説得
運び込まれた負傷者は5人。その中でもアキラと呼ばれる幹部の男は、何が何でも必ず治療しろと脅されていた。
3階の治療室に到着した際、室内に咲愛の姿はなかった。ひとまずは無事に脱出してくれたのだろうと胸を撫で下ろす。
幹部のアキラは顔に激しい打撲痕があり、腕や腹を鋭利な刃物で深く斬り裂かれていた。
「これは重症だわ……。脳内出血を起こしている可能性が高い。CTがないから正確な判断はできないけれど、とりあえず傷の縫合からね」
良子はたとえ目の前の人間が悪人であろうとも、負傷者を見放すことができない性質のようだった。医師としては愛すべき人格かもしれないが、この壊れた世界においては、その優しさはただの足枷でしかない。
「痛みますか? すぐに麻酔をしますから楽になりますよ」
僕は良子のいる部屋の隣にある診療室へ別の患者を運び込むと、すぐさまリュックから岡田の昏睡薬を取り出した。スポイトで液体を吸い上げ、腕を負傷している男の鼻腔へと直接垂らす。
程なくして、男は泥のように意識を失った。
クロロホルムだろうか、成分の詳細は不明だが、どれほど屈強な男であっても効果は抜群だった。ベッドから床へ乱暴に落としてみても、男が目を覚ます気配は一切ない。
僕は男の体を足で蹴り飛ばして部屋の隅へと転がし、適当な毛布を被せて隠した。そのまま廊下へ出て、次の負傷者を迎え入れる。
ふと廊下の窓から外を見下ろすと、施設の老人たちが外へ連れ出され、男たちに殴り倒されている光景が目に飛び込んできた。猛烈な怒りが込み上げたが、奥歯を噛み締めてそれを強引に抑え込む。
こうしてアキラ以外の負傷者を次々と眠らせ、床へと転がしていった。
廊下には見張りの男が1人立っていたが、僕は荷物の入ったリュックを手に取ると、何食わぬ顔で廊下に出て、良子のいる診療室へと声をかけた。
「先生、他の負傷者の処置はすべて終わりました」
「待って、このアキラって患者、やっぱり内出血が――って、え? 井上さん、終わったってどういう事なの?」
「おい! どうなってんだ、こっちは!」
その時、隣の部屋の異変に気付いた廊下の見張りが、怒鳴りながら足を踏み入れてきた。
「今行きますから、待ってください」
僕は平然を装いながら、リュックの奥からサバイバルナイフを引き抜き、逆手に握りしめた。
「どうされました?」
「どうされたもクソもあるか! 何でみんな床に寝てんだよ!?」
「ああ、先生がアキラさんの診察に集中するため、痛みを抑える麻酔で眠らせておいたんです。よく寝ているでしょう?」
「確かに、よく寝てはいるが……うぐっ!?」
不審に思って床の仲間に視線を落とした瞬間、僕は見張りの男の顔面を左手で鷲掴みにし、その喉元へ一気にナイフを走らせた。
肉を割く鈍い感触とともに鮮血が激しく吹き出し、床で眠る仲間たちを赤く染めていく。
「井上さん……あなた、殺したの!? 信じられない……!」
良子が悲鳴のような声を上げた。
「良子、そんな事を言っている状況じゃないんだ! いいから一度、その窓から外を見てみろ!」
僕が窓を指差すと、良子は恐る恐る外を覗き込み、絶句した。
「あれは……そんな、約束したはずなのに……」
外では、殺害された老人や職員の遺体が、荷造り用の青いPPバンドで無残に手足を縛り付けられて放置されていた。
「奴らの約束なんて、最初から紙切れ同然なんだ。早くここから逃げるぞ」
「それでも……それでも私はこの施設の責任者であり、医師なのよ! 負傷した患者を置いて逃げるわけにはいかないわ!」
「分からない人だな……! もうどうにもならないんだ! ここに残ったところで、殺されはしなくても別の場所へ連れて行かれ、犯され、都合の良い道具として治療を強制されるだけなんだぞ!? だから逃げるんだ!」
「それでも私は、医師として――」
目眩がした。この期に及んで、なぜこれほどまでに現実が理解できないのか。死にたいのだろうか?
――ダメだ、それだけは絶対にさせない。こうなったら、力ずくでも。
僕は話の通じない良子をその場に残し、隣のアキラのベッドへと歩み寄った。そして、迷うことなくナイフをアキラの胸へと深く突き刺した。引き抜き、もう一度、深く。
アキラは口から大量の血を吐き出し、数秒ほど痙攣した後に動かなくなった。
「あああああッ!! 何てことを……! 人殺し、あなたは人殺しよ! 乱暴にされたけれど、心のどこかで信じていたのに……!」
完全なパニック状態に陥り、大声で騒ぎ始めた良子の口元へ、僕は岡田の薬をたっぷりと染み込ませた布を容赦なく押し当てた。
彼女は激しく抵抗しようとしたが、数秒と経たずにガクリと意識を失い、その場に崩れ落ちた。
手早くリュックを背負い、気絶した良子の身体を介護用の車椅子へと強引に乗せる。廊下へ飛び出し、復旧させたエレベーターへと向かったが、すでに階段のほうから男たちの怒号が近づいてきているのが聞こえた。
(早く、早く……ドアが開いてくれ……!)
チン――。
電子音とともにエレベーターの扉が開いた。車椅子ごと滑り込み、すぐさま「1階」のボタンと「閉」のボタンを何度も連打する。しかし、老人施設特有の仕様なのか、あるいは救急搬送時の担架を想定してなのか、扉が閉まる速度が致命的なほどに遅い。
「おい! そこ、どこへ行くんだ!」
廊下の奥から男が飛び出してきた。
「はは……ちょっと、急用でして」
極限の焦燥感の中、気の利いた言い訳など思い浮かぶはずもなく、僕は顔を引きつらせて適当な愛想笑いを返すしかなかった。
「待て! 逃げたぞ! 医者がバックくれたぞ!」
完全に扉が閉まり、カゴが下降を始めたが、僕たちが逃亡を計ったことは早々にフロア全体へと発覚してしまった。
(マズい、マズい、マズい……!)
追手が1階へ駆けつけるまで、猶予はほとんどない。車椅子を押した状態で、ここから雪乃の家まで捕まらずに逃げ切ることなどできるのか?
普通に考えれば、99%の確率で追いつかれる。
いっそどこかの部屋に隠れるという選択肢も頭をよぎった。しかし、この施設は電気が生きている貴重な拠点だ。トリプルXの連中は何日も、下手をすれば1週間以上ここに滞在する可能性がある。隠れ続けるのは不可能だ。
唯一望みがあるとすれば、奴らがまだこの施設の構造を把握しきっておらず、裏口の存在を知らないケースだけだ。正面の封鎖だけに手を取られているなら、勝機はある。それに賭けるしかない。
チン――。
大して思考を巡らせる間もなく、エレベーターは静かに1階へと到着した。扉が開くと同時に、僕は良子の乗った車椅子を全力で押し出し、裏門へと向かって猛ダッシュを開始した。




