噛まれた
502号室のベランダの壁は、コンクリート部分と鉄格子のパイプ部分で構成されていた。あの鉄格子を切り外せば、ゾンビを外へ突き落とすのは容易なはずだ。パイプを切るための金ノコギリなら、以前401号室から確保したものがある。
僕は必要な道具一式を背負い、いったん602号室へ移動。そこからロープを伝って502号室のベランダへと静かに降り立った。
金属を削る不快な音をできるだけ抑えながら、金ノコギリでパイプを切断していく。少し時間はかかったが、二メートルほどの隙間を作ることに成功した。
最初の部屋を覗き込む。六畳ほどの個室のベッドの上で、小柄なゾンビを挟むように二体のゾンビが体を擦り付けてい蠢いていた。
「ウエッ、3Pをしているのか……地獄のようなだな」
あまりに悍ましい光景に嘔吐しそうになりながらも行動を続けた。
僕の身体はロープで軽く拘束されており、最悪の場合はそのままベランダの外へ飛び降りて脱出できるようになっている。奈穂には、一時間経ったら中を確認してくれと伝えてある。
窓ガラスの鍵に手をかけたが、しっかりと施錠されていた。ガラスを割るリスクを避け、まずはベランダ伝いに隣のLDKへと移動する。
ガラス戸越しに見えるLDKでは、手前のソファで三人、奥の床で四人が身体を貪り合っていた。見た感じ女は若く派手目で男は年配に見えた。そっとガラス戸を引くと、幸いにも鍵はかかっていない。
ゆっくりとサッシを開け、壁をドンドンと叩いて音を立てた。
ゾンビたちが一斉にこちらを向き、一歩、また一歩と這い寄ってくる。最初の二体がベランダに這い出てきたのを確認し、僕はすかさずガラス戸を閉めて中からの追撃を遮断した。いずれも女性のゾンビのようで、それほど腕力は強くなさそうだ。
「こっちだ、来いよ」
言葉が通じるはずもないが、手すりを外した断崖へと彼女たちを誘導した。ゾンビが手すりのない境界に達し、僕に向けて肉が腐ったような手を伸ばす。その瞬間、素早くしゃがみ込み、彼女たちの腰のあたりを強く押し出した。ゾンビには恐怖心も警戒心もないため、抵抗らしい抵抗もなく、二体の身体はあっけなく消えていった。
この方法はいける。
同じ手順を三回繰り返し、LDKにいた七体のゾンビすべてを地上へと突き落とすことに成功した。
誰もいなくなったLDKへと足を踏み入れる。室内を見回すと、高級な酒やフルーツの残骸、そして大人のおもちゃが無造作にテーブルに散乱していた。
まだゾンビは残っているが。僕は革の上下に厚手の手袋、ヘルメットという重装備を身にまとっている。多少の噛みつきなら防げるはずだ。
廊下へ出て、隣の個室の扉を開ける。やはりベッドの上で交わっていたゾンビたちが動きを止め、立ち上がった。僕はすぐさまその部屋のガラス戸を開けてベランダへと誘い出し、同じように奈落へと落としていく。
「これで十体……。残るは五体ほどか」
残る部屋はあと二つ、ここまではとても順調だ。
次の部屋の扉を開けると、そこには男女四体のゾンビがいた。先ほど処理した部屋のベランダへと彼らを誘導し、一人ずつ確実に突き落とした。
すべてが驚くほど上手くいっていた。計算上、残るゾンビはあと一体か二体。同じ手順を踏めば何の問題もないはずだった。
最後の部屋の扉を開ける。
中を覗き込んだが、ゾンビの姿は見当たらない。ただ、この部屋だけは他の部屋と明らかに雰囲気が異なっていた。ベッドのような淫靡な設備はなく、オフィスデスクが整然と並び、書類やパソコン、小型冷蔵庫、そして無骨な手提げ金庫のようなものが置かれていたのだ。
おそらく、この部屋は受付のような役割で金庫の中に参加者たちの貴重品や車の鍵を預かっていたのだろう。金庫は簡易的な鉄製のものなので、時間をかければこじ開けられるはずだ。
まずはこの金庫を持ち出そう――そう思い、部屋の奥へ足を踏み入れた、その瞬間だった。
背後から凄まじい衝撃を受け、容赦なく床へと叩きつけられた。
「な、んだ……っ!?」
背中にのしかかる、圧倒的な質量。鼻腔を突き刺す、肉が腐りかけた強烈な悪臭。そして次の瞬間、肩に鋭い激痛が走った。
まさか……噛まれたのか!?
