コンビニ帰還
ベランダから壁面に張り出した排水管に手を掛け、慎重に下りていく。排水管のパイプは20センチほどの幅があり、固定している金具も壁面に深く埋め込まれていた。体重を預けても揺らぐことはなく、上を見上げると最上階の7階まで真っ直ぐに延びている。これなら登ることも十分に可能に思えた。
「物理的にはいけそうだけど、精神的にかなり厳しいな……現実的なのは5階までか」
そんなことを考えながら下りていくと、すぐに地面に足が着いた。
上を仰ぎ見ると、ベランダから彩香が小さく手を振ってくれていた。僕も軽く手を振り返す。
思い切って外に出て得られた一番の収穫は、間違いなく彩香と親密な関係になれたことだ。
「本当に綺麗で、素晴らしい身体をしていたな……」
朝起きてからも激しく身体を合わせたばかりだというのに、思い出すだけで下半身がじわじわと熱が帯びてくる。
頭を振って不埒な妄想を追い払い、コンビニに戻る前に少しだけ付近を探索することにした。
コンビニの裏手にある駐車場に向かって歩いていくと、植え込みの影に何かが横たわっているのが見えた。
用心深く足音を消して歩み寄り、ゆっくりと覗き込む。
「うぇっ……これは酷いな……」
あまりの惨状に、強烈な吐き気が込み上げた。男の遺体なのだが、何者かに貪り食われたのだろう。千切れた首の断面から大量の血が流れており、肝心の頭部がなかった。
嘔吐を堪えるように服の袖で口元を覆いながら周りを見回すと、少し離れた場所に、無残に転がっている頭部を見つけた。
「……岡田さんか」
その顔には見覚えがあった。マンションの7階に単身で住んでいる男だ。会社員ではなく投資家らしく、いつも羽振りが良かった。夕方になるとコンビニに悪酔い防止の薬を買いに来るため、自然と顔見知りになったのだ。男はいつも女遊びの自慢話をしており、実際にメルセデスのミニバンにキャバクラ嬢のような派手な女性を乗せているのを何度も見かけたものだった。
隣の駐輪場に古いビニールシートが落ちていた。このまま放置しておくのも忍びなく、頭部を遺体の傍らに戻し、シートをそっと被せてやった。効果があるかは疑問だったが、静かに手を合わせておく。
駐車場を一周見回したが、幸いここにはゾンビの姿はなさそうだった。
コンビニの裏口へと向かい、ドアを軽くノックした。
「井上さん! ご無事で良かったです……! 少しお待ちください」
中からパートの広瀬さんの声が応えてくれたが、なぜかすぐに鍵を開けてくれる気配がない。
「どうしたんだろう。まさか僕がゾンビに噛まれて戻ってきたと疑われているのか?」
そんな不安を抱えながらドアの前で30分ほど待たされた後、ようやく扉が開かれ、店長が出迎えてくれた。
「井上くん、無事で何よりだ。さあ、中に入って外の様子を聞かせてくれ」
「井上さん、おかえりなさい! 良かった、本当に……っ」
店内に数歩足を踏み入れた途端、雪乃が小走りで僕の胸に飛び込んできた。
「雪乃ちゃん、ただいま。無事に戻ったよ。……嬉しいけれど、みんなの前であまり密着するのは……」
――チッ。
「えっ?」
背後から明らかな舌打ちの音が聞こえ、僕は振り返った。すると、大学生の佐藤くんが不自然なほどの笑顔を浮かべて声をかけてきた。
「おかえりなさい、井上さんがいない間、雪乃が寂しがって本当に大変だったんですよ。僕と店長でたっぷり慰めてあげたんですけどね、なあ、雪乃」
「……話しかけないで」
雪乃の拒絶するような冷たい態度に、僕は微かな違和感を覚えた。
佐藤くんは普段、雪乃のことを「雪乃ちゃん」と呼んでいたはずだ。呼び捨てにするほど距離が縮まるようなことが僕のいない間にあったのだろうか。それに、雪乃の態度も恐怖と怒りが混ざり合ったように酷く強張っている。
「井上くん、まずは外の状況を教えてくれないか」
不穏な空気を断ち切るように、店長が真剣な面持ちで話しかけてきた。
「はい。マンションの付近と、僕の部屋がある3階まで見て回りましたが……残念ながら、状況はかなり最悪です」
「ふむ。生存者は見かけたかね?」
……私のことは、絶対に秘密にしておいてね……
脳裏に、彩香の切実な言葉がよぎる。
「……残念ながら、直接遭遇した生存者は見ていません。しかし、夜になってベランダから外の景色を観察していたところ、いくつか明かりがついている部屋がありました。このマンションでも、少なくとも3つの部屋で電気が生きています」
「なるほど……やはりまだ生存者はいるのだな。騒動からまだ3日だ、当然といえば当然だが……」
「それで、井上さんはまた外に行くんですか?」
佐藤くんが探るような目で聞いてくる。
「ああ、何度も外を探索して、安全なルートや食料の備蓄を探すつもりだ」
