女性の悩み
僕はフォードのハンドルを握り、助手席の彩香、そして後部座席の良子を乗せて、温泉街へと続く山道を逆走するように車を走らせていた。
ほぼ一本道のこのルートを下っていくと、やがて視界がひらけ、地方都市の街並みが見えてきた。かつては華やかだったであろうその場所は、今は不気味な静寂に支配されている。
目的のデパートは5階建て程度のもので、大都市のそれと比べれば小規模だったが、この地方都市においては十分に目立つランドマークであり、迷うことなく辿り着くことができた。
だが、その全貌が視界に入った瞬間、僕は思わずアクセルを踏む足を緩めた。
「……先客がいたか」
デパートの正面玄関と思われる大きなガラス窓は、どれも内側から分厚い合板や鉄パイプで厳重に封鎖されていた。そして何より異様なのは、その建物の周囲を、夥しい数のゾンビが隙間なく取り囲んで群がっていることだ。
奴らは狂ったように合板を叩き、中へ入ろうとうめき声を上げている。
「……あの中に、立て籠もっているのね」
彩香が冷徹な目でその光景を見つめる。
間違いない。何者かがこの堅牢なデパートに立てこもり、外部を遮断して独自のコミュニティを形成しているのだろう。外にいるゾンビの群れは、中の生きた人間の気配に引き寄せられているのだろう。
「……交渉してみますか? 医師である私が一緒なら、無下に扱われる可能性は低いと思うのですが」
後部座席から、良子が少し緊張した声で提案してきた。
しかし、僕と彩香は同時に小さく首を振った。
「あの中にいるのが、善良な人たちとは限らないからな。むしろ、この世界でこれだけの規模の建物を占拠して生き残っている連中だ、まともな神経の人間じゃない可能性の方が高い」
「ええ、確かにそうよね……」
僕が答えると、良子も本心ではその危険性を理解していたらしく、それ以上は言わずに小さく頷いた。そんな良子の様子を見て、彩香が静かに語りかける。
「良子さん。人はね、常に他人と比較して自分の幸福度を測る生き物なのよ。だからこそ、人よりも上に行こうとする。それが人間のサガなの。それは平時であれば、競争心を煽って社会を発展させるプラスの面も大きいわ。だけど……」
彩香はバックミラー越しに良子の目をじっと見つめた。
「法も秩序も完全に失われた今の状況では、それは単なる『力の強い者の正義』でしかなくなるの。そうなった集団の中に飛び込めば、私たちのような女性は、自分に降りかかる災いを振り払うことさえ叶わなくなるわ」
「……」
「だからこそ、私たちは最善の方法として、今の形を選んだのよ。マサキさんを絶対的な中心とした、この強固な小規模コミュニティをね。もちろん、本当にどうしようもなくなれば、生き残るために他人に頭を下げて頼るという選択肢もあるわ。けれど……少なくとも今は、その状況にはない。わざわざリスクを冒してあの泥沼に飛び込む必要はないのよ」
彩香の言葉は、冷酷なまでに理にかなっていた。良子は難しそうな表情を浮かべ、小さく息を吐き出した。
「……ごめんなさいね。私も頭ではちゃんと理解しているのだけど……まだ、どこかで人に期待してしまうのよ。この世界に、まだ順応できていないわね」
「いいえ、優しすぎるだけよ」
彩香はそう言って表情を和らげると、僕に向き直った。
「マサキさん、デパートは諦めて、このまま街並みを探索しましょう」
「そうだな。そこの交差点を曲がってみよう」
僕たちはデパートから離れ、街の目抜き通りへと車を進めた。
この街を経由して温泉地に向かう人々が多く、かつては観光客で賑わっていた場所だけに、普段から人が多かったせいか徘徊しているゾンビの数も予想以上に多かった。うっかり狭い路地に入り込んでしまえば、死体の壁に進路を塞がれて抜け出せなくなる危険がある。慎重に、フォードの巨体でも余裕を持って方向転換できる大通りだけを選んで走らせた。