マズイ、マズイ、マズイ――!
パニックになりかける頭を必死に抑え、ヘルメットを被った後頭部を思い切り後ろへと打ち付けた。ゴツンと鈍い手応えがあり、わずかに背中の圧迫感が緩む。その隙を見逃さず、僕は横に身体をひねった。
なんとか上を向くことはできたが、相手に完全にマウントポジションを取られており、脱出できない。そこで初めて、襲撃者の姿が視認できた。
それは、これまでに見たどのゾンビとも異なる、威圧的な巨体を誇るゾンビだった。身にまとっているのは、引き裂かれた警備員の制服。生前は格闘技の経験者か、この秘密のパーティーの用心棒を務めていた男に違いない。
巨漢ゾンビは小さく唸り声を上げながら、僕の腹の上に跨り、狂暴な目でこちらを見下ろしている。殴打などの攻撃はしてこないが、獣のように何度も僕のヘルメットに噛みつこうと顎を打ち鳴らした。
「おおぉっ!」
下からゾンビの顔面に向けて拳を突き出したが、下からの体勢な上に、腕の負傷のせいで力が入らず、有効なダメージを与えられない。何とかこの窮地を脱しなければ、遠からずヘルメットの隙間を噛み破られる。
僕は両膝を曲げて床を捉え、渾身の力でブリッジを敢行した。しかし、ゾンビの圧倒的な重量に耐えかね、体勢を崩されてしまう。
バシッ、バシッ!
必死に肘を直角に曲げ、フックの軌道で左右のパンチを顔面に叩き込む。これには多少の効き目があったようで、ゾンビの頭がわずかに揺れた。僕は残った力のすべてを右拳に込め、ストレートを放った。
「えっ……!?」
信じられないことに、巨漢ゾンビはわずかに頭を傾け、僕のパンチを避けたのだ。
信じがたい思考力、あるいは肉体の反射。呆然とした一瞬の隙を突かれ、空を切った僕の右腕が強靭な手で掴まれた。そして、革ジャケットの上から容赦なく歯を突き立てられる。
激痛が走る。腕ごと食い千切られそうなほどの凄まじい顎の力だ。
腕を振り回しても、万力のような噛みつきは微動だにしない。僕は一か八か、掴まれた腕を一度左に大きく振ってから、遠心力を利用して右方向へと力任せに振り抜いた。
『ブチッ』という、不吉な肉繊維の断裂音が響く。
革ジャケットの袖が引き裂かれ、僕の腕は自由になった。同時に、急激に重心を崩したゾンビの身体が傾き、腹部にかかっていた重圧がふっと消える。僕は反射的に身体を反転させ、這うようにしてゾンビの制域から脱出した。
そのまま這い上がるように立ち上がり、ドアを開けて廊下へ飛び出す。すかさず扉を叩き閉めた。
ハァ、ハァ、ハァ……っ!
