天使
車を降りると、僕は良子と奈緒を見て深く頷き合った。
覚悟を決め、日本家屋の玄関のガラス戸を、ガシャン、と激しい音を立てて思い切り開け放つ。
「おい! 来てやったぞ!」
大声を張り上げ、土足のままでズカズカと廊下を突き進んでいく。奥の部屋から慌てふためく男たちの声が聞こえた。まさか正面から堂々と乗り込んでくるとは思っていなかったのだろう、完全に動揺している。
騒ぎを無視して引き戸を乱暴に開けると、そこは広い和室だった。畳の上に長椅子がいくつか並べられており、その一番奥に、不釣り合いな羽織袴を身にまとった両と、死に装束のような白い着物を着せられた彩香の姿があった。
両の周囲には、5人の男たちが固まっている。
(あの別荘には10人で来ていた。そのうち7人はすでに僕たちが殺している。残ったのは、ここにいる両と2人……あとの3人は、留守番でもしていた残党か)
「プハッ、ははは! 本当に結婚式ごっこなんてやっていたのか。相当頭が狂っているな、お前ら」
あえて下品にせせら笑い、挑発した。
「と、止まれ! そこで止まって銃を出せ!」
うろたえた男の一人が叫ぶ。
――パンッ!
僕は容赦なく、右側にいた男に向けて引き金を引いた。弾丸は男の胸を正確に捉え、鮮血が飛び散る。
「やめろ! それ以上動いたら、本当に彩香を殺すぞ!」
両が色をなして叫んだ。
「おっと、悪かったな。手が滑って暴発しただけだ。――分かったよ、渡す。ほら、拾えよ」
僕は言われた通り、手にしていた拳銃をわざとらしく足元へ転がした。それを見て、左側にいた男が銃を回収しようと一歩前に踏み出す。
――バンッ!
その瞬間、僕はズボンの後ろに隠していたもう一丁の拳銃を素早く引き抜き、足元の銃に手を伸ばした男の後頭部を躊躇なく撃ち抜いた。銃身が大きいせいか、先ほどの銃よりも遥かに重苦しい爆音が部屋に響き渡る。
「きさまあぁッ! 脅しだと思っているのか! 彩香がどうなってもいいんだな!」
「もう一丁出そうとしたら、また暴発しちまったんだよ。ほれ、これでもう本当におしまいだ」
残弾のない銃を放り投げた。両は怒り狂い、懐から取り出した包丁を彩香の白い首筋に強く押し当てた。これ以上の抵抗は本当に彼女の命を奪いかねない。
僕はこれ以上の武器がないことを示すため、大人しく両手を挙げ、シャツを捲ってその場でひらりと一回転してみせた。
「……あの別荘といい、その銃といい、貴様、ただの堅気じゃねえな? ヤクザ者か?」
両が忌々しそうに睨みつけてくる。
「違うよ。前に言っただろ、あの別荘は知り合いの物だ」
「フン、どうだかな。貴様のおかげで仲間が何人も死んだんだ、たっぷりと償ってもらうからな。――おい、その男を縛り上げろ!」
両が奥に向かって叫ぶと、台所の方からさらに2人の男が縄を持って現れた。他にもまだ仲間がいたのかと、わずかに不安がよぎる。後ろに控えている奈緒の突撃を、一度止めるべきか――。
しかし、迷う時間はなかった。僕が2人の男に強引に押さえつけられ、後ろ手に縄をかけられたその瞬間、奈緒が鋭い動きで片方の男を突き飛ばした。その動きに合わせ、大袈裟に男たちを良子とは逆の方向へと押し戻す。
「まだ分からないのか、このガキどもが! 舐めやがって、まずはこの女を刺し殺してやる!」
両が逆上して包丁を振り上げた。
「待ちなさい! その包丁を捨てて!」
和室に凛とした、しかし張り詰めた声が響いた。声のした方へ目を向けると、いつの間にか良子が両に近づき拳銃を真っ直ぐに構えていた。
(なぜ撃たない……! ためらうな、奴に時間を与えてはダメだ!)
心の中で叫ぶ。
「ハッハハハ! 女医さんに人が撃てるのかぁ!? 人を殺すのは最低の行為だぞ! 医者としてのプライドはどうした、おい!」
両が良子の動揺を見透かしたように、下卑た笑い声を上げる。
「聞く必要はない! 撃て、良子!」
「良子さん、お願いだから撃って!」
僕と彩香の叫び声が重なる。ここが正念場だ。まさに生きるか死ぬか、僕たちの命のすべてがこの一発に懸かっている。
――パン!
良子が引き金を引いた。
しかし、弾丸は無情にも外れ、両の頬を微かにかすめただけで後ろの壁へと消えた。
「良子! 落ち着いてもう一発撃つんだ!」
「指が……指が痺れて……ああ、動かない……ひぃ、あああっ!」
完全にパニックに陥った良子の背後から、残っていた男が襲いかかった。男は良子の肩を掴むと、そのまま床へと思い切り投げ飛ばす。ショックで手に力が入らないのか、彼女の小さな手から拳銃が離れ、畳の上を虚しく転がっていった。
(失敗した……!)
