現実
パチン――。
何かの夢を見ていた気がする。だが、頬に走った鋭い痛みで、僕は強制的に意識を現実へと引き戻された。
パチン――!
うっすらと目を開けると、開け放たれた運転席のドアの前に、怒りで顔を般若のようにして睨みつけてくる良子の姿が視界に飛び込んできた。
「ああ……君か。おはよう、よく眠れたかい?」
「なっ……! よくもそんな呑気なことが言えるわね! 私を無理やり眠らせて、拉致同然に連れ去ったくせに!」
「君がまともに僕の言うことを聞かないから、ああするしかなかったんだよ」
「私は……あそこで死ぬ覚悟はできていたのよ!」
ガチャン。
不意に助手席のドアが開く音がして、しばらくすると良子が僕の視界から乱暴に引き剥がされた。
パシーン!!!
乾いた、そして先ほどよりも遥かに重い衝撃音が周囲に響き渡った。
「な、何ですか……いきなり何をなさるの!?」
良子の動転した声。
「あなた、まずはマサキさんにお礼を言いなさい! あなた一人のために、あの人は命を賭けたのよ!? そのお陰で私たちだって死にかけたわ。まあ、私はマサキさんの選択なら一緒に死んでも一向に平気だけれど……奈緒さんや咲愛ちゃんまで危険に晒したのよ!?」
彩香の容赦のない怒声だった。
「彩香さん、私もマサキさんのためなら死んでも平気です!」と奈緒が加勢する。
「わたしも、死んでもいいよ?」
後部座席から、咲愛までが当然のように口を開いた。
「咲愛ちゃんまで……あなたたち、揃いも揃っておかしいわ! 井上さんが私に何をしたのか、何も知らない癖に……! 私は、私は彼に無理やり犯されたのよ!? 大切な初めてだったのに……っ!」
良子はついに耐えかねたように、涙混じりにぶちまけた。だが、それを聞いた彩香は全く動じる様子もなく、むしろ憐れむような冷ややかな微笑さえ浮かべて言い放った。
「白崎様。マサキさんの強引な行為については、私が代わりにお詫びいたしますわ。傷付けしてしまってごめんなさいね」
「彩香さん……だったかしら。せっかくの申し出だけれど、部外者のあなたにお詫びされる筋合いなんてないわ!」
「いいえ、大有りですの。常々、気に入った女性がいるなら、どんなに強引にでも手に入れなさい、とマサキさんにお願いしておりますから」
良子は絶句し、信じられないものを見る目で僕に視線を向けた。
「井上さん……聞かせてください。あなたは、彩香さんに言われたから私を襲ったのですか?」
「違うよ。彩香の意見を参考にさせてもらっているのは確かだけれど、あの状況で急いで君と関係を持ったのには、僕なりの絶対的な理由があるんだ。……彩香、君の気持ちは嬉しいけれど、少し良子と二人だけで話をさせてくれないか?」
「……もちろんですわ。私はマサキさんが殴られている姿を見て、少々冷静さを欠いてしまいました。申し訳ありません」
彩香は一歩引き、奈緒たちを連れてまた車へと戻っていった。
僕は良子の腕を引き、彼女を車から少し離れた静かな場所へと連れ出した。
「僕の話を聞いて欲しい。いいかい?」
「……はい。恥ずかしいです、まるで十代の子供みたいに喚いてしまって……」
良子はうつむき、赤くなった頬を押さえた。
「そういう不器用なところも可愛いよ。僕は君の、そのどこまでも真面目で誠実なところが好きなんだ」
「……ずるいですよ、あなた。そんな風に言われたら、私、何も反論できなくなります……」
「ごめん。だけど、僕が君に強く惹かれていたのは紛れもない事実なんだ。あの日、医務室を出た後、僕は浜田と話をしていた。あいつはすでに施設を自分の支配下に置くつもりで、君を強引に自分の嫁にすると言ったんだ。それと同時に、僕に施設の女性をあてがう代わりとして、奈緒を自分たちに抱かせろ、ともね」
「なるほど……。今となっては、それが本当のことだと分かります」
