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異変

昨夜は橋の上にメルセデスを停め、後部座席の簡易ベッドに僕を挟む形で、3人で身体を寄せ合って眠りについた。

雪乃も冬子も、僕の身体にしがみつくようにして離れようとしなかった。眠りに就く直前までは、僕をからかうように陽気な笑顔を見せていた二人だったが、やはりあの凄惨な事件が残した精神的ダメージは、計り知れないほど大きかったのだろう。


朝日が地平線から昇り始める頃には目を覚まし、車内にあった備蓄で軽く食事を済ませてから、再びマンションに向かって車を走らせた。


「たぶん、人間は死んだらみんなゾンビになっちゃうんだね。道端に転がってた死体が、いつの間にか全部消えてるもん」


後部座席から外を眺めていた雪乃が、ぽつりと呟いた。


「雪乃の言う通りだと思う。噛まれていなくても、死ねばそれだけでゾンビ化してしまう。……そうなると、この世界の未来は完全に絶望的ですね」


助手席の冬子が、重苦しい声で同意する。


「お姉ちゃん、なんでそうなるの?」


「噛まれた人だけが感染するのと、死因を問わず死者全員がゾンビになるのとでは、前提がまったく違うのよ。もし前者なら、武装した自衛隊や警察が根気強く排除していけば、いつかは絶滅させられる。でも、どこで誰が死んでもゾンビ化するとなれば、絶滅させるのは不可能なの。お葬式をしている最中に突然棺桶からゾンビが現れたり、孤独死した老人が勝手に歩き出したりして、至る所で永遠に発生し続けることになる。つまり……」


「お姉ちゃんは相変わらず話が長いよ。でも、何となく分かった。もう、世界は元には戻らないんだね」


「その可能性は極めて高いわね。何か劇的な特効薬でも開発されれば別だけど……」


「死んだら勝手に動く死体になるのか……嫌だな。でも、生きたまま噛まれて引き裂かれるよりは、まだマシかな」


冬子の冷静すぎる分析を聞きながら、僕はハンドルを握りつつ、彼女に問いかけた。

「なぁ冬子、少し意見を聞きたいんだ」


「はい、何でしょうか。――マサキさん」


「あ! お姉ちゃんズルい! 急に名前で呼ぶなんて!」


「私はもう大人だからいいのよ。それで、マサキさん?」


「昨日、君たちの救出に向かう時にゾンビの群れを突っ切ったんだ。その時、直感的に地面を転がったり、極端に低い姿勢で移動したりしてみたんだが、生物学的な観点から見てどう思う?」


「なるほど……それは非常に有効なアプローチかもしれませんね。流石はマサキさんです」


「むぅ……また呼んでる。わたしも次からそう呼ぼうかな」


妹の膨れ面を無視して、冬子は思考を巡らせるように顎に手を当てた。

「ゾンビは肉体を動かしてはいますが、人間の本来の運動機能を恐らく30%程度しか発揮できていません。それはすなわち、『動作のプロセス数(手数の多さ)』が増えるほど、極端に反応が遅れることを意味します。例えば、立ったまま正面の人間を掴む行動は【手を伸ばす】【掴む】という2つのプロセスで済みますが、低い姿勢の人間を掴むとなると【下を見る】【腰を落とす】【手を伸ばす】【掴む】という4つのプロセスが必要になります。これは対峙する上で大きなアドバンテージです。1動作を1秒と仮定すれば、立って対峙すれば2秒で捕まりますが、しゃがんでいれば4秒の猶予が生まれる。それに、視覚機能が低下している個体なら、足元を移動する物体を認識すらできない可能性もありますね」


「なるほど。感覚的に『いける』と思って動いていたが、そうして数値化されると違いが明白だな」


「よく分かんないけど、ゾンビに囲まれたら、しゃがんでトコトコ逃げればいいんだね!」


「状況にもよるが、基本的にはそういうことになるな。……よし、マンションに落ち着いたら、もっと効果的な対ゾンビの戦術を構築しよう」


そんな会話を交わしていると、車窓の景色に見慣れた景色が近づいてきた。


「あ、ここのコンビニも襲われてる……」


雪乃が指差した先の大手コンビニは、無残に破壊し尽くされていた。


「彩香の予測通りだな。いよいよ本格的な略奪が始まっている」


「略奪のパターンを観察するに、シャッターに車で突っ込んで強行突破していますね」


「コンビニのシャッターは、余程の災害や休業がない限り閉めないのが前提だからな。材質もそこまで強固じゃない。おまけに前面は全面ガラス張りだから、車で突っ込まれればひとたまりもない」


