目的地
僕たちはそれぞれ車に乗り込み、フォードは静かにY市に向けて出発した。
「あ、チョコレートがあったよ! みんなで食べようよ」
ショッピングモールで見つけたのか、咲愛が嬉しそうな声を上げた。
「咲愛、いいものを見つけたね。1つ貰おうかな」
「マサキさんは運転しているんだから、わたしが食べさせてあげるわ」
助手席の彩香が、包装を剥いたチョコレートを一粒、口元へと運んでくれた。ぱくりと口に含むと、濃厚な甘みが脳に染み渡る。必死の脱出劇で忘れていたが、そういえば昨夜からまともな物を食べていなかった。猛烈な空腹のせいで、いつも以上に美味しく感じられた。
「そういえば朝食がまだだったね。Y市に入ったら、どこか安全そうな場所を見つけて何か食べよう」
「ええ、そうね。どこか落ち着ける所でいただきましょう」
「あの……マサキさん、お身体のキズも心配です。少し落ち着いたら、私に診せてくださいね」
後部座席から、良子が少し硬さの残る声で、それでも医師らしい気遣いを見せてくれた。
「ありがとう、良子。確かにさっきからゾンビに噛まれた傷が、少し痛むんだ」
この辺りは遮るもののない広大な田園地帯が広がっている。その真ん中を、脇道ひとつない直線道路が真っ直ぐに伸びていた。見通しは抜群に良い。これなら、もし不審な車が近づいてきてもすぐに発見することが――。
「……待って。あの対向車って……!」
奈緒の緊張した声が響く。
「マズいわね……昨日の奴らの車よ。あと少しでY市だというのに……っ!」
彩香の表情が戦慄に染まる。
視線の先、陽炎の向こうから走ってくるのは、見覚えのある黒いセダンだった。間違いない、昨夜から執拗に僕たちを追い詰めてきたトリプルXの車両だ。僕は迷わずアクセルをベタ踏みし、フォードの巨体を猛加速させた。
おそらく、向こうもこちらに気付いている。何かしらの妨害工作を仕掛けられる前に、一瞬ですれ違うしかない。
一番厄介なのは、車体を横にされて道路を完全に封鎖されることだ。しかし、奴らもこのフォードのパワーを知っているはずだ。下手に塞げばセダンごと木端微塵に吹き飛ばされる。さすがにその無謀な選択はしてこないだろう。正面衝突の可能性も低い。となれば、残る手段は一つ――。
「みんな! 発砲される可能性がある、頭を下げて身を隠してくれ!!」
パシン――ッ!!!
言い終わるのとほぼ同時、鼓膜を突く高い衝撃音が響いた。フロントガラスの運転席側に一筋の亀裂が走る。奴らがすれ違いざまに発砲してきたのだ。だが、ガラスは貫通することなく、小さくひび割れた程度でその弾丸を完全に弾き返した。
咲愛の言っていた、工藤のオヤブンが戦車だと自慢していた、という言葉は、紛れもない事実だった。この車は、特殊な防弾ガラス仕様になっているのだ。
「……本当に撃ってきたわね。この車じゃなかったら、今ので大惨事になっていたところだわ」
彩香がじっとフロントガラスの傷を見つめながら呟いた。
「ああ。本当にこの車で助かったよ」
一瞬の交錯の後、黒いセダンとすれ違った。バックミラーを覗き込むと、セダンが激しいタイヤ痕を響かせて急停止し、猛スピードで方向転換している様子が見えた。
すれ違いの加速で距離自体は稼げたが、いかんせんこの見通しの良さだ。こちらがY市に向かっていることは完全に露呈してしまっている。ただ真っ直ぐ逃げるだけでは、追手の思考を上回ることはできない。何か意表を突くルートは無いのか。
「彩香、この近くに高速道路のインターチェンジはなかったか? さっき緑の道路標識を見た気がするんだが」
「あるわよ! Y市に向かう脇道に入ってすぐのところよ……なるほど、高速に乗る気ね。事故車なんかで封鎖されている可能性もあるけれど、この車の馬力なら押し通せるわ!」
僕はハンドルを左に切り、Y市方面への分岐へと滑り込んだ。少し進むと、予想通りインターチェンジの料金所が見えてきた。速度を落とすことなく、無人の料金所の遮断バーを強引に突き破り、そのまま高速道路へと突入した。
