50%
502号室のゾンビをすべて処理することには成功した。しかし、代償として僕はゾンビに腕を噛まれてしまった。
衣服と皮膚をまとめて食い千切られた際、もしウイルスの付着したゾンビの歯が傷口に直接触れていたら、感染している可能性は極めて高い――。冬子が苦渋の表情で弾き出した「五十パーセント」という確率が、重く心にのしかかっていた。
「僕は明日にはゾンビになっているかもしれない。だから……今日は駐車場に停めてあるメルセデスの中で寝ようと思う」
最後の巨漢ゾンビを処理し終えた頃には、世界はすでに夕方近くの薄暗がりに包まれていた。夜間の照明は生存を隠すために厳禁としている。僕たちは早めの夕食をとって、そのまま眠りにつくことにした。
リビングを囲む一同の口数は、いつになく少なかった。お通夜のように静まり返るなか、僕が車に隔離して寝る旨を告げると、いつも冷静沈着な彩香が、意外な言葉を口にした。
「マサキさん、私はあなたと一緒にいたいの。……たとえ、あなたがゾンビになっても構わないわ。だから、私の部屋の301号室で一緒に夜を過ごしましょう」
「彩香……君らしくないことを口にするな」
僕は努めて厳しい声を向けた。
「僕が本当にゾンビになって、君と一緒に狭い部屋にいたらどうなるか、分かっているはずだろう?」
「だって……あなたが居なくなったら、私は耐えられないわ。だから、一緒にゾンビになってもいいのよ」
そう言って潤んだ目で僕を見つめる彩香。それに続くように、雪乃が身を乗り出した。
「はい! 私も覚悟はできてるよ! そりゃあゾンビになるのは嫌だし、めちゃくちゃ怖いけど……マサキさんがいなくなったら、もう生きてる意味なんて無いもん!」
「あたしも、最後まで一緒にいたいです……!」
奈穂もポロポロと涙を流しながら訴えかけてくる。
「マサキさんは、もしもの時は他の男を招き入れろって言っていたけど……そんなの、私は絶対に嫌なんです!」
絶望的な沈黙のなか、最後に口を開いたのは冬子だった。彼女の瞳には、感情に流されない強い理性の光が宿っていた。
「私は、一緒には行きません。もし、マサキさんが本当にゾンビになってしまったら……車の中に拘束して飼おうと思います。私はこのマンションで研究を続け、必ずゾンビウイルスを駆除するワクチンを開発して、マサキさんを人間に戻します。そのために、自分の人生のすべてを懸ける覚悟です」
女の子たちの僕に対するあまりにも深い、命がけの想いが真っ直ぐに伝わってきて、胸が熱くなり涙が出そうになる。
だがその反面、僕の脳裏には、どこか冷めきった客観的な思考も同居していた。彼女たちとは、世界がこんな地獄に変わってしまったからこそ結ばれた関係だ。この狂った極限状態だからこその依存であり、この想いは本当に本物なのだろうか。「井上マサキ」という男でなければならない理由が、本当に彼女たちにあるのだろうか。
いや、きっと違う。もし僕が死ねば、彼女たちは生き残るために、いつか他の男を受け入れるはずだし、受け入れなければならない。だから、この一時的な感傷に甘えて、彼女たちを危険に巻き込むわけにはいかないのだ。
「ダメだ。絶対に許さない」
僕は毅然と言い放った。
「僕がもしゾンビになったとしても、君たちは何としてでも生き抜いてくれ。冬子、お前もワクチンなんて不確かなものに囚われず、自分の人生を生きろ。それが、僕の最後の願いだ」
彩香も雪乃も、そして奈穂や冬子までも、それ以上の反論はしなかった。しかし、誰もが納得のいかない、不服そうな顔で僕を見つめ返してくる。
僕はそんな愛おしい彼女たちに歩み寄り、一人ひとりの唇に静かにキスを落としていった。もしかしたら、これが今生の別れのキスになるかもしれないと思いながら。
「それじゃ、僕は車に行くよ。忘れないように、裏口の鍵をしっかりと閉めておいてくれ」
一人でマンションを出て、暗い駐車場に佇むボディーがボコボコにへこんだメルセデスに乗り込む。後部座席はフラットなベッド仕様になっているため、横になるには十分なスペースだ。
