7Fへ
『騒ぐな!! 本当にブスリと刺すからな!』
『雪乃、お前だけは絶対に一緒に連れていくからな……っ!』
『嫌だ! 放して、助けて!!』
『うるせえッ!!』
パシィィィンッ!!!
佐藤が雪乃の頬を激しく殴りつける音が聞こえた。外を覗き見ると、佐藤の顔は恐怖と焦燥で歪み、かつての気弱な少年の面影は完全に消え失せていた。
(あのクズどもめ……。僕がここで女たちと貪り合っている隙に、逃げようとしたな。見逃してやろうかとも思ったが、やはり生かしてはおけない)
僕たちが店内に駆けつけた時には、雪乃はすでに両手を前で厳重に縛られ、そこから伸びるロープを佐藤が犬の首輪のように力任せに引っ張っていた。三人はすでに破壊されたシャッターの隙間から外へと這い出ており、すぐ近くの角を曲がって視界から消えた。
ジープの脇をすり抜け、大急ぎで店舗の外へと飛び出したが、すでに奴らは十数メートル先の曲がり角にまで達していた。
『ゾンビが多すぎる! 捕まらないように慎重に進め!』
『うわ、なんだこの数は……っ! あれに囲まれたら終わりだ、早くあのベンツのところに行くぞ! 走れ雪乃、言うことを聞かないと、マジでこの包丁で突き刺すからな!』
『行く、行くから……お願い、刺さないで……っ!』
珍しく、雪乃が佐藤に対して本気の恐怖を抱き、怯えきっていた。佐藤の側も、僕に捕まれば確実に五体満足ではいられないと悟っているため、その表情には全く余裕がない。雪乃も、下手に抵抗すればこの極限状態の少年が本当に刃物を突き立ててくると直感したのだろう。
「待てッ!! 命だけは見逃してやるから、雪乃をそこに置いていけ!!」
『うるさい! 店も全部めちゃくちゃにされた、せめてあの高級車と雪乃だけは貰っていく!!』
『これ以上、あんたみたいなバケモノとは関わりたくないんだ! だから、追ってこないでくれ!!』
奴らの目は本気だった。あのメルセデスを奪い、三人でこの街から逃亡するつもりだ。クソ、媚薬のせいで状況の把握が遅れた。今から徒歩で追いかけても、あの距離では追いつけない――。
諦めかけた、その瞬間だった。
上空――マンションのベランダから、一筋の影が凄まじい速度で落下し、佐藤の背後へと弾丸のように衝突した。
ドガァァァンッ!!!
激しい衝撃音と共に佐藤の手から包丁が弾き飛ばされ、地面をゴロゴロと転がった。その衝突の余波に押し出されるようにして、前を歩いていた雪乃と店長も前方の道路へと派手にとっ散らかり、転倒した。
ベランダから決死のダイブを敢行したのは、奈穂だった。流石は現役のトップアスリートと言うべきか、彼女は着地の瞬間に見事な柔道の受け身のように回転し、落下の衝撃を最小限に殺して素早く立ち上がった。
「奈穂、ありがとう……! あ、待て、不味い! ゾンビが雪乃のほうに――っ!!」
倒れた雪乃の腕を掴み、強引に立ち上がらせようとした店長と、そこへ合流しようとした佐藤だったが、彼らが吹っ飛ばされた先は、最悪なことに奈穂が集めたゾンビの集団のド真ん中だった。周囲にうごめいていたものと合わせ、総勢30体近い肉餓鬼どもの群れが、一瞬にして三人の身体を完全に包み込んだ。
(こうなったら、僕があの群れの中に飛び込んで、雪乃を力尽くで救い出すしかない……!)