僕のその言葉を聞いた瞬間、周囲の目も気にせず僕の腕を抱きしめていた雪乃の手が、きゅうと強く強張った。「次は絶対に連れていって」という無言の訴えだと分かった。しかし、僕は彼女の視線を避けるように続けた。
「詳しく説明すると、マンションの正面入り口は20体ほどのゾンビらしき化け物に占拠されていて、まともに侵入できません。僕は仕方なく、ベランダの外壁をよじ登って3階まで行きました」
「外壁を!? 井上さん、ハンパないっすね。……でも、それじゃ女じゃ絶対に無理ですね」
「そんな……」
雪乃が絶望したような声を漏らす。
「ああ。現実的に見て、腕力のない女の子が登るのは不可能だ。登れたとしてもリスクが高すぎる」
「ってことは、次回も雪乃はお留守番だな! 安心しろよ、お前が留守の間は俺がばっちり守ってやるからさあ」
「よくもそんな……『守る』だなんて……っ」
「あんだぁ? 雪乃、何か文句あるのか?」
佐藤くんが低く凄むと、雪乃は「別に……」と顔を背けて口を噤んでしまった。
「そういうことなんで、井上さんは安心して外の探索に行ってきてくださいよ」
佐藤くんはニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべながら雪乃の身体を見つめている。雪乃は顔を真っ赤に染め、怯えるように僕の腕にしがみついていた。
「井上くん、少し込み入った話がある。事務所へ来てくれ」
店長に促され、僕はバックヤードの奥にある事務所へと足を踏み入れた。店長と佐藤くんが椅子に腰掛け、僕はその対面にある長いソファーに腰を下ろす。
「井上くん。君とは現在の状況を踏まえて、今後のルールを再度確認しておく必要があると思っている」
「ルール、ですか。それは何についてでしょう」
「まず、ここは私の店だ。店内の商品の所有権は私にある。君たち従業員が当面の飲食をすることに口を出すつもりはないし、自由にしてもらって構わない。しかし……君も分かるだろうが、もしこの状態が数ヶ月も続くとなれば、配給を制限せざるを得なくなる」
「はい。店長の温情には感謝しています」
「ふむ。だからこそ、私が決めたルールを守れない人間は、今後は従業員としては扱わない。この意味が分かるかね?」
「……従業員として扱わない。つまり、食料や水を与えないということですね」
「察しが良くて助かるよ。それでだ、もし外の探索で生存者を見つけた場合、君はどうするつもりだ?」
「状況にもよりますが、困っているなら多少の食料を分けて渡そうかと思っています」
「なるほど。現時点ではそれが人道的な最善かもしれん。しかし、1週間、10日と救助の見通しが立たなければ、無駄な支給は一切やめてもらいたい」
「それは心得ています。ここの従業員の生存が最優先ですから」
店長は満足そうに何度も頷いた。ここまでは、お互いに合理的な思考の範囲内だと思えた。しかし、店長の次の言葉が、この部屋の空気を一変させた。
「それとな……要件を満たす人物であれば、このコンビニに迎え入れて匿うことも許可しよう」
許可する?
確かにこのコンビニのオーナーは店長だが、ここは国家でもなければ、彼が絶対的な支配者というわけでもないはずだ。胸の内にザラついた引っ掛かりを覚えたが、僕は感情を顔に出さず、先を促した。
「要件、ですか?」
「そうだ。女だ。……それも、美しい女なら率先してここに連れてきてほしい」
「それは、一体どういう……」
「男なら言わなくても分かるだろう? その女たちは放っておけば食料が尽きて干からびて死ぬんだ。可哀想だから俺たちが養ってやってもいい、と言っているのさ。……当然、それ相応の『義務』は果たしてもらうことになるがね」
店長の言い分は、要するに「食料を与える代わりに性処理の道具になれ」ということだった。秩序が崩壊したこの状況なら、生き延びるために尊厳を捨てて要求を受け入れる女性も多いのかもしれない。確かに、僕と彩香が結ばれた関係性も、本質的には似たようなものだ。
「このマンションなら、402号室の女子大生や、501号室の若い奥さん……それに301号室のOL、あの黒木ちゃんあたりが生き残っていたら、最優先で連れてきてくれ」
彩香の名前を挙げ、ゲスな笑みを浮かべる店長に対して、一瞬激しい怒りが湧き上がりそうになった。しかし、僕はそれを何とか理性の底に抑え込み、事務所を後にした。
部屋を出て薄暗い店内に戻ろうとすると、待ち伏せしていた佐藤くんが声をかけてきた。
「あの、井上さん。ちょっと聞きたいことがあるんすけど」
「なんだい?」
「雪乃のことなんですけどね。あいつ、明らかに井上さんに惚れてるじゃないですか。井上さんはあいつのこと、どう思ってるんすか? 女として見てるんすか? それともただの子供ですか?」