本線への合流直前、上り線と下り線の分岐が現れる。僕は直感に従い、左側の車線へとハンドルを思い切り切った。
「マサキさん、私たちは今、どこに向かっているの?」
奈緒が恐る恐る尋ねてきた。
「……さあ、分からない。どこか、行きたい場所はあるかい?」
「プッ、アハハ! 逃げ切った途端にそれ? 相変わらずね、マサキさんは」
ひとまず追手の姿が見えなくなったことで安堵したのか、彩香にいつもの妖艶な笑顔が戻った。彼女は後部座席の面々に振り返る。
「まあ、選択肢は無限にあるわ。奈緒さん、白崎さん、咲愛ちゃん、どこか行ってみたい場所の希望はあるかしら?」
「別荘は?」
誰も予想していなかった、咲愛の小さな唇から飛び出した提案に、車内の全員が不思議そうな顔で見つめ合った。
「咲愛ちゃん……なにか、心当たりがあるの?」
「うん。この高速道路、前にお母さんと一緒に、工藤さんの車に乗せてもらって来たことがあるよ。その時に、工藤さんの別荘に連れて行ってもらったの」
なるほど。広瀬さんとヤクザの組長・工藤の詳しい関係性は依然として謎だが、工藤が咲愛を我が子のように可愛がっていたのは事実なのだろう。そんなお気に入りの母子を自分の別荘に招待していても、何ら不思議はなかった。
「だけど咲愛、その別荘の場所は覚えているかい? ここから行けそうか?」
「道は細かく覚えてないけど、大丈夫だよ」
「どういうことかしら?」
「ナビで『別荘』って言えば、場所を教えてくれるよ」
「ウフフ、なるほどね。本当に賢い子だわ、咲愛ちゃんは」
彩香が感心しながらナビの画面を操作し、音声入力を起動した。「――『別荘』」
《……ベッソウハ、サンケン、トウロクサレテイマス……》
システムが機械的な音声を返す。表示されたリストの中から、現在地と同じ県内にある物件を指でタップした。
《……ルートアンナイヲ、ヒョウジシマス。トウチャクヨソウジカンハ、ヨンジュウサンプンデス……》
画面に表示されたルートを確認する。目的地は2つ先のインターチェンジを下り、そこからさらに険しい山道を登った先だった。その周辺は、地元では有名な温泉地帯として知られている場所だ。
「咲愛、もう少し詳しく教えてくれるかい? そこには今、誰か住んでいるのかな? それと、中に入るための鍵はどうしていたか知ってる?」
「うんとね……誰も住んでないよ。いつもお母さんが料理とか掃除をしに行ってたから。それとね、鍵ならここに入っているはずだよ」
そう言って、咲愛は運転席と助手席の間にある大型コンソールボックスのボタンを指差した。カチリと蓋を開けて中を覗き込むと、そこにはいくつかの鍵が付いたキーケースが収まっていた。
「いつもこの鍵を使って中に入ってたの」
「……みんな、どう思う?」
僕はハンドルを握りながら、バックミラー越しに意見を求めた。
「わたしは、その別荘に行くのに大賛成よ」と彩香。
「私も、そこへ行ってみたいです!」と奈緒も目を輝かせる。
「私も賛成するわ。それよりも……咲愛ちゃん、あなたの記憶力は本当に凄いわね。今度じっくり知能テストをしてみたいくらい。IQが恐ろしいことになっていそうだわ」
良子が医師としての興味を惹かれたように、咲愛を驚嘆の目で見つめた。
「そうだね。彩香も良子も頭が良いから、落ち着いたら咲愛の勉強を見てあげるといい。マンションにいる冬子も賢いし、学校に行けない今の状況でも、彼女たちの教育に関する心配は必要なさそうだ。……雪乃は、あまり勉強が得意そうじゃないけれどね」
「雪乃ちゃんなら知ってるよ! でもね、なんだか、わたしのことは苦手みたい」
咲愛が少しだけ寂しそうに唇を尖らせた。
「ああ……雪乃が咲愛を苦手にする理由は、僕にも何となく分かる気がするな」
「ふふ、雪乃ちゃんは裏表のない正直で良い子だから、咲愛ちゃんみたいな大人びたタイプとは、少し相性が悪いのかもね」
彩香がクスリと笑う。
そんな他愛のない、まったりとした会話を交わしながら、フォードはエンジン音を心地よく響かせ、山奥に眠る未知の別荘へと向かって高速道路を滑るように走り続けた。