彼女たちの前では気丈に振る舞い、冷静を装っていたが、一人きりになると恐怖が一気に押し寄せてきた。明日、僕はもう人間として目覚めることはないのかもしれない。そう考えると、身体の芯から震えが止まらなくなった。
恐怖を紛らわせるように、車載の小型冷蔵庫からウイスキーのボトルを取り出し、喉を鳴らして煽るように飲んだ。普段から大してお酒が強くない僕の身体に、強いアルコールが急速に回り、次第に思考がボヤけていく。
まぶたを閉じると、このパンデミックが起きてからの出来事が、走馬灯のように目まぐるしく脳裏をよぎった。
たった数日間の出来事だが、数年間と思えるほどの濃密な時間だった。普通の人生では考えられないようなおぞましい事件、そして女たちとの淫らな狂宴。振り返って立ち止まる暇もなく、僕はとにかく生きるために行動し続けてきた。
我ながら、よくやったと思う。後悔なんて一つもない。……だけど、やっぱり、まだ死にたくはない。
「クソ……! こんなところで、終わりたくないんだ……っ!」
誰もいない車内で、思わず声が漏れ、叫んでいた。
どうしようもない現実。けれど、死にたくない。無意味だと分かっていながら、脳は同じ思考をループし、同じ結論へと行き着く。再びウイスキーに口をつけ、残りを一気に飲み干した。やがて深い泥酔とともに、意識を失うように眠りへと落ちていった。
――夢を見た。
彩香の柔らかい太ももに膝枕をされていて、両脇には奈穂と冬子が愛おしそうに寄り添ってくれている。そして上からは雪乃が僕の身体に跨り、何度も、何度も熱い唇を重ねてくる。
心も身体もすべてが満たされ、通じ合う、この上なく幸福な夢だった。
「むう、もう! わたしがこんなにキスしても起きない!」
「ちょっと雪、あたな下手くそなんじゃないの? 私と代わってよ」
「次はあたしがキスしたいんですが、順番ですよ」
「うふふ……マサキさんも本当は怖くて不安だったのね。こんなにお酒を沢山飲んじゃって、本当に可愛い人だわ」
「ホントにね。車に行ってから一時間もしないうちに、すっかり酔っぱらって爆睡してたもんね」
耳元で、はっきりと女の子たちの賑やかな声が聞こえてくる。そのリアルな肌の温もりと吐息に、これが夢ではないと直感した。
ゆっくりと重い目を開けると、視界に飛び込んできたのは、僕の周りを囲む彼女たちの顔だった。どうやら彼女たちは、裏口の鍵を閉めろという命令を完全に無視して、全員で車の中へ押し掛けてきていたらしい。
ここはリーダーとして、毅然と叱りつけなければならない。僕は寝起きの頭を振るい、大声で怒鳴りつけた。
「君たち……っ! 僕はあれほど言っただろう、一緒にいてはダメだと! もし僕が夜の間にゾンビに変わっていたら、どうするつもりだったんだ……っ!」
しかし、その続きの言葉を紡ぐことはできなかった。
叫んだ自分の声が、しっかりと人間の言葉として響いている。視界はクリアで、体中に人間の温かい血が巡っているのが分かる。
僕は生きている。ゾンビにはならなかったのだ。
その厳然たる事実が頭に染み渡った瞬間、堪えていた緊張の糸が千切れ、大人気もなく涙が溢れて止まらなくなった。
「マサキさん……あなたは無事よ。心から、本当に嬉しく思うわ」
彩香が優しく僕の涙を拭う。
「あはは、マサキさんの泣き顔、初めて見ちゃった。男の人がこうやって泣いてるのって、なんだかドキドキするね」
雪乃がいたずらっぽく微笑む。
「あたしは最初から信じていましたよ。マサキさんがこんな所で呆気なく死ぬ人じゃないって」
奈穂が自分のことのように顔を綻ばせる。
「私は一般論として五十パーセントの確率を提示しましたが……マサキさんは特別ですからね。きっと大丈夫だろうと確信していました」
冬子も眼鏡の奥の目を細めて、ホッとしたように息を吐いた。
「みんな、ありがとう……」
僕は涙を流しながら感謝を伝えた。彼女たちは口では明るく振る舞っているが、昨夜、僕が化け物に変貌しているリスクを承知で、一緒に心中する覚悟でこの車に泊まり込んできたのだ。その深い愛を思うと、命令を破られた怒りなど、微塵も湧いてくるはずがなかった。