自分の中でもまだ整理しきれていない心情を容赦なく突かれ、心臓がどきりと跳ねた。
「どうして、そんなことを聞くんだ?」
「だってさ、あんなに肉付きのいいJKと毎日狭い空間で過ごしてたら、普通ヤりたくなるでしょ」
「……雪乃ちゃんに欲情しているわけか」
「そうなんすよ! でも、まだ無理やりやるのは流石にヤバいと思うんで、まずは口説くつもりです。どうせJKなんて頭の中は食べ物とエッチなことだけなんだから、この状況なら食料をチラつかせれば余裕で落ちますって。特に雪乃の身体はめちゃくちゃスケベだし……ですよね、店長?」
背後から合流した店長も「そうだな、雪乃は感度がいい」と下品に同調する。
「それで、もし僕が雪乃を女として見ていたら、どうするんだ?」
問いかけに、佐藤くんは一瞬顔をしかめたが、すぐに卑屈な笑みに戻した。
「あー、やっぱり井上さんも狙ってましたか。それなら、最初は井上さんに譲りますよ。その代わり、終わったら俺たちにもシェアしてくださいね?」
(この男たちは、女の子を完全に都合のいい『物』としてしか見ていないのか……)
極限状態が彼らの本性を剥き出しにさせたのか、あるいは元々そういう気質だったのか。
「……考えておくよ」
「井上さん、それじゃ困るんすよ! こっちはもう我慢の限界なんすから!」
「そこまでにしろ、佐藤!」
店長が鋭い声で佐藤くんを制した。
「井上くんは帰ってきたばかりだ。私はね、井上くんの行動力と度胸を高く評価しているんだよ。これからも外から女を連れてきてもらわなきゃならん。だから佐藤、まだ雪乃に手を出すなよ」
「……チッ、分かりましたよ。まだ手は出しません」
佐藤くんは忌々しそうに吐き捨てた。店長はパンと手を叩き、わざとらしい明るい声で言った。
「さて、せっかく井上くんが無事に帰ってきたんだ。今夜は特別に許可するから、店内の酒を開けてみんなで乾杯しようじゃないか」
その夜、僕たちはコンビニの棚に残っている酒を開け、5人でテーブルを囲んだ。雪乃も「甘いカクテルなら飲んでみたい」と言い、僕の隣にぴったりと身体を寄せてグラスを傾けている。
「雪乃ちゃん、お酒を飲んでも平気かい? 気分は悪くない?」
「うん……わたし、お酒強いのかも。すごく気分がいいの」
「それは酔っている証拠だよ。その1本だけにしておきなよ」
「はーい! ……エヘヘ、井上さん。わたし、井上さんのこと……好きです。あはは、言っちゃった」
酒の勢いも手伝ってか、雪乃は頬を林檎のように赤くして笑った。
「ありがとう。僕も好きだよ。雪乃ちゃんは本当に可愛いからね」
「キャー、嬉しい! もう、大好きっ!」
無邪気に喜ぶ雪乃は、僕の腕の下から滑り込むようにして胸元へと抱きついてきた。制服越しに伝わる、柔らかくふくよかな胸の感触がひどく心地いい。
「チッ……見せつけてくれるねえ。おい雪乃、そんなオジさん放っといて俺の横に来いよ」
佐藤くんが冷やかすように言うと、雪乃は途端に冷徹な目を向けた。
「はあ? 誰があんたの側なんかに行くか。目障りだから消えてくれない?」
「おいおい、そんな生意気言っていいのかよ。雪乃、お前さ……」
佐藤くんは下品な笑みを浮かべ、言葉の代わりに何かを握るように手を丸くして口に持ってきてシゴいた。あれはフェラチオの仕草をして、雪乃をからかっているのだろう。
「……そんなの、知らないよ」
雪乃は驚いたように目を見開き、すぐに耐えかねたように顔を伏せた。
「雪乃の真似だよ」
「バカじゃないの……死ねよ……」
雪乃は顔を赤くして、強く睨んでいた。佐藤は愉快そうに笑うと、今度は手のひらを見せて中指と薬指を曲げてクネラセて親指をくっ付けると何度も開いた。
「これは、なーんだ?」
「やめてよ、ホントにやめてください」
「ハハハ、雪乃のマン汁でベトベトになったの図」
雪乃は下を向いて、何も言わなかった。
しかし、彼女を庇うように隣に座っていた僕は、ハッと息を呑んだ。
よく見ると、彼女は机の下で、自分の太ももを落ち着かなげにモジモジと擦り合わせるように震わせていたのだ。嫌悪と恐怖に支配されているはずの彼女の身体が、男たちの執拗な言葉の暴力によって、無自覚な生理的反応を起こしているかのように――。
女の身体は、どれだけ嫌いな男に触れられても、どうしようもなく感じてしまうものなの。それは生物としての本能だわ
昼間、彩香が残酷なほど冷静に語った言葉が、僕の脳裏に激しく木霊していた。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です
あちらは、ラブシーンに少しづつ挿絵もいれてます。




