怪我人
「……やっぱり、女性はいくつになっても綺麗なものが好きなのね。見て、このリップの色、良子さんに絶対に似合うわよ」
「まぁ、彩香さん。私、普段はもっと落ち着いた色を選んでいましたけれど……確かに、この世界では少し華やかな方が、元気を貰えるかもしれませんわね」
後部座席でボストンバッグの中身を広げながら、彩香と良子はまるでショッピング帰りの女子大生のように仲良く話を弾ませていた。出会った当初の、あの張り詰めたピリピリした雰囲気はどこへやら、同年代で共に優秀なキャリアを持つ二人は、一度言葉を交わし合えば驚くほど気が合うようだった。
そんな二人の楽しげな声を BGM にしながら、僕はフォードを別荘へと続く山道へと走らせていた。
しかし、別荘まであと少しというところで、車のヘッドライトが前方の不自然な影を捉えた。
若い女性に肩を借り、足を引きずるようにしてヨロヨロと歩いている中年の男性の姿だった。
(……チッ、こんなところで生存者か)
僕はハンドルを握る手に力を込め、関わり合いになることを避けて、そのまま何事もなかったかのように無視して走り去ろうとした。道の駅での一件もあり、この付近の人間に対しては警戒しか持てなかったからだ。
「井上さん! あの人、怪我をしているようです。車を止めていただけませんか?」
後部座席から、良子の鋭い声が飛んだ。
「良子、ダメだ。関わっちゃいけない」
僕は速度を落とさずに答えた。
「井上さん、なぜ助けないのですか!? 目の前に傷病者がいるのですよ、戻ってください!」
「良子、この付近の住人は何かおかしいんだ。さっきの道の駅の惨状を忘れたのかい? どんな危険があるか分からない」
僕が必死に説得しようとすると、隣の彩香も冷静なトーンで良子を諭すように口を開いた。
「良子さん、あなたの医師としての責任感の強さは尊敬するわ。だけど、私たちは神様じゃないの。すべての人は救えないわよ」
「彩香さんまで、そんなことを言うのね……!」
良子の声が悲痛に歪み、車のシートが激しく擦れる音がした。
「分かりました。そこまで他者を拒絶するのなら、私はあなた達とは別れます。ここで降ろしてください。私は一人でもあの人を助けに行きます!」
「良子、そんなことを言わないでくれよ……っ!」
彼女の頑なな態度に、僕は助手席の彩香と視線を交わした。彩香も、良子をここで降ろすわけにはいかないと、苦渋の表情を浮かべている。
「……はぁ、分かったよ。戻るよ。だけど、良子、傷を見てアドバイスするだけにしてほしい。深入りは絶対にナシだ」
「それは、実際に診察してみないと分からないわ」
良子は一歩も引かなかった。僕は仕方なくシフトレバーをバックに入れ、フォードを後退させて先ほどの二人の元へと向かった。
車のウィンドウを下げ、良子が身を乗り出して声をかける。
「怪我をされているように見えますが、大丈夫ですか? 私は医師です。良ければ傷を見せてください」
「おお、女医さんかな! 助かった、沢から滑り落ちてしまっての、派手に擦りむいてしまったんじゃ」
男は50代、肩を貸している女性は30代に見えた。男の足の裾は破れ、そこから生々しい擦り傷が覗いている。
良子は素早く車から降り、男の傷口を軽く観察すると、すぐにこちらを振り返った。
「骨折はしていないようだけど、泥が入っているわ。綺麗に洗って消毒する必要がありますね。別荘に戻れば、さっき調達した医療品で適切な処置が出来ますので……マサキさん、車に乗せていただけませんか?」
(やっぱり、そうなるか……)
予想していた通りの展開に、僕は内心で舌打ちした。見た感じの雰囲気は気さくで、特に害はなさそうに見える。だが、防衛拠点である別荘に、正体の分からない他人を入れることだけは絶対に避けたかった。
「イデデデ……兄ちゃん、悪いな。後でお礼はちゃんとするよってに、頼む、乗せてくれん決。この足じゃもう歩けんのじゃ」
男が情けない声を上げて僕に懇願する。
「マサキさん、お願いします」
良子からも真っ直ぐな瞳で懇願され、僕はこれ以上拒絶しきれなくなり、なし崩し的に了承してしまった。