覚悟を決めて駆け出そうとした僕だったが、その両腕を彩香によって強い力で抑え込まれた。
「無茶はしないで、井上さん! あんな数の群れに飛び込んだら、あなたが危険すぎるわ!」
「放してくれ!! 僕は雪乃を守ると約束したんだ! 何があっても、絶対に救い出す!!」
彩香の必死の手を振り払い、僕は前方に広がる地獄絵図へと走り出した。
ゾンビたちの無数の腐った手が、狂ったように三人の肉体へと伸びていく。店長が背後から首筋をガブリと生々しく噛みちぎられるのが見えた。佐藤も、狂ったように振り回した右腕を数体のゾンビに掴まれ、そのまま手首から先をボキリと噛み切られている。
距離が近づくにつれ、彼らの絶望的な断末魔が、鼓膜にハッキリと突き刺さってきた。
『グハッ、や、やめろ……離れろ! わたしから離れろ、グファッ、ヤメロォォォ!!』
『痛い、痛い、噛むなァァッ! イデェッ、はぁ、はぁ、嫌だ、嫌だぁぁッ! ゾンビになんかなりたくない!!』
二人が生きたまま肉を貪られ、狂い悶える声。――そして次の瞬間、僕の心臓は凍りついた。
その地獄の中心から、紛れもない、雪乃の悲痛な叫び声が響いてきたのだ。
『やめて……痛い、痛いよぉっ! 痛い、死んじゃうぅぅうううっ!!』
(……あ。あああぁぁぁ……ッ!!!)
雪乃が、群れに沈んだ。……噛まれてしまった。
全身の血が引いていくような絶望感に襲われ、僕は膝から地面へと崩れ落ちた。
「ゆきぃぃぃぃいいいいいッ!!! 雪が……わたしの、たった一人の妹がぁぁぁっ!!」
後ろを走っていた冬子も、その声を耳にした瞬間、完全に精神を破壊されたようにその場に立ち尽くした。
ゾンビたちは、すでに物言わぬ肉塊と化した店長と佐藤の身体に次々と群がり、彼らの五体を真っ赤な鮮血と共に貪り食っている。
「うわあああああああおあああッ!!!」
突然、鼓膜が破裂しそうなほどの凄まじい咆哮が爆発した。
見れば、奈穂がその辺に放置されていた自転車を両手で盾のように構え、ゾンビの群れの中心めがけて、陸上選手としての爆発的な脚力で突進していくところだった。
常人離れしたスピードと質量。
ドガシィィィンッ!!! と自転車を文字通り叩きつけるようにして突っ込むと、密集していたゾンビの集団が、まるでボウリングのピンのように派手に弾け飛んだ。貪り食われていた店長や佐藤の無惨な死体も、その衝撃で遠くへと転がっていく。
そして――ゾンビの集団が蹴散らされたその爆心地の地面に、まるでダンゴムシのように小さく丸くなり、頭を抱えてうずくまっている雪乃の姿がぽつんと残されていた。
僕は弾かれたように立ち上がり、猛烈な勢いで駆け寄ると、地面から雪乃の細い身体を強く抱き上げた。
「雪乃……っ!」
視線が交差する。彼女はボロボロと大粒の涙を流しながら、僕の首に必死にしがみついてきた。その瞬間、彼女が倒れていたアスファルトのすぐ脇に、先ほど佐藤が落とした包丁と並んで、見覚えのある「岡田のキーケース」が転がっているのが目に入った。
「奈穂! そこのキーケースを拾ってくれ! 冬子、彩香、全員で駐輪場へ向かうぞ! 中に避難するんだ!」
奈穂は素早く身を屈めてキーケースを回収すると、僕たちの後ろをピタリと追従した。
僕は雪乃を横抱き(お姫様抱っこ)にしたまま全力で走りながら、彼女の顔を覗き込んだ。
「雪乃、噛まれてないか!? どこか怪我は!?」
「うん……っ。痛くて死んじゃうかと思った、もしゾンビに囲まれたら、地面に丸くなって急所を隠せって言葉を思い出して、必死にうずくまってたの……。どこも噛まれなかったけど、ゾンビたちにめちゃくちゃ踏まれて、身体中がすっごく痛いよぅ……っ」
「……あぁ、生きていてくれた。本当によかった……っ!」
