逃亡計画
良子はしばらくの間、ただ静かに地面を見つめて黙り込んでいた。
すぐに僕のやり方を受け入れるのが難しいのは当然だ。まして彼女は、これまでの人生を人の命を救うことに捧げてきた医師なのだから。生き残るためとはいえ、人殺しを肯定することは彼女のプライドと道徳心が許さないのだろう。
「君には僕たちと共に行動してほしいと思っている。だけど、もしどうしても難しいと言うなら、無理に強制はしないよ」
僕が語りかけると、良子は力なく自嘲気味な笑みを浮かべた。
「拒否したところで、今の私には行く宛なんて無いのよ? 事実上の強制なんじゃないかしら……」
「そんなことはないよ。世界がこうなってからも、外には大小さまざまなコミュニティが作られているはずだ。そこで暮らせばいい。医師という肩書きがあれば、どこの集団に行っても大歓迎されることはあっても、拒否されることなんて絶対にないからね」
「……なるほどね。確かにあなたの言う通りかもしれないわ」
良子は少し驚いたように目を見張り、それから小さく息を吐いた。
「しばらくの間、考えさせてもらってもいいかしら?」
「もちろんだ。それから、あらかじめ伝えておくけれど……僕たちのコミュニティには、男は僕しかいない。そして、中心になっている女の子たちとは全員、身体の関係があるんだ」
その言葉に、良子は一瞬だけ目元を険しくしたが、すぐに納得したように頷いた。
「奈緒さんや彩香さんの態度を見ていて、そんな気はしていたわ。まるで一昔前のハーレムね」
「そう直球で言われると少し恥ずかしいよ。だけど、僕たちがこのスタイルを選んだのには、それなりの理由と経緯があるんだ」
それから僕は、崩壊した世界で信頼関係を維持するための方法や、彼女たちとこれまで歩んできた凄惨な道のりについて包み隠さず説明した。良子は時折、ショックを受けたように厳しい表情を浮かべながらも、最後まで真剣に僕の話に耳を傾けてくれた。
「……あなたが彼女たちを本当に大事にしていることや、彼女たちがあなたを信じる気持ちは、よく分かったわ。それでも私は……すぐにその関係を受け入れるという約束はできない」
「分かっている。これまで生きてきた道徳心や社会の常識を、一日で捨て去るなんて不可能なのは百も承知だ。それでも、結論が出るまでは行動を共にしてほしい」
「ええ。それについては、こちらからもお願いするわ。他に行く宛がないのは事実なのだから……」
話し合いを終えて車に戻ると、良子は先ほど彩香たちに向けて錯乱してしまったことを静かに詫び、改めて毅然とした態度で自己紹介をした。
「白崎良子です。ご存知かと思いますが医師で、医療老人施設『憩いの里』の施設長をしておりました。これからよろしくお願いします」
「黒木彩香です。先程は取り乱して手を上げてしまい、本当に申し訳ありませんでした。白崎さんのことはマサキさんから伺っております。今後ともよろしくお願いいたしますわ」
「あたしは前に一度自己紹介してるから省略するね。白崎先生、これからよろしくお願いします!」
「広瀬咲愛です! 井上さんと同じマンションに住んでいて、ママはコンビニで働いていました。彩香さんも奈緒ちゃんも、前に見たことあるから知ってるよ!」
「まあ、そうなのね、咲愛ちゃん。あなたはとっても頭が良さそうね」
良子が少し表情を和らげる。
「よく言われるよ! それとね、わたしは井上さんが大好きなの!」
咲愛が胸を張って無邪気に宣言した。
「プッ……アハハ! マサキさんは本当に年齢問わずモテるのね。咲愛ちゃん、ここにいるみんなマサキのことが大好きなのよ。お仲間ね、仲良くしましょ?」
彩香の茶目っ気のある笑い声に、車内の張り詰めていた空気が一気に和らいだ。咲愛も「はーい!」と元気よく返事をする。
咲愛の発言の内容には少々突っ込みどころがあったが、場の雰囲気が解れたのは幸いだった。
しかし、すぐに彩香は表情を引き締め、真剣なトーンで切り出した。
「和気あいあいとした雰囲気に水を差して申し訳ないのだけれど、とても大事な話があるわ」
「どうしたんだい?」
「マサキさんが戻ってくるまでの間、この車のドライブレコーダーの映像をチェックしていたの。……施設から脱出する時、マサキさんは10人以上の男たちを跳ね飛ばしているわ。そのうち、少なくとも5人は即死か、命を落としているはずよ」
「……逃げるのに必死だったからね。それに、施設の中でも見張りとアキラの2人を殺した」
「そのことでマサキさんを責めるつもりは微塵もないわ。あの状況では、それだけの事をしないと絶対に全員で生き残れなかったもの」
彩香は優しく首を振った。
「分かってくれると助かるよ。それで、彩香は何を懸念しているんだ?」
「そうね……集団を統率する方法はいくつかあるけれど、私たちのグループはマサキさんへの純粋な愛情や信頼でまとまっているわよね。だけど、あのトリプルXという半グレ集団は、おそらく暴力と恐怖だけで仲間を支配しているのよ。だからこそ、見せしめのために必要以上の大量殺害や凄惨な略奪を行う」
「なるほど……排除目的だけでなく、残った仲間を恐怖で縛り付けるために殺しを行っているのか。確かに、ただ物資を奪うだけなら皆殺しにする必要はないからな」