「それで僕は、あえて話を合わせて『白崎先生なら異存はない』と言った。すると浜田は調子に乗って、それなら急いで君を自分の物にしようと言い出したんだ……。僕はね、自分の好きな女が、あんな薄汚い男たちに乱暴されるのが絶対に許せなかった。だから、浜田の手から君を守るには、先に君を僕の物にするしかないと考えたんだ。それで……あんなに強引な関係を持ってしまった。これに関しては、本当に謝罪する。ごめん」
「待って……謝らないで……っ! 嫌なの、あなたに謝られたくない!」
良子は僕の言葉を遮り、激しく首を振った。
「私とのことを……失敗だったなんて、思ってほしくないの……」
「良子……」
「私は……あなたが好き。初めて会ったあの日から、あなたのことばかり考えていたわ。何度も大怪我をして帰ってくるあなたを見るたびに、心が引き裂かれるように痛かった……。本当は私のそばで、安全に暮らして欲しかったのよ。……それとね、やっぱり、その……初めては、もう少し……優しくして欲しかった」
医師であり施設の責任者、社会的にも高い地位にいた良子が、まるで無垢な少女のように恥じらいながら本音を吐露する仕草は、たまらなく愛おしかった。
だが、僕は彼女をただ甘やかすわけにはいかなかった。現実を教えなければならない。
「……話してくれてありがとう。それともう一つ、伝えておかなくちゃいけないことがある。僕は、世界がこうなってから、生き残るために人を殺すことを厭わない人間になった」
「殺すだなんて……そんな言葉、簡単に使わないで」
「本当のことだ。現実に……君は知らないけれど、かつて冬子や彩香に乱暴した男たちをこの手で殺している」
「そんなこと、絶対に許されません! 人の命は重いんです。たとえ大罪を犯した人であっても、あなたに彼らを裁く権利なんてないわ。……そう言えば、さっきの施設でも、負傷した患者を殺しましたよね!?」
「ああ、殺した。でも聞いてほしい。警察も法律も機能していない今の狂った世界では、場合によっては殺さなければ自分が殺されるんだ。君はあの安全な施設の中に閉じこもっていたから、外の本当の現実が分かっていないんだよ」
「そんなことはありません!」
「いや、分かっていない。……ちょうどいい、このショッピングモールの中を見て回ろう」
僕は頑なな良子の手を引き、目の前にある寂れたショッピングモールへと向かった。店内は激しく荒らされており、床の所々にはどす黒い血痕がこびりついている。
「まだ、多少は食べられる物が残っていそうだね」
「そうですね……乾麺やレトルト食品なら、まだ無事だと思います」
良子は怯えながらも、医師としての観察眼で店内を見回す。僕は物資を探索するフリをしながら、彼女を意図的にスーパーの右手にある搬入口へと誘導した。
「あれが……何だか分かるかい?」
「何でしょうか、ブルーシートの奥に山積みになって……。あっ! 動いている……嘘、まさか……!」
良子が短い悲鳴を上げて口元を抑えた。
「手足を拘束された、ゾンビの成れの果てだ。生きたまま殺され、身動きが取れないように縛り上げられてから山積みにされると、ああなるんだよ。……何処かで、見覚えはないかい?」
「施設と……同じね。あの梱包用の、青いPPバンドを使っているところまで……」
「あそこの壁を見てごらん」
僕が指差したコンクリートの壁面には、スプレー缶で荒々しく巨大な文字が殴り書きされていた。
「XXX……トリプルX……」
良子は呆然とその文字を呟いた。
「施設を襲った奴らは、人の命を何とも思っていない凶悪なクズどもだ。君が彼らの言う通りに治療を続けたところで、施設が救われることなんて絶対に無かったんだよ。彼らの怪我が治れば、その瞬間に全員用済みとして殺されていた。……僕は、どうしても君を助けたかった。だから、無理やりにでも眠らせて連れ出したんだ」
「……」
良子はそれ以上、一言も発することができなかった。突きつけられた最悪の現実と、自分を縛っていた甘い理想の崩壊を前に、ただただ絶望の眼差しでゾンビの山を見つめ続けていた。