「……分かったよ。乗ってください。ただし、処置が終わったらすぐに送り届けますからね」
「おお、すまんのう!」
男と小百合と呼ばれた女性が後部座席に乗り込み、良子もそれに続いた。車内が一気に、泥と汗の混じった異様な臭いで満たされる。
「それにしても、こりゃあ大した車じゃな。……おお、よく見りゃあ女医さんもべっぴんさんだんが、助手席のおなごも、随分と色っぺーな」
男が車内を見回しながら、下俗な笑みを浮かべて言った。
「……」
彩香は完全に気が付かないフリをして、窓の外を見つめたまま一言も発しなかった。だが、バックミラーを覗き込む僕の目は、男の視線を捉えていた。男は、彩香の豊かな胸元やしなやかな太ももを、まるで舐めるようにねっとりとした視線で見つめていたのだ。
誰もが振り返る美女である彩香を見てしまうのは男の性として仕方ないとはいえ、あまりにも遠慮のない不躾な視線に、僕の胸の中にどす黒い不快感が湧き上がっていく。
「……やっぱり、女はいくつになっても綺麗なものが好きなのよね。見て、このリップの色、良子さんに絶対に似合うわよ」
「まぁ、彩香さん。私、普段はもっと落ち着いた色を選んでいましたけれど……確かに、この世界では少し華やかな方が、元気を貰えるかもしれませんわね」
助手席と後部座席でボストンバッグの中身を広げながら、彩香と良子はまるでショッピング帰りの女子大生のように仲良く話を弾ませていた。出会った当初の、あの張り詰めたピリピリした雰囲気はどこへやら、同年代で共に優秀なキャリアを持つ二人は、一度言葉を交わし合えば驚くほど気が合うようだった。
そんな二人の楽しげな声を BGM にしながら、フォードを別荘へと続く山道へと走らせていた。
しかし、別荘まであと少しというところで、車のヘッドライトが前方の不自然な影を捉えた。
女性に肩を借り、足を引きずるようにしてヨロヨロと歩いている老年の男性の姿だった。
(……チッ、こんなところで生存者か)
僕はハンドルを握る手に力を込め、関わり合いになることを避けて、そのまま何事もなかったかのように無視して走り去ろうとした。道の駅での一件もあり、この付近の人間に対しては警戒しか持てなかったからだ。
「井上さん! あの人、怪我をしているようです。車を止めていただけませんか?」
後部座席から、良子の鋭い声が飛んだ。
「良子、ダメだ。関わっちゃいけない」
僕は速度を落とさずに答えた。
「井上さん、なぜ助けないのですか!? 目の前に傷病者がいるのですよ、戻ってください!」
「良子、この付近の住人は何かおかしいんだ。さっきの道の駅の惨状を忘れたのかい? どんな危険があるか分からない」
僕が必死に説得しようとすると、隣の彩香も冷静なトーンで良子を諭すように口を開いた。
「良子さん、あなたの医師としての責任感の強さは尊敬するわ。だけど、私たちは神様じゃないの。すべての人は救えないわよ」
「彩香さんまで、そんなことを言うのね……!」
良子の声が悲痛に歪み、車のシートが激しく擦れる音がした。
「分かりました。そこまで他者を拒絶するのなら、私はあなた達とは別れます。ここで降ろしてください。私は一人でもあの人を助けに行きます!」
「良子、そんなことを言わないでくれよ……っ!」
彼女の頑なな態度に、僕は助手席の彩香と視線を交わした。彩香も、良子をここで降ろすわけにはいかないと、苦渋の表情を浮かべている。
「……はぁ、分かったよ。戻るよ。だけど、良子、傷を見てアドバイスするだけにしてほしい。深入りは絶対にナシだ」
「それは、実際に診察してみないと分からないわ」
良子は一歩も引かなかった。僕は仕方なくシフトレバーをバックに入れ、フォードを後退させて先ほどの二人の元へと向かった。
車のウィンドウを下げ、良子が身を乗り出して声をかける。
「怪我をされているように見えますが、大丈夫ですか? 私は医師です。良ければ傷を見せてください」
「おお、女医さんかな! 助かった、沢から滑り落ちてしまっての、派手に擦りむいてしまったんじゃ」