「そうなの。そしてあなたは、そんな彼らの恐怖の象徴である幹部や仲間をたくさん殺して、さらに逃亡した。彼らにとって、これは組織の威信に関わる絶対に許されない反逆行為よ。だから、面子を保つためにも死に物狂いであなたを追ってくるわ。当然、追跡の距離には限界があるでしょうけれど、この周辺はいつ追手の車両が来てもおかしくない危険地帯よ」
彩香の指摘はあまりにも的確だった。
施設からはすでに数十キロは離れているが、奴らが車を使って逃亡ルートを絞り込んでくれば、すぐにでも追いつかれる可能性がある。
「……しばらくは、マンションには戻れないな」
「ええ。マンションに残っている冬子さんと雪乃ちゃんには、何があっても絶対に外へは出ないように厳重に言い含めてあるから、彼女たちの安全は大丈夫よ。むしろ、今の私たちが安易に戻る方が、あの拠点に最悪の危機を持ち込むことになるわ」
仕方がない。当面の間、あの快適なマンションに戻ることは諦めよう。とにかく追手の届かない遠くへ逃げることを最優先に考えなければならない。
「よし、分かった。各自すぐに動こう。奈緒はスーパーの中から長期保存ができる食料を集めてきてくれ。良子は隣のドラッグストアから、医療や応急処置に使えそうな物を見繕ってほしい。僕はそこらに放置されている車からガソリンを抜き取って燃料を集める。彩香はナビの地図を見て、最適な逃亡先を考えておいてくれ」
「「「はい!」」」
「わたしは!? わたしもみんなの役に立ちたい!」
咲愛が不満そうに僕の服を引っ張った。
「咲愛は本当にいい子だな。それじゃあ、奈緒のサポートに回って、ついでに自分の好きなお菓子でも探してきておくれ」
「もう、子供扱いしないでよ!」
頭を撫でてやると嬉しそうにしつつも、彼女は頬をぷくっと膨らませて言い返してきた。本当に大人びていて可愛い子だ。
作業を始める前にフォードの車体をチェックしたが、ヤクザの組長が「戦車」と自慢するだけあって、バンパーや側面にいくつかの凹みや傷があるものの、走行機能には全く問題がなかった。奴らに発見されるリスクはあるが、この頑丈な移動要塞を乗り捨てるという選択肢はあり得なかった。
スーパーの資材置き場に灯油用のポリ容器がいくつか転がっていたので、それを利用して道路上の放置車両からガソリンをシュポシュポと抜き取り、フォードのタンクへと補給していく。
やがて、奈緒や良子たちが両手に大きな荷物を抱えて戻ってきた。そろそろ出発しなければ、本当に追手が目と鼻の先まで迫ってくる。
「咲愛ちゃんが、この車は家庭用の電源が取れるんだよ、って教えてくれたので、車内で使える電磁調理器や、レトルト食品、カップ麺を中心に集めてきました!」
奈緒が息を弾ませながら報告してくれた。
「私は応急処置用の医療品や、抗生剤、各種補助薬品類を可能な限り見繕ってきました。ただのドラッグストアかと思いましたが、調剤薬局も兼ねていたようで、専門的な治療薬が豊富に揃っていて驚きましたわ。こんなことなら、施設にいる時にもっと……」
良子は少し悔しそうに言葉を濁した。
「二人とも、短時間でよくやってくれた。咲愛もナイスアシストだ、ありがとう」
高度な医療物資の選定は良子に任せておけばこれ以上ないほど安心だし、いつもながら奈緒の手際の良さには救われる。何より咲愛は、子供でありながら自分が今何をすべきかを正確に認識している。本当に驚くほど頭が良い。
「それで、彩香。逃亡先の目星はついたかい?」
「ええ。ここからの選択肢としては、このままN市に入って大都市の混沌に潜伏するか、あるいは逆方向の隣にあるY市へ向かうのが現実的かしらね……」
N市は、僕が以前に住んでいた地方有数の大都市だ。奈緒の通う大学や彩香の勤め先もあるため、土地勘という点では申し分ない。しかし、人口が多い分だけゾンビの数も圧倒的で、物資や安全な住居の確保が極めて難しいというデメリットがある。何より、トリプルXの行動圏内や逃亡の方向性を考えると、真っ先に捜索網に引っかかるリスクが高かった。
一方でY市は、広大な田園地帯が広がる人工の少ない地域だ。物資の調達には欠けるが、身を隠して追手を晦ますにはこれ以上ない環境と言える。
もしトリプルXが執拗にY市にまで捜索の手を広げてくるようなら、その時にまたさらに遠くへ逃げればいい。
「よし、Y市に向かって、どこか適当な場所に潜伏しよう」
「そうね、それが賢明だわ。N市に飛び込むよりは遥かに安全よ。そこでしばらく身を潜めて、ほとぼりが冷めたらマンションに戻りましょう」
「Y市に向かうとなると……少し道を戻ることになりますね」
良子がナビの画面を覗き込みながら指摘した。
彼女の言う通り、昨夜命懸けで逃走してきた道を一度逆戻りし、あの思い出の橋の手前で左に折れて進路を大きく変えなければならない。追手と鉢合わせる危険性が最も高い瞬間だ。
「その通りだ。だからこそ、奴らがここに辿り着く前に、一刻も早く移動を終わらせよう」
僕たちは急いで手に入れた物資をフォードの荷台へと積み込み、それぞれ定位置へと乗り込んだ。
エンジンが重低音を響かせて目を覚ます。僕はギアをドライブに入れ、追手との再戦、そして新たな潜伏生活の始まりとなるY市に向けて、力強くアクセルを踏み込んだ。




