両
さすがは本職の医師というべきか、良子の手際は良く治療はあっという間に終わった。泥の入り込んでいた両の擦り傷は綺麗に洗浄され、手際よく消毒と包帯の処置が施された。
しかし、治療が終わっても、両と名乗ったその男は一向に立ち上がろうとはしなかった。それどころか、品定めをするような目でリビングを見回し、再び僕たちの関係に水を向けてきた。
「それにしても兄ちゃん、さっきの言葉は本当かね? 彼女が二人ってのは……」
「いいえ、三人です。ここにいる三人共に僕の彼女です」
男の言葉を遮り、さらに強い口調で奈緒も含めた関係を言い放った。これ以上の余計な詮索を防ぐための防壁のつもりだった。
「ほう、あのボインの姉ちゃんも、こっちの女医さんも、あっちの凛としたおなごもか。……へへ、羨ましいのお」
両は両手を大きく広げ、胸や尻の大きさを誇張するような下品なジェスチャーをしながら言い放つ。その下俗な視線が奈緒や咲愛にまで及びそうになり、僕の堪忍袋の緒が引きちぎれそうになった。
「いい加減にし――」
「おお、ここは良い屋敷じゃのう。まるでヤクザモンの別荘のようじゃ。なぁ兄ちゃん、もしかして、そっちの人間け?」
注意しようとした瞬間、言葉を遮るように、両はニヤニヤと笑いながら自分の頬を人差し指でなぞった。顔に傷を持つ反社会的勢力の人間か、と聞いてきたのだ。こちらの怒りをはぐらかすような、計算高い目つきだった。
「違いますよ。失礼ですが、治療も済んだようですし、もうお引き取りください」
僕は感情を押し殺し、明確な拒絶を突きつけた。
「これはすまなんだ。いや、滅多に見ん美人に囲まれてもうて、つい名残り惜しゅうての」
両はそう言ってようやく腰を上げ、帰るそぶりを見せた。しかし、そのままスンナリと出ていく男ではなかった。
「……おっと、すまんが便所を貸してくれんかの。ちと我慢できんくなってな」
これ以上長居させたくなかったが、排泄を拒むわけにもいかない。彩香が冷ややかな目で男を睨みつけ、こちらですと案内役を買って出て、男と共にリビングを出て行った。
男の姿が見えなくなると同時に、後片付けをしていた良子に歩み寄り、声を潜めて忠告した。
「良子、これ以上はあの男に関わり合いにならないでくれ。絶対に何かがおかしい」
僕の切迫した様子に対して、良子はなぜか小さく微笑んで答えた。
「マサキさん、施設で勤務していた頃は、あの手の卑猥な冗談をされる高齢の患者さんは沢山みえましたよ。少し、神経質になりすぎでは?」
確かに、彼女の言う通りかもしれない。平時の世界でも、下ネタで場を和ませようとする、あるいは周囲の気を引こうとする人間は一定数存在する。良子にとっては日常の延長線上の出来事なのだろう。
だが、僕が感じているのはそんな瑣末なことではない。あの男の、笑っているのに奥が全く笑っていない爛々とした瞳――そこから放たれる圧倒的な危険の匂いを、僕は感じていた。
ふと視線を感じて振り返ると、両と一緒に来た小百合という女性が、ずっと下を向いて固まっていた。目が合うと、彼女は怯えたように肩を震わせた。しかし、その悲痛な瞳は、明らかに僕に向かって何かを必死に訴えかけようとしているようだった。
万が一にも両の耳に届かないよう、声を潜めて彼女に問いかけた。
「……小百合さん。両さんは、どういった方なんですか?」
「……」
小百合は青ざめた唇を震わせ、言葉を発することができない。
「ご夫婦ではないのですよね? 彼は一体……」
良子も異変に気づき、小百合の顔を覗き込む。小百合は涙を浮かべ、喉を詰まらせながら、ついに消え入りそうな声で言葉を絞り出した。
「あの男は……あの男は……あくま――」
「――キャッ!」
ドスン!
