ショッピングモール
メルセデスはひどい有り様だった。
奴らが戻ってくる可能性も十分に考慮し、藪の中で十分に息を潜めて時間を置いてから、僕たちは慎重に高台を降りて愛車のもとへと戻った。
ピピッ。
まずは遠距離からおそるおそるスマートキーを操作してみる。ハザードランプが点滅し、問題なくロックが解除された。
最悪の事態は免れたと一安心し、車内に滑り込んで急いで衣服を身に付けた。
やはり、現代社会に生きる僕たちは、衣服を剥ぎ取られて裸でいるだけで著しく正常な思考を奪われ、不安に苛まれるものだ。身を包む布地があるというだけで、瞬時に心に余裕が生まれてくる。
これなら、仮に車が動かなかったとしても、最悪の事態は乗り越えられるような気がしてくるから不思議だ。
ボコボコに変形したメルセデスの運転席に座り、スタートボタンを押してエンジンを始動させる。――ブルン、と低い重低音を響かせて、何の問題もなくエンジンが始動した。
「……動いた。さすがはドイツが誇る最高峰の高級車だ。頑丈さの桁が違うな」
「良かった……! 動きましたね、マサキさん!」
奈緒も心の底からホッとしたように、張り詰めていた表情を和らげて笑顔を浮かべた。
静かに公園の駐車場を後にする。しかし、万が一にでもこの目立つメルセデスであの『XXX』の車列と再会してしまえば、今度こそ確実に目の敵にされて生きては帰れないだろう。
僕はマンションとは真逆の方向へとハンドルを切った。
慎重にアクセルを踏み込んでみる。エンジン、サスペンション共に大きな異常はなさそうだ。しかし、バットで強打されたフロントガラスには激しい蜘蛛の巣状の亀裂が入っており、前方視界は極めて悪かった。
(どこかで代わりの足となる車を調達するべきか……)
そんなことを考えていると、行く手に先ほど奈緒が言っていたショッピングモールの看板が見えてきた。様子を探るため、駐車場へと滑り込んだ。
「……なんだ、これは」
車を降りた瞬間、僕は思わずその異様な光景に声を失った。
ショッピングモール全体に、不穏な空気が漂っている。まず、鼻を突くのは、生々しい焦げ臭い匂いだ。敷地の所々から黒い煙が立ち上り、薄暗い夕空に充満している。
「僕が中を探ってくる。危険だから、君は車の中で鍵をかけて待機していてくれ」
これから予想されるであろう凄惨な現場を、これ以上彼女に見せるのは忍びなかった。だが、奈緒は首を横に振る。
「私も行きます。二人で行動した方が、お互いの死角をカバーできて危険を回避できると思います。それに……ここで一人で待っているのは、怖いです」
「……そうか。なら、僕のすぐ後ろをついておいで。くれぐれも物音を立てたり、騒いだりしないようにね」
確かに、法も警察も機能していないこの極限状態において、一瞬でも別行動をとるのは得策ではない。もし彼女が僕の目の届かないところで別の暴漢に連れ去られでもしたら、二度と再会できなくなる。ほんのふとした選択の誤りが命取りになるのだ。
ショッピングモールの内部へと足を踏み入れると、そこは想像を絶する異常な光景が広がっていた。
何より奇妙だったのは、ゾンビの姿はおろか、生きている生存者にも一人として遭遇しないことだ。
その代わり、エントランスから通路にかけて、おびただしい数の遺体が転がっていた。それらはゾンビではない、つまり生身の人間が昨日今日のうちに何者かに命を奪われた事を意味する。否、命を奪われたというのも生ぬるい――それらは一様にして、執拗かつ残虐に痛めつけられ、惨殺されていた。
ゾンビの脅威がない理由も、戦闘の後、割れたガラスや破壊された設備などからすぐに察しがついた。
おそらく、元々このモールに立てこもっていた生存者たちは、無用な外部の人間を徹底的に排除し、強固な防衛線を築いてここを安全地帯として籠城していたのだろう。それを、外からやってきた何者かが、圧倒的な暴力で防衛線を食い破り、中の人たちを皆殺しにしたのだ。
「うぇっ……ひどい……っ」
店舗が入っている二つの商業棟を繋ぐ、吹き抜けの中庭のようなエリアに差し掛かった瞬間、奈緒が激しく嘔吐した。
僕も、その凄惨極まりない光景に吐き気を堪えるのに必死だった。
そこには、多数の人間とゾンビの死骸が散乱していたが、そのすべてが身体中に無数の刃物による刺し傷を負っていた。
地面には白いチョークで線が引かれており、正面の壁には遺体が鎖で厳重に縛り付けられている。そして、ゾンビや遺体の身体やその周囲の壁、足元のコンクリートには、包丁やサバイバルナイフ、果物ナイフといった鋭利な刃物が無数に突き刺さっていた。
犯人たちは、壁に拘束した人間を標的にして、引かれた線の位置から交互に刃物を投げ合っていたのだ。
(まるで、ダーツのゲームでも楽しむように……)
狂気の沙汰だった。さらに、店舗裏手の搬入口へと進むと、さらなる異常が僕たちを待ち受けていた。
「……何だ、あれは」
両手と両足を、PPバンドで固く緊縛された多数のゾンビたちが、地面を芋虫のようにうごめき、這い回っていたのだ。
恐らく殺した遺体がゾンビ化するのを見越して処理したのだろう。
確かに、感染してゾンビ化した死体であっても、四肢をこのように拘束して一か所に放置しておけば脅威はほぼ無力化できる。
しかし、それは理屈の話だ。実際に人間の尊厳を徹底的に踏みにじり、このような処置を施して放置する狂気を実行に移せる者がいるという事実に底知れない恐怖を覚えた。
「マサキさん……もしかして、これをした人たち、またここに戻ってきますか……?」
奈緒の震える声に、僕はハッと我に返った。
そうだ。この凄まじい大虐殺を行った者たちが、もし今この瞬間に戻ってきたら、武器も持たない僕たち二人では逆立ちしても敵わない。
「急いでここを出よう。車に戻るぞ」
半ばパニックになりながら、小走りでボコボコのメルセデスへと引き返し、ショッピングモールを脱出するために車を走らせた。
「あ……マサキさん、見てください。あそこ……っ!」
助手席の奈緒が、青ざめた顔で後にしたショッピングモールの二階の外壁を指差した。
彼女の視線の先――モールの白い外壁に黒いスプレーで大きく文字が殴り書きされていた。
『 XXX 』
この世のものとは思えない惨状を引き起こした奴らは、他でもない。先ほど公園で出くわし、この車をスクラップ寸前にまで破壊した、あの『XXX』の半グレ集団だったのだ。
僕は、車が半壊程度で済み、奈緒を奪われずに済んだ幸運に安堵の息を漏らした。
だが、それと同時に、奴らがバイクやワゴン車の車列を連ねて向かった先が、僕たちが拠点にしているの街の方向であるという事実に、背筋が凍りつくような、耐え難い戦慄と不安を抱くのだった。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