男は50代後半、肩を貸している女性は30代に見えた。男の足の裾は破れ、そこから生々しい擦り傷が覗いている。
良子は素早く車から降り、男の傷口を軽く観察すると、すぐにこちらを振り返った。
「骨折はしていないようだけど、泥が入っているわ。綺麗に洗って消毒する必要がありますね。別荘に戻れば、調達した医療品で適切な処置が出来ますので……マサキさん、車に乗せていただけませんか?」
(やっぱり、そうなるか……)
予想していた通りの展開に、僕は内心で舌打ちした。見た感じの雰囲気は気さくで、特に害はなさそうに見える。だが、防衛拠点である別荘に、正体の分からない他人を入れることだけは絶対に避けたかった。
「イデデデ……兄ちゃん、悪いな。後でお礼はちゃんとするよってに、頼む、乗せてくれんかの。この足じゃもう歩けんのじゃ」
男が情けない声を上げて僕に懇願する。
「マサキさん、お願いします」
良子からも真っ直ぐな瞳で懇願され、僕はこれ以上拒絶しきれなくなり、なし崩し的に了承してしまった。
「……分かったよ。乗ってください。ただし、処置が終わったらすぐに送り届けますからね」
「おお、すまんのう!」
男と小百合と呼ばれた女性が後部座席に乗り込み、良子もそれに続いた。車内が一気に、泥と汗の混じった異様な臭いで満たされる。
「それにしても、こりゃあ大した車じゃな。……おお、よく見りゃあ女医さんもべっぴんさんだんが、助手席のおなごも、随分と色っぺーな」
男が車内を見回しながら、下俗な笑みを浮かべて言った。
「……」
彩香は完全に気が付かないフリをして、窓の外を見つめたまま一言も発しなかった。だが、バックミラーを覗き込む僕の目は、男の視線を捉えていた。男は、彩香の豊かな胸元やしなやかな太ももを、まるで舐めるようにねっとりとした視線で見つめていたのだ。
誰もが振り返る美女である彩香を見てしまうのは男の性として仕方ないとはいえ、あまりにも遠慮のない不躾な視線に、僕の胸の中にどす黒い不快感が湧き上がっていく。
男はそんな車内の重苦しい空気もお構いないしに話し始める。
「わしは両と言う、この女は小百合じゃ」
「僕は井上といいます」
「医師の白崎と申します」
彩香は自己紹介する気も無いらしく、聞こえない風に黙って窓の外を見ていた。
「お二人は、ご夫婦なんですか?」
それを紛らわせるように、良子が二人に尋ねた。
「いいえ、違います」
小百合が蚊の鳴くような声で否定する。すると、男がニヤニヤと笑いながら小百合の肩を太い腕で抱き寄せた。
「夫婦ではないけんど、小百合の旦那は少し前に死んでしまってよ。今はワシがこうして面倒を見ているちゅう訳だ。なあ、そうじゃな?」
「はい……」
小百合は男の強引な態度に怯えるように、小さく俯いて頷くだけだった。その様子に、僕はさらに不信感を募らせる。
「――でおんしゃらは、どういう集まりじゃ?」
男の鋭い視線が、バックミラー越しに僕へと向けられた。
「私たちは……」
良子が言い淀んだ瞬間、僕は遮るようにして、はっきりとした口調で告げた。
「二人とも、僕の彼女です。こんな世界になってしまったので、知り合いの別荘を借りて、みんなで避難してきました」
あえて強い口調で「自分の女だ」と牽制を入れたのだ。特に彩香に下劣な視線を向けるこの男に対して、明確な縄張り意識を示す必要があった。
「ほう、二人ともかや。……へへ、うらやましいのう、兄ちゃん」
男は下卑た笑みを浮かべ、それ以上は何も言わなくなった。
やがてフォードは別荘のガレージへと滑り込んだ。
車から降り、リビングへと怪我人を案内すると、留守番をしていた奈緒と咲愛が、突然の異様な来客に驚いて目を丸くした。
「マサキさん、その人たちは……?」
奈緒が警戒を露わにしながら、僕の前に進み出る。
「道で怪我をしていたんだ。良子が治療したいと言うから、処置が終わるまで一時的に連れてきた。奈緒、そういうわけだから、少しの間だけ辛抱してくれ」
僕がそう説明すると、奈緒は国体選手らしい凛とした表情を崩さないまま、小さく納得の頷きを返してくれた。咲愛も良子の白衣の裾を掴みながら、不安そうに事の顛末を見つめていた。