車窓から見える景色は悲惨だった。シャッターが完全に閉め切られた店、ガラスが乱暴に割られて中がスカスカに荒らされている店など様々だったが、特にコンビニや個人の商店――とりわけ「食料品」を扱う店が、執拗に襲われているのが一目で分かった。
大災害に見舞われた時、人間が真っ先に向かうのはやはり食料の確保なのだろう。
「残念だけど、この辺りでの食料の調達は難しそうね……」
彩香が落胆したように呟く。
「そうだな……。あ、そういえば彩香、別荘にある食料ってあとどれくらい持ちそうなんだ? 数日分くらいか?」
何気なく尋ねると、彩香から意外な返事が返ってきた。
「そうね……。贅沢を言わなければ、あと2週間ってところかしらね」
「えっ? 2週間も?」
僕は驚いて声を上げた。スーパーから持ってきたカップ麺やレトルトだけでは、数日分が限界だと思っていたからだ。
「ウフフ、実はね、さっき別荘で荷物を整理していた時に、咲愛ちゃんが思い出してくれたのよ。『ママと一緒に掃除に来た時、床下に大きな冷凍庫があったよ』ってね。確認してみたら、本当に大容量の業務用冷凍庫があって、中に高級なお肉や食材がたくさん眠っていたの。すでに電気は止まっていたけれど、気密性が高かったおかげで、真ん中の方の食材はまだカチカチに凍っていたわ。今夜からしばらくは、かなり豪華なご飯が食べられるわよ」
「……あの子には、本当に助けられてばかりだな」
僕は感心すると同時に、咲愛を連れてきて本当に良かったと心の底から思った。
「クスッ、本当にそうね。驚くほど頭のいい子だわ」
彩香が誇らしげに笑う。
「それなら、今日のところは無理に危険を冒してまで食料を探索する必要はなさそうだね。一旦別荘に戻ろうか」
「そうなんだけど……ねぇ、マサキさん?」
そこで彩香が、何か意味深に言葉を止めて言い淀んだ。
「どうしたの?」
「……あのね。良子さんは、今着ている白衣のワンセットしかないのよね?」
「ええ……」と、後部座席から良子が少し極まり悪そうに口を開く。「施設からはマサキさんに眠らされて……ですから準備する時間なんて全くなくて。その……お恥ずかしい話、お化粧の道具の類も、何一つ持っていない状態なんです」
「そうなのよ。そして私も、それが欲しくて……実はデパートなら、一通り揃うだろうって期待していたの」
彩香の言葉を聞いて、そういうことか」と内心で得心がいった。
僕自身は、平時でも洗顔料やスキンクリームを使うくらいで、最悪そんなものは無くても全く問題ない。衣服だって、夜に洗って裸で寝て、翌朝に乾いた同じものを着ればいいとさえ思っていた。男なんてそんなものだ。
だが、女性にとっては全く話が違うのだろう。
「マサキさん。女っていう生き物はね……好きな人の前では、いつでも世界で一番美しくいたいものなのよ?」
助手席の彩香が、潤んだ瞳で僕をじっと見つめてくる。
「……そ、そうですよね。身だしなみを整えることは、精神的な健康を維持するためにも、医学的にとても重要な役割を持っているはずです……」
良子までもが、顔を真っ赤にしながらも必死に彩香に同調してきた。
バックミラーと助手席から、二人の美女に見つめられ、車内に無言の圧力が満ちていく。
本心を言えば、二人はすっぴんだろうが衣服が少々汚れていようが、元の素材が抜群に良いので十分に綺麗だし、僕としては何の問題もない。だが、彼女たちにとっては、それがアイデンティティに関わるほど重要なことなのだと思い直した。
それに、男としても、一緒にいる彼女たちがより綺麗で着飾ってくれている方が、見ていて圧倒的に嬉しいし興奮する。
「なるほど、よく分かったよ。それじゃあ、次の目標は決まったね」
僕はニヤリと笑い、フォードのギアを入れ直した。
「食料はひとまず置いておこう。今から、オシャレなブティックと、高級な化粧品が残っていそうな専門店をメインに探そう」
「まぁ! さすがマサキさん、話が早くて大好きよ!」
彩香が嬉しそうに僕の腕に抱きつき、良子もホッとしたように小さく笑みをこぼした。僕たちは女たちの美の物資を求め、夕闇の温泉街へとさらに深く切り込んでいった。