「じゃあ……店長のコンビニも危ないね」


「時間の問題だろうな。階下のコンビニがどれだけ荒らされようと、上の居住フロアまで被害が広がらないといいんだが……」


やがて、僕の住むマンションが見えてきた。

駐車場にメルセデスを滑り込ませ、周囲の様子を警戒する。昨日、奈穂の嬌声に引き寄せられてベランダ付近に密集していたゾンビの群れは、夜の間に大半が散ったようだ。コンビニの裏口付近に数匹の死体が佇んでいるが、あの程度なら僕一人で簡単に突破できる。


「二人は車の中で待っていてくれ。彩香を迎えに行ってくる。他にも色々と準備することがあるから、くれぐれも外には出ないように」


「はーい!」


「ここが新しい拠点になるマンションですか。……所定の駐輪数に対して自転車が異常に少ないですね。有事の際に出掛けて、そのまま戻れなかった住人が多いのでしょう。対照的に自動車の数が多い、しかも高級車ばかり……花壇もありますね。お花が綺麗に咲いてる」


冬子は初めて訪れる場所に物珍しそうな視線を向け、鋭い観察眼でマンションの様子を分析していた。

僕は車を降りてベランダの取り付きへと向かう。コンビニの裏口の傍らに、小柄な女のゾンビが力なく突っ立っていた。動きが恐ろしく緩慢だったため、背後を軽くすり抜けてかわそうとしたが――その横顔が視界に入った瞬間、強烈な衝撃に足を止めた。


「広瀬さん……!? なぜ、こんなところで……」


それは、コンビニの奥に籠城しているはずのパート従業員、広瀬さんだった。

変わり果てた彼女の顔や衣服には、ゾンビに噛まれた痕跡とは明らかに異なる、鈍器か何かで激しく殴打されたような無数の割創や皮下出血が刻まれていた。

(まさか、店長と佐藤の奴らが暴行を……!?)

以前の彼らの小心で善良な性格からは考えられない凶行だが、この極限の世界が人間の理性を狂わせ、獣へと変えてしまった可能性は十分に考えられた。


胸を焦がすような嫌な予感に突き動かされ、僕は排水管を一気に登って301号室のベランダへと滑り込んだ。

ガラス戸を開けて彩香の部屋に入るが、静まり返った室内に彼女の姿はなかった。

「彩香……?」

床に目を落とすと、泥のついた靴でドタドタと歩き回ったような土足の形跡が残されており、室内も微かに荒らされていた。


(彩香に何かあったのか!? まさか、本当に佐藤の奴が登ってきて――)


時刻はまだ早朝と言える時間帯だ。そう考えると、襲撃があったのは昨晩、僕が雪乃たちの救出のために不在にしていた時間帯である可能性が高い。だが、あの用心深く臆病な佐藤が、ゾンビの蠢く暗闇の中でわざわざ外壁を登って侵入してくるとは考えにくかった。


僕はベランダへ飛び出し、仮止めしてある間仕切りの隙間を通り抜けて自らの302号室へと向かった。

ガラス戸には内側からしっかりと鍵が掛けられていた。昨夜、僕がここを出る時には鍵を開け放っていたはずだ。


コンコン、とガラスを軽く叩く。

しばらくの緊張のあと、カーテンが開き、中から彩香が顔を覗かせた。


「彩香……! 良かった、ここに避難していたんだね」


ガラス戸を開けて中に入ると、彩香は安堵の溜息を漏らしながら僕の胸に飛び込んできた。


「そうなの。昨夜、あなたが出発した後に気になって何度も外を監視していたら、下の階から足音が聞こえてきて……。恐怖を感じて、急いでベランダからあなたの部屋に移動して、内側から鍵を閉めて潜んでいたのよ。やっぱり、私の部屋に誰かが入ったのね?」


