リミット
「こんなことが、あり得るのか……? 奈緒、そっちの脱出は無事に行けそうか?」
「私は一度マンションに戻って、車を乗り換えてこちらに来ています。彩香さんからは、今夜はライスセンターのあたりまで離れて車を止め、そこで寝るように指示されています」
「悪いが、咲愛ちゃんを連れていってくれ。僕は白崎良子をここから連れ出すだけで手一杯になりそうだ」
「咲愛ちゃん? ああ、あの女の子ですね。分かりました」
「彩香まで動いているのか……彼女のことも心配だな」
「そうですね。彩香さんは、マサキさんが窮地に陥れば、自分が身代わりに成ることも厭わない人ですから」
それから僕と奈緒は急いで3階の診療室へと向かい、咲愛の元を訪れて、すぐにこの施設を出るよう説得を試みた。
子供ながらに頭の回転が早い咲愛は、なぜ逃げなければならないのか理由を知りたがったが、僕を信じろと真っ直ぐに伝えると、小さく頷いて従うと言ってくれた。こうして、まずは奈緒と咲愛の二人が一足先に施設を後にした。
見送った後、僕は彩香の手紙に書かれていた緊急用エレベーターの元へと向かった。しかし、確認してみてもやはり電力は来ておらず、ピクリとも動かない。
仕方がなく廊下の裏手に回り、窓から外の景色を覗き込むと、ここから雪乃たちの家が見えた。確かに近い。走れば5分もかからない距離だ。すでにそこにはフォードの4WDが停まっており、車内で彩香が待機しているのが確認できた。
彩香の手紙には、もし白崎先生を連れ出すのが無理そうなら諦めて、僕一人だけでも逃げてほしいと書き添えられていた。
確かに、今の良子を連れ出すのは至難の業だ。セックスはしたものの、あれはほぼレイプだった。彼女が自ら僕に付いてくるとは到底思えなかった。
一度良子の部屋に戻ると、彼女は乱れた衣服や髪をすっかり整え終えているところだった。
「あなた、まだいたの? はやく出ていって」
「乱暴にしたのは悪かった。思いのほか興奮してしまったんだ。でも、君は凄く良かったよ」
バシッ!
言葉の途中で、顔面にスリッパが飛んできた。余計な一言が、彼女の怒りに火を注いでしまったようだ。
「そんな事を言えば、私が喜ぶとでも思っているの? バカにしないでよ!」
「困ったな、今は言い争いをしている場合じゃないんだよ。僕と一緒にここを出ないか?」
バシッ!
またしてもスリッパが飛んでくる。完全にヒステリー状態だ。こうなってしまった女は、しばらくの間はまともな会話が成り立たない。
「私はこの施設の責任者よ? 放り出して出られる訳が無いでしょ!」
良子がそう反論することは百も承知だったが、まずは僕の要求を伝えておきたかったのだ。どう説得したものかと考えていると、突然ドアが開き、浜田が不敵な笑みを浮かべて話に割って入ってきた。
「それは君の思い違いだよ、先生。ここのトップは私だからな」
「浜田くん……何を言っているの?」
「君も薄々気が付いているだろ? もう誰も君の言うことなど聞いていないことに。それよりも井上さん、ずいぶんと手が早い。まさか昼間からレイプするとは思いませんでしたよ」
「あなたには関係のないことよ!」
パシッ!
浜田は良子を冷酷に睨みつけながら歩み寄ると、その細い頬を容赦なく張り倒した。
「痛っ……な、何をするの……!?」
「うるさい、この売女が! 僕が嫁にしてやろうと思っていたのに、知り合って間もない男に尻を振っているからレイプされるんだ」
「誰があなたなんかと結婚するのよ!」
パシッ!
