ステーキと雪乃
両たちが山道の奥へと消え去り、ガレージのシャッターを厳重に閉めると、僕はすぐに彩香に向き直って事情を聴いた。
「彩香、さっきトイレの前で何かあったよね?」
彩香は不快感を露わにするように自分の腕をきつくさすり、忌々しげに息を吐き出した。
「思い出したくもないわ……。本当に下品な言葉で口説いてきたのよ。それだけならまだしも、後ろからお尻と胸を触られたわ。いえ、思いきり掴まれた、と言った方が正しいかしらね」
「……それで、君が悲鳴をあげるとわざとらしく腰を痛めたふりをして転んだ訳か」
誰もが振り返るほど美しい彩香だ。男として彼女に触れたい、手に入れたいと思う衝動自体は理解が出来る。平時の世界でも、セクハラに対する罪悪感を大して持ち合わせていないような、図々しい年配の男は決して珍しくもなかった。
それよりも僕が異常さを感じたのは、確信犯的にそれをやり、バレた後も悪びれる風もなく「腰がガクッときた」などと被害者を装ってその場をごまかし切る、あの底知れない図太さと異質さだった。間違いなく、一線を越えることに躊躇のない人間だ。
「……そうなのですね。本当に、申し訳ありません……」
僕たちの話を聞いていた良子が、すっかり青ざめた顔で頭を下げた。
「私のせいで彩香さんにそんな不快な思いをさせてしまって……。でも、私は医師として、目の前の病気や怪我の方をどうしても放っておけなくて……」
良子の医師としての強い使命感は、決して間違っていないし、人として尊いものだと思っている。それに、あの両という男が今後もし何か行動を起こしてきたとしても、こちらが油断さえしなければ、腕力や武器もある僕たちがそう簡単に負ける気はしなかった。
「良子、君の気持ちはよく理解しているよ。責めているわけじゃないんだ」
僕は良子の肩を優しく叩き、落ち着かせながら提案を口にした。
「その上で、僕から提案がある。一度行くと言ってしまった以上、約束を破れば向こうが何を仕向けてくるか分からない。だから、もう一度だけ、この場所で診察をすることだけは認めよう。その代わり、明日ここに来た時に、君の口からしっかりと、これで終わりだと彼らに話してほしいんだ」
「そうですね……」
「別に、患者を見捨てろと言っている訳じゃ無いんだ。良子も知っての通り、僕らはこの別荘に永住するつもりはない。いずれはここを発つ。そしてそのタイミングは、状況次第で急に訪れる可能性だって高いんだ。だから、向こうとこれ以上の継続的な約束ごとは作らないでおいてほしい」
「……わかりました。明日の診察を最後にすること、ハッキリと伝えます」
そう答えた良子の表情は、医師としての理想と過酷な現実の間で板挟みになり、どこか暗く沈んでいた。
張り詰めた空気のまま夜を迎え、僕たちは彩香が用意してくれた夕食を囲むことにした。
咲愛が見つけてくれた床下の冷凍食材は、驚くほど高級な代物だった。綺麗に見事な霜降りが乗った牛肉。彩香がそれを贅沢に分厚いステーキにして焼き上げてくれたのだ。
ナイフを入れると溢れ出す肉汁。それを口に運んだ瞬間、濃厚な脂の旨味が広がり、全員の顔から自然と笑みがこぼれた。こんな世界になって以来、これほど美味い肉を食べたのは初めてだった。生きている実感が、身体の芯から湧き上がってくる。
「……すごく美味しい。ねぇマサキさん、ゆきのんと冬子ちゃんにも、これ食べさせてあげたかったな」
奈緒がふと、別荘に残してきた二人のことを思い出して呟いた。
「そうね、本当に。私も早くあのマンションに戻りたいわ」
彩香も肉を味わいながら、愛おしそうに目を細める。
「わたしも、ゆきのんと早くお話したいな。寂しがってないかな」
いつの間にか、奈緒と雪乃の間の友情はかなり深まっているようだった。あの気さくで少し危なっかしい雪乃のキャラクターは、誰の心にもすんなりと入り込む魅力がある。
すると、もぐもぐと肉を噛んでいた子供の咲愛が、不意に首を傾げて言った。
「でもね、雪乃ちゃんはビッチなんだよ?」
「ぶっ……! アハハ、咲愛ちゃん、どこでそんな言葉を覚えたのかしら!」
突如飛び出した刺激的な単語に、彩香が思わず吹き出して楽しそうに笑い声を上げる。良子も驚いたように目を丸くしていた。
「あはは……。そんな事はない、雪乃は……いや、否定しきれないな」
僕が苦笑しながら言葉を濁すと、すかさず奈緒からツッコミが入る。
「マサキさん、ひどーい! 確かにゆきのんはちょっと恋愛脳なところはあるけれど……」
「でも、あの子がいてくれるだけで、その場がパッと明るくなるのは確かよね」
彩香が優しくフォローを入れる。
遠く離れた彼女を肴にして、リビングの会話が次々と弾んでいく。誰の口からも、雪乃に対する呆れと、それ以上の深い愛着が溢れていた。みんなが彼女のことを、どうしようもなく可愛らしく感じている証拠だった。
こうして気心の知れた仲間たちと笑い合える時間が、何よりも愛おしく、そして絶対に守らなければならないものだと、僕は肉の味と共に深く噛み締めていた。