小百合が重要な何かを伝えようとしたその瞬間、廊下の奥から鋭い悲鳴が響き渡った。彩香の声だ。続けて、何かが激しく床に衝突したような鈍い音が静かな別荘に轟く。
「彩香!」
僕は反射的にリビングを飛び出し、音がしたトイレの前の廊下へと急行した。
「いででで……っ! 歳のせいで腰も悪くしとってよ、急にガクッときて転んでしもた!」
廊下の真ん中で、両が仰向けになって大袈裟に腰を押さえて転がっていた。そのすぐ傍らで、彩香が壁に背を預け、激しい嫌悪感を露わにしながら男を睨みつけている。おそらく、転びざまに彩香の身体にわざと接触したか、押し倒そうとしたのだろう。
「大丈夫ですか!? 痛むのはどの辺りですか?」
すぐに良子が駆けつけ、廊下に膝をついて問診を始める。
「すまんのう女医さん、腰がきやっと痛くなって、バランスを崩して彩香さんに当たってしもたんじゃ……悪気はなかったんよ」
両は痛ましげな表情を作りながらも、良子の介護を受ける手つきをどこか楽しんでいるように見えた。
「フン、どうだか。……シップをお渡ししますので、申し訳ありませんが、もうお引き取りください」
彩香が冷徹極まりないキツい視線を送りながら、ピシャリと言い放つ。男の魂胆を完全に見抜いている目だった。
「いやぁ、怒った顔もきれいよのう、お姉ちゃんは」
両は腰を押さえながらもニヤニヤと立ち上がり、ようやく玄関に向かって歩き出した。しかし、その足取りは遅く、相変わらずキョロキョロと周囲を観察している。
「ほう、あっちには露天風呂もあるのかや。こりゃあええお屋敷じゃ、ええとこじゃのお」
帰り際の一瞬まで、彼は家の中をジロジロと見て頭の中に叩き込んでいるようだった。
玄関の扉を開け、外の空気に触れたところで、両は思い出したように振り返った。
「そうじゃ、親切に治療してもらったお礼に、村の畑で採れた野菜を分けてあげるけん。今から女医さんか彩香さんも一緒に、ワシらのところへ取りに来んかね?」
「お野菜ですか? それは助かります。では、明日なら、旦那さんの診察がてらにお伺いしますね」
良子が親切心から即座に微笑んで応じる。
「待て、良子。それは認められない」
僕は強い口調で制止した。
「そんな……マサキさん、お野菜をいただけるのですよ? それに、まだ経過を見ないと……」
良子が不満げに眉をひそめ、僕たちの間に一瞬、険悪な空気が漂う。
それを見た両が、待ってましたとばかりに口を挟んできた。
「兄ちゃんも了見が狭いのう。こんな世界じゃ、生き残った同士、仲良く助け合って行こうやないか」
「あいにくと、僕たちは誰とも組むつもりはありません。食料も足りています。ですから、二度とこの家を訪れないでください」
僕は両の目を真っ直ぐに見据え、一切の猶予を与えないようハッキリと言い放った。
だが、両の顔から余裕の笑みが消えることはなかった。
「つれないのう、兄ちゃん。よし、なら患者としてなら文句はないじゃろ? ワシのところには、他にも体調を崩して、お医者様に見てもらいたい者がおるんじゃ」
「……それなら、構いません。私は医師ですから、病人がいるなら放ってはおけません」
僕が拒絶を重ねる前に、良子が強い使命感の籠もった声でそう宣言してしまった。両はしつこく粘ることで、見事に良子からの言質を取ってみせたのだ。
「へへ、女医さんは本当に立派な人じゃのう。感心、感心」
両は満足そうに機嫌良く笑うと、怯える小百合の腕を乱暴に引っ張り、夕闇が迫る山道の奥へと消えて行った。
静まり返ったガレージで、僕は遠ざかる男の背中をいつまでも睨みつけていた。