命からがら、最悪の窮地から脱することはできた。しかし、自分の右腕を見下ろした瞬間、血の気が引いた。革ジャケットの袖には無残な穴が開き、その下の肉が、文字通りスプーンで抉り取られたように欠損していた。そこから、ドクドクと鮮血が噴き出している。
どうして、あんなやつが……。
あいつはドアの影、完全に僕の死角となる位置に潜んでいたのだ。不用意に侵入した僕の落ち度だった。生前のガードマンとしての防衛本能か、あるいは格闘技の肉体記憶が、ゾンビ化してもなお色濃く残っているのだろうか。
ゾンビはドアノブを回せないのか、あるいはあの部屋を死守しているのか、ドアの向こうから追ってくる気配はない。
ヘルメットを乱暴に脱ぎ捨てると、中から大量の汗が滴り落ちた。その場にへたり込み、激しい呼吸を整えながら、あの怪物をどう排除するか思考を巡らせる。
他のゾンビのように、ベランダへ誘き出して突き落とすのは体格差から見ても不可能に近い。となれば、正面から戦闘で打ち倒すしかない。首を完全に切断すれば機能停止するはずだ。
だが、あの巨漢とまともに組み合って、首を切り落とすことなど可能なのか?
一歩間違えれば、今度こそ組み伏せられて噛み殺される。
それに……何よりも恐ろしい事実が、僕の脳裏を支配し始めていた。
僕は、腕を噛まれた。衣服の上からとはいえ、あの怪物の唾液が僕の体内に入った可能性は極めて高い。だとしたら、僕も遠からず、あの化け物たちの仲間に……。
「マサキさん……!?」
聞き慣れた声に顔を上げると、玄関の隙間から奈穂が心配そうに中を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか、マサキさん! 腕、すごい血が出ています……っ!」
「……ああ。外に、彩香たちはいるか?」
「はい、六階のステージにいます」
「すまないが、みんなをここに呼んできてくれ。それと、救急箱も持ってきてほしい」
間もなく、五階のホールに全員が集まった。奈穂の手によって、手際よく傷口の処置が行われる。抉られた傷口は二センチほどに達していた。入念な消毒のあと、包帯がキツく巻き付けられていく。
「革ジャケットごと、腕の肉を食い千切られた。直接の皮膚への接触ではなかったが……もしかしたら、僕はゾンビになるかもしれない」
僕の言葉に、場が凍りついた。
「そんなの、嫌……っ! 私は絶対にそんな風に思わない! 服の上からだったんだから、きっと、きっと大丈夫だよ……っ!」
奈穂が必死に涙を堪えながら叫ぶ。
「そうだといいがな。……冬子、君の客観的な意見を聞かせてくれ。遠慮はいらない」
冬子は苦渋に満ちた表情で押し黙っていたが、やがて意を決したように静かに口を開いた。
「冷静に、状況から考察させていただきます……。マサキさんが発症する可能性は、およそ五十パーセントだと考えます。ゾンビの感染源を未知のウイルスと仮定した場合、彼らの口内には大量の病原体が存在し、咬傷によって標的の体内にそれを注入しているはずです。今回のケースでは、腕の皮膚と革ジャケットが同時に食い千切られた際、傷口にゾンビの歯が直接触れていたかどうかが焦点になります。歯の食い込みの深さや、引きちぎったベクトルの方向によって左右されるため、現時点での正確な判別は不可能です」
「五十パーセントか……。思ったよりも高い賭けだな」
ゾンビになど、絶対になりたくない。しかし、起きてしまった現実を巻き戻すことはできない。最悪の事態が訪れたなら、それは潔く受け入れるしかないのだろう。
「仮に僕がゾンビになるとしても、まだ体に兆候は出ていない。動けるうちに、みんなの脅威となるあの部屋のゾンビは始末しておきたいんだ。奈穂、手伝ってくれるか?」
「はい……! もちろんです!」
「すまないが、七階のベランダに下ろしてあるロープと、僕のリュックを持ってきてくれ」
あの巨漢ゾンビは必ずここで仕留める。そのためには、奈穂の驚異的な身体能力と協力が不可欠だった。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です
18禁になるであろう閑話と挿絵も追加してあります




