それに市議会議員とも昔から非常に仲が良かったですから。この未曾有の危機のなかで、街の存続のために施設を丸ごと提供したのかもしれません」
「それなら、お父さんの本院の方も、ゾンビを完全に掃討して、医療機関として機能している可能性が非常に高いわね」
彩香の言葉に、良子がハッと息を呑んだ。
「これは一部の人にしか知らされていない極秘事項なのですが、もし……もし本院が、自家発電で今も正常に機能しているのだとすれば、コールドスリープ――彩香さんを絶対零度で眠らせることは、可能です。本院の地下研究棟には、そのための最先端の超低温クライオチューブ(医療用冷凍設備)が存在しますから」
「そう……」
彩香は静かに微笑み、良子の手をそっと握りしめた。
「それなら、良子さん……お願いします。私を冷凍して、眠らせてください。……本当はね、自分が死んであの化け物になってしまうのが、凄く怖かったの。僅かでも人間に戻れる望みがあるなら、賭けてみたい。……いえ、最悪は、このまま二度と目覚めなくても構わないわ。ただ……ゾンビになって理性を失った悍ましい姿だけは、絶対にマサキさんに見られたくないの」
「彩香……。僕は、たとえ君がどんな姿になっても、絶対に君の側を離れないつもりだよ」
彩香の肩を抱き寄せ、狂おしいほどの想いをぶつけた。
「嬉しい。その言葉だけで、私はもう十分に救われたわ。……だけど、それはダメよ、マサキさん。あなたは、ここにいる彼女たちのために、これからも生き続けなきゃいけないの。――皆さん、もし私がこのまま深い眠りについたり、あるいは死んでしまったとしても……どうか、マサキさんを傍で支えてあげてくださいね」
彩香の凛とした、しかしどこか遺言のような切実な言葉に、リビングにいた全員が、溢れる涙を堪えきれずに何度も大きく頷いていた。