「本当に? ……そんなに喜んでくれるなら、わたし、頑張ったご褒美にキスしてほしいな。……わたしの、王子様♪」
この極限状態の期に及んで、女子高生から「王子様」などという面痒いセリフを吐かれ、少し気恥ずかしさを覚えた。だが、ここは彼女の奇跡的な生還を祝うべき場面だ。僕は空気を読み、腕の中の愛らしい少女の唇に、優しく、軽いキスを落とした。
「……ちょっとー? あたしも、命がけで自転車特攻して頑張ったんだけどなー?」
後ろを全力疾走で付いてくる奈穂の不満げな声が聞こえてきたが、今はあえて聞こえないフリをして、先を急いだ。
マンションの駐輪場の脇、あの隠された地下への重厚な鉄扉の前に到着した。僕は雪乃の身体をそっと地面に降ろし、奈穂から岡田のキーケースを受け取る。
「たしか……この鍵だったはずよ」
キーリングにはいくつかの鍵がジャラジャラと付いていたが、以前、岡田に連れられて地下のエレベーターに乗った記憶のある彩香が、その中から一本の鍵を指差して教えてくれた。僕はその鍵を鍵穴に差し込み、力を込めて回した。ガチリ、と重厚なロックが解除され、鉄扉が内側へと開く。
扉の内部は、入ってすぐ右手に頑丈なエレベーターの扉があり、左手には奥へと続く薄暗い通路が伸びていた。当然だが、マンションのメイン電源が落ちているため、専用の自家発電機を稼働させなければエレベーターは微とも動かない。
僕たちは通路を奥へと進んだ。少し歩くと、左手の壁に「WARNING(警告)」という赤い文字と、その下に細かな英語の注意書きが並ぶ頑丈なドアが現れた。彩香はフンフンと鼻を鳴らしながら、その英文を滑らかに読み取っていく。
「この扉ね。『危険につき、許可なき者の立ち入りを禁ず。――非常用発電機施設』って書いてあるわ」
僕は店長から奪い取ったマスターキーの束を取り出した。非常用施設の鍵穴は特殊な丸型(円筒形)だったため、束の中から該当する鍵はすぐに見つかった。鍵を回し、部屋のドアを開けようとしたその時、彩香が「あ、ちょっと待って」と僕の腕を制した。
「井上さん、先にアレを開けてくれない?」
彩香が美しくマニキュアを塗った指で指し示した先には、壁面に埋め込まれた巨大なスチール製の配電盤があった。このマンション全体の電気系統を制御する個別ブレーカーの塊だ。
扉を開けると、中には無数のレバーが整然と並んでいた。彩香はその器用な指先で、「エレベーター」と、僕たちの目的地である「7階(最上階)」のブレーカーだけを残し、それ以外の階層のブレーカーをすべて容赦なく「OFF」へと切り替えていった。
「よし、これで無駄な電力消費は抑えられるわ。さあ、発電機を稼働させましょう」
発電施設の中は、静まり返った完全な暗黒に包まれていた。壁際を手探りで探ると、目立つ位置に巨大な起動スイッチを見つけた。僕は迷わず、そのレバーを力任せに上へと押し上げた。
――ズ、ズズズ……ドゴォォォォンッ!!!
床を激しく震わせる重低音と共に、巨大なディーゼルエンジンが目を覚まし、凄まじい駆動音を立てて発電機が稼働を始めた。燃料の残量や冷却水の確認をする必要はあったが、それは後日、安全が確保されてからゆっくりやればいい。
エレベーターの前に戻ると、先ほどまで沈黙していたインジケーターに、鮮やかな緑色のランプが点灯していた。作戦は完全に成功だ。
僕、雪乃、冬子、彩香、そして奈穂。
地獄の戦場を生き抜いた5人で狭いエレベーターの籠へと乗り込み、僕たちは静かに、最上階である「7階」のボタンを押した。
数々の血の雨を降らせ、多くの命を奪い、奪われながら――。
僕たちはついに全員で7Fへと辿り着いたのだった。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