良子はすぐに男に組み伏せられ、奈緒も背後から羽交い締めにされた。僕も背中に強烈な衝撃を受け、うつ伏せの状態で床に叩きつけられる。
ダメだ。終わった……。もう、手立てがない。
僕は後ろ手に固く縛られ、首元には冷たい包丁の刃が当てられている。奈緒も良子も、男たちに完全に自由を奪われていた。
「……約束は、守ってくださいね」
静寂の中、彩香が静かに、しかし冷たい声で両に抗議した。
「何の約束だ?」
「私があたなと結婚したら、マサキさんの命だけは助けると、そう約束したはずよ」
「ああ、あの時はな……しかし今は状況が……。よし、分かった、約束は守ってやるよ。ワシは嘘つきじゃねえからな。――おい、小百合をここに連れてこい」
「小百合さんって……昨日、あなたと一緒にいたあの人?」
彩香が不審そうに眉をひそめる。
「そうだ。井上くんからお前を貰う代わりに、小百合と彼をくっつけてやろうと思ってな」
「どういうこと……?」
「まあ見ていろ。俺は約束通り、井上くんを動けるように生かしてやるさ」
両手を後ろに縛られ、口元に不自然なマスクをかけられた小百合が、男に引きずられるようにして連れてこられた。
だが、その顔、その濁った瞳、そして不自然な挙動を見た瞬間、僕は両の邪悪な思惑を完全に理解し、全身の血が凍りついた。
あの特徴的な動きは、これまでに嫌というほど見てきた。
そう、小百合はすでに、ゾンビに変わっている。
「……彼女を、殺したのか?」
震える声で尋ねる僕に、両は平然と言い放った。
「自殺だよ。旦那を殺され、毎晩何人もの男の相手をさせられて思い詰めたようだな。バカな女だ、もう少し待てば解放してやったというのに」
「解放だと?」
「そうだろ? 彩香や女医さん、それにそっちの若い娘が手に入ったら、誰も小百合なんか相手にしなくなる。――さあ、きさまに小百合をくれてやる。仲良く口付けでもしなさい」
なるほど、そういうことか。僕をゾンビに感染させれば、肉体としては動いていても、人間としては完全に死ぬ。奴にとってそれは殺さないという約束の範囲内なのだ。
「マサキさんをゾンビにする気ね……! そんなの、殺すのと全く同じだわ! 約束が違う!」
彩香が激昂して叫ぶ。
「彩香、お前も調子に乗るなよ。確かに極上の女だが、これ以上言うことを聞かないなら容赦なくブチ殺すからな」
「……ごめんなさい。言う通りにする。何でも要求は聞くから、お願い……マサキさんをゾンビにしないで……!」
彩香のプライドに満ちた表情が、僕を救うための絶望的な懇願へと変わる。
「おい、マスクを外して、口付けをさせろ!」
両の命令で、連れてきた男がニヤニヤしながら小百合のマスクを剥ぎ取った。小百合は顔を引きつらせながら、何度も狂ったように口を開閉し、歯をカチカチと激しく鳴らしている。
生気のない小百合の顔が、僕の目の前へと迫ってくる。
もうダメだ、僕はここでゾンビに変えられてしまう。口惜しさと絶望に涙が滲んだ、その時だった。
「ダメ! やめて!!」
視界の端で、両手を縛られたままの彩香が走り出し、捨て身の体当たりで小百合の身体を激しく突き飛ばした。小百合の凶悪な顔が、一瞬だけ僕の視界から遠ざかる。
慌てた男たちは、彩香を抑えつけようとする
その直後だった。和室の入り口から何かが滑り込んでくる
「なんだあ?」
この場に不釣り合いな者の登場に、男たちもポカンと口を開けている。
愛らしく、この殺伐とした部屋に不釣り合いな天使のような小さな人影が、走るのが見えた
その小さな人影は咲愛だった。彼女は迷うことなく、畳の上に転がっていた良子の拳銃を素早く拾い上げた。
「何だ、このクソガキは!? 出ていけ!」
近くにいた男が立ちはだかろうとするが、咲愛はそれをヒョイと身軽にかわし、まるで学校の廊下をスキップでもするかのような足取りで、真っ直ぐに両の元へと走っていく。
「嬢ちゃん、それを拾ってくれたのか? ワシに手渡して――」
両が手を伸ばした瞬間、咲愛は僕が良子に教えていた通り、ちらりと安全スイッチに視線を送り軽く頷くと、足を肩幅にしっかりと開き、両手で拳銃をまっすぐに構えた。
そして大人の誰もが持っているはずの”躊躇い”を一切見せることなく、冷徹に引き金を引き絞った。
――パンッ!