「お前は黙ってろ。それより井上さん、約束は果たして貰いますからね。――おい、奈緒さんを連れてこい!」
浜田が部屋の外へ指示を出すと、大場ともう一人の男が、奈緒と咲愛の抑えつけて部屋へと入ってきた。二人は先に脱出したはずだったが、運悪く捕まってしまったようだ。
「マサキさん、すいません……っ」
「おい井上! お前、先生をレイプしたのかよ……許せねえ!」
ガツン! と腹に強烈な衝撃が走った。大場の鋭い膝蹴りが僕のみぞおちに突き刺さる。身体が崩れ落ちたところを、すかさず胸ぐらをつかまれ、顔面を容赦なく殴りつけられた。
嫌がる良子を無理やり玩具にしたのは紛れもない事実だ。本人を前にして言い逃れをする気にもなれず、僕はあえてされるがままに暴行を受け入れていた。
しかし、思わぬところからそれを制止する声があがった。
「大場くん、やめて……やめなさい! レイプじゃないわ、合意よ。私も受け入れたのよ!」
「先生、こんな奴を庇うなよ!」
「本当に和姦よ。少し強引だったけれど、私も井上さんに好意を持っているの。だから乱暴はやめて!」
「クソが……! 消えろ!」
良子の必死の言葉に、大場は殴るのをやめた。しかし、怒りの矛先を失った気持ちが収まらないのか、激しく悪態をついていた。
「大場、落ち着け。お前の気持ちはよく分かる、白崎先生を慕っていたからな。……だが、お前は奈緒さんに気があるんじゃないのか? 仕方ない、奈緒さんを先に抱くのを許そう」
「奈緒ちゃんを……?」
「ああ。井上さん、いいですよね?」
「いいだろう、奈緒を抱かせてやるよ。奈緒、お前もいいな?」
「……嫌です。でも、マサキさんがどうしてもと言うなら従います」
奈緒は一瞬驚いた顔をしたが、僕の目をじっと見つめ、その意図を察したように静かに返事をした。
「必ず約束は守るから、その前に少し奈緒と二人で話をさせてほしい。大場くんも、嫌がる相手に無理やりするのは本意じゃないだろ?」
「……俺は奈緒さんに惚れてますから、無理矢理するのは嫌です」
「仕方ないな。だけど、妙な真似をして逃げようとは思うなよ。部屋の外で待っているからな」
そう吐き捨て、浜田や大場たちは部屋から出ていった。
「マサキさん、私は嫌です。あなた以外の男に抱かれるなんて、絶対に嫌です……っ」
「分かっている。とにかく奈緒は時間を稼いでくれ。彩香の予想では、あと1時間程で奴らが来る。そうなったら、混乱に乗じて咲愛ちゃんを連れて脱出するんだ」
「分かりました」
それから奈緒と咲愛に確実な脱出ルートの説明を施した。
この施設は、裏門から救急患者の出入りを行っている。3階の治療室には直通の緊急用エレベーターが設置されており、そこからダイレクトに裏の出入り口へと降りることができる構造だ。そこからなら、患者の緊急搬送を迅速に行えるようになっている。
「あそこに見える白い家が雪乃と冬子の家だ。あそこで彩香がフォードを用意して待っている」
「見えるよ。あれ、工藤さんの車だね」
「咲愛は、あの車の持ち主を知っているのか?」
「うん、前にも乗せてもらったことがあるもん。工藤さんはオヤブンさんなんだよ」
「オヤブンさん、か……」
親分さんと言えばヤクザだろう。そんな人間もあの乱交パーティーに参加していたのだろうか。もしかして主催者だったのか? それにしても、どうして普通のパート主婦だと思っていた広瀬さんと繋がりがあったのだろう。彼女にも、僕の知らない裏の顔があったのかもしれない
「そろそろ、話はついたかな?」
ドアが開き、浜田が覗き込んできた。
「ああ、奈緒も納得してくれたよ。だけど、すまないが、その前にシャワーを浴びさせてやってくれないか」
「はい。覚悟は決めましたが……少し汗をかいているので、シャワーを浴びたいです」
「ふふ、よろしい。案内するから付いてきなさい」
奈緒は浜田を少し待たせ、自分の荷物をゴソゴソと探ってから彼の後を付いていった。少しでも時間を稼ごうという彼女なりの機転だろう。
「あの、いいかしら……?」
「なんだい良子。話しかけてくれて嬉しいよ。さっきは庇ってくれて助かったしね」
「勘違いしないで。私はあなたを許したわけじゃないから。……そんなことじゃなくて、さっき言っていた奴らって一体何者なの?」
「奴らとは、トリプルXと名乗っている凶悪な半グレ集団のことだ」
「半グレ……? その集団がここに来るっていうの?」
「ああ。僕の仲間がマンションからこの街を観察していてね、少し前に百貨店が彼らに襲撃されたのを確認している。そして君たちは、さっき駐車場で死体を燃やしていただろ? あの白い煙のせいでこの施設に目を付けられ、探られていたみたいなんだ」
「そんな事になっているのね……煙は控えるべきだったわ。でも、どうしてこんな老人施設を狙うの?」
「恐らく、彼らの中に怪我人がいるのだろう。それに、この施設には自家発電がある。電気が完全に止まっている現状では、喉から手が出るほど貴重な場所なんだよ」
「すぐに浜田くんに話して、みんなで対抗できないかしら?」
「無理だ。僕はトリプルXが略奪した現場を見たことがあるが、目を背けたくなるほど凄惨だった。戦えば、恐らく若い女以外は全員殺される。とても普通の介護士が太刀打ちできる相手じゃない」
「なんてことなの……」
「だから僕は、奈緒と咲愛、それと君を連れてここを逃げようと考えている。その為には裏口のエレベーターが必要なんだ。電力の復旧方法を教えて欲しい」
良子は上を向き、しばらくの間沈黙して考えていた。そして、意を決したように大きく頷いた。
「分かったわ、エレベーターの復旧方法は教えるわ。だから、あなたたちは逃げて」
「あなたたちは、って……君はどうするつもりなんだ?」
「私は残ります。ここは私が父から任されている施設よ。最後まで放り出して逃げるわけにはいかないわ」
「馬鹿なことを言うな。浜田も言っていただろ? ここにはもう君の言うことを聞く職員なんていないって。それに、浜田たちは裏で女子職員に乱暴を働いているんだぞ? もう、この施設は君が思っているような聖域じゃないんだよ」
「……それには、私も薄々気付いていました。何もできない自分を情けなく思っていたわ。だけど、それでもこの施設の施設長は私なの」
これ以上何を言っても無駄だと悟った。だが、僕は良子を諦める気はさらさらない。たとえ一生恨まれようとも、力ずくで連れ出す