乾いた銃声と共に、両の額の真ん中に、ぽっかりと黒い穴が空いた。両は白目を剥き、そのまま後ろへと倒れ込む。
「両さんが……!」
あまりの光景に、男たちが唖然として硬直した。その一瞬の隙を突いて最初に動いたのは、奈緒だった。
奈緒は咄嗟にしゃがみ込んで男の腕からすり抜けると、床に転がっていた両の包丁を素早く掴み、僕を押さえつけていた男の肩口へ向けて全力で振り下ろした。
「ぎゃああああっ!」
肩に深く包丁を突き立てられた男が、悲鳴を上げて僕から手を離す。
僕はすぐに奈緒に背中を向け、手際よく縄を切り進めてもらった。自由になった僕の元へ、咲愛がタタタッと駆け寄って拳銃を差し出す。
「両は死んだ。――お前らも全員、ここで殺してやる!」
僕は銃を受け取り、吠えた。
――パンッ!
良子を押さえつけていた男の頭部へ弾丸を叩き込む。男が崩れ落ちると同時に、衣服を引っ張って良子を強引に抱き起こした。
残った3人の男たちは、僕の圧倒的な殺意と銃口を前に、助けてくれ!と悲鳴を上げながら、一目散に玄関の向こうへと逃げ去っていった。
またしてもこの小さな咲愛に命を救われた。
「咲愛、本当にありがとう。……だけど、二度とこんな危ないことはしないでくれ」
拳銃を下ろし、彼女の小さな肩を掴んだ。
「だって、井上さんを助けたかったんだもん」
咲愛は事も無げに言った。恐ろしい子だ……人を一人、撃ち殺したというのに、その表情には微塵の動揺も恐怖もなかった。
「……痛いっ!」
背後から響いたその声に、僕の心臓が大きく跳ねた。
「えっ……?」
彩香の声だった。
振り返った視界に飛び込んできたのは、僕を永遠の闇へと突き落とすような絶望の光景だった。
僕をゾンビから救うために捨て身の体当たりをした彩香。その、着物がはだけて剥き出しになった彼女の美しい右腕に、床に倒れ込んでいた小百合が狂暴な歯を深く突き立て、肉を噛みちぎろうとしていたのだ。
――パンッ!
僕は半狂乱になりながら、小百合の頭部へと銃弾を撃ち込んだ。小百合の身体が力を失って床に転がる。
彩香は辛うじて肉を食いちぎられてはいなかったが、白く滑らかな肌に刻まれた悍ましい歯形の傷からは、どくどくと赤い鮮血が流れ落ちていた。
「……ごめんね、マサキさん。せっかく、助けにきてくれたのに……私、噛まれてしまったわ……」
彩香は痛みに耐えながら、悲しげに、けれど僕を気遣うように弱々しく微笑んだ。
「そんな……嘘だろ、彩香。僕だって前に奴らに噛まれたけれど、こうして平気だったんだ! だから、彩香だって絶対に大丈夫だ……!」
「無理よ、マサキさん……。あなたのように服の上からじゃないもの。直接、肌をやられてしまった……。私はもうすぐ、死んであの化け物になるのね……」
「そんなわけがない! 良子! 何とかしてくれ、医者だろ!? 何か方法があるはずだ!」
僕は取り乱し、良子の肩を掴んで激しく揺さぶった。しかし、良子は溢れる涙を隠そうともせず、ただ絶望に唇を噛むだけだった。
「ごめんなさい……マサキさん、私には、今の私にはどうすることも……」
馬鹿な。そんなことがあってたまるか。彩香が、僕の愛する彩香が、あの悍ましい化け物になるなんて、そんな絶望、僕は絶対に認めない。
「冬子だ……。冬子はあの時、僕を救うと言っていた。あそこに戻ろう。今すぐ、あのマンションに戻るんだ!」
「マサキさん、あのマンションにはもう戻れないわ……。死ぬ前に、もう一度冬子さんや雪乃ちゃんに会いたいけれど……トリプルXの連中が……」
彩香が意識を遠のかせながらも、冷静に僕を止めようとする。
「もう、そんなことはどうでもいい! トリプルXが何だ! とにかく帰るんだ! どっちにしろ、この村にも、あの別荘にも僕たちの居場所は残されていないんだから!」
冬子なら、彼女なら、何か治療の方法を知っているかもしれない。何か考えてくれるはずだ。そう自分に言い聞かせるしか、今の僕の精神を保つ方法はなかった。とにかく戻る、それだけだ。
「別荘には……戻れないものね」
良子が涙を拭いながら尋ねる。
「ああ、死体だらけだ。今頃はもう、あそこの死体もゾンビに変わって動き出しているかもしれない」
「……それなら、もう他に行く宛てもありませんものね。戻るという選択も、間違いではないかもしれないわ。私も……最後を迎えるなら、あの街がいいわ」
良子も覚悟を決めたように、僕の無茶な提案に同意してくれた。
「彩香は絶対にゾンビになんてならない!」
自分が完全に冷静さを失い、狂気に取り憑かれているのは自覚していた。けれど、今の僕にはあのマンションに戻るという選択肢以外、何も残されていなかった。
ぐったりとした彩香を慎重に抱き上げると、全力で車へと走った。
全員を車に押し込み、激しくアクセルを踏み込む。バックミラーに映る、死体と血に染まった最悪の村を後にし、全ての始まりの場所であるあのマンションへと向けて、狂ったように車を走らせた。