「ああ。土足の跡があった。危ないところだったな……」


侵入者の行動を推測する。彩香の部屋を訪れて無人だった場合、そのまま大人しく引き返すのは不自然だ。

物資の略奪が目的なら、そのまま隣の部屋へ進むか、あるいはより侵入しやすい2階の部屋を漁るはずだ。もし隣へ進もうとすれば、ベランダの間仕切りが簡単に動くことに気づき、この302号室を襲っていたはず。だが、そうはならなかった。

つまり、奴らの目的は「物資」ではない。最初から「女」を目掛けて動いていたのだ。


(まさか……あの声が彼らを刺激してしまったのか)


理性を狂わせ、暴走を決定づけた要因――それは間違いなく、昨日、このマンションの4階から街全体に響き渡った、あのハレンチな嬌声だ。


『井上さん大好きぃ!!!』


あの声が、かろうじて理性を保っていた佐藤たちの劣情に火をつけ、狂わせたのだとしたら――。


「まずい、奈穂が危ない……っ!」


僕は急いでリュックに少量の食料を詰め込むと、排水管を伝って4階へと駆け上がった。

401号室を素通りし、隣の402号室――奈穂の部屋のベランダにたどり着いた瞬間、最悪の予感が的中した。ガラス戸が無残に叩き割られ、破片が四散していたのだ。


割れた隙間から室内に突入する。室内には激しく争ったような形跡はなかったが、奥にあるユニットバスの頑丈なドアに、何か硬い工具で何度も叩きつけられたような凄惨な凹みと抉り傷が無数に刻まれていた。

ドアノブを握るが、内側から完全にロックされている。


「奈穂! 奈穂、いるのか!? 僕だ、井上だ! 食べ物を持ってきた、開けてくれ!」


僕が声を張り上げると、沈黙ののち、ドアの向こうからかすかに震える声が返ってきた。


『井上、さん……? 本当に、お一人、ですか……?』


「ああ、僕一人だ。もう安全だから出ておいで」


しばらく躊躇うような気配のあと、カチャリと内鍵が外れる音が響き、ゆっくりとドアが開かれた。

中から現れた奈穂は、恐怖で顔を涙と汗でドロドロに濡らしていた。


「良かったぁ……! 本当に、本当に井上さんだぁ……っ!」


奈穂は弾かれたように浴室から飛び出すと、僕の胸の中に激しく抱みつき、大声をあげて泣きじゃくった。僕は彼女の引き締まった背中を優しく抱きとめ髪を撫でながら問いかけた。


「ガラスが割られていた。一体、誰が来たんだ?」


「怖かった……っ、ずっとトイレの中で丸まって……っ、ドアを開けられたら終わりだって、ぅぅ、ううう……っ!」


しばらく彼女をあやし、落ち着きを取り戻させたところで、リュックから出したビスケットと水を渡した。彼女はそれを貪るように胃袋に収めながら、昨夜の恐怖をぽつりぽつりと語り始めた。


僕が去った後、彼女は一度目を覚ましてシャワーを浴びたが、心地よい疲労感のせいで再び深い眠りに落ちていたという。

異変が起きたのは夜遅く。激しくガラス戸を叩く音で目が覚め、恐る恐るカーテンの隙間から覗くと、そこには見知らぬ大柄な男が立っていた。筋肉質の威圧的な体格をした男で、恐怖のあまり居留守を決め込んでいると、男は次第に激昂し、「開けろ!」と怒鳴り散らしながら、隣の空き部屋から持ってきたと思わしき巨大な金属製の工具でガラスを叩き割って侵入してきたのだという。

奈穂は咄嗟に身の危険を察知し、一番頑丈な鍵のあるユニットバスへ逃げ込んで立て籠もった。男は執拗にバールのようなものでドアを壊そうと叩き続けていたが、やがて諦めたのか、去り際に『クソアマ、また来るからな』と言い残して去っていったらしい。


「もう……もうこの部屋には一秒も居たくありません……っ! 井上さん、お願いです、わたしをここから連れ出してください……!」


奈穂を僕のコミュニティに組み込むことは最初から決めていたが、これほど早く、向こうから懇願してくるとは思わなかった。恐怖によって判断力が怪しくなっている今の彼女を説得するのは、容易いことに思えた。この絶好のタイミングを逃す手はない。


「もちろん歓迎するよ、奈穂。……だが、僕のコミュニティに入るには、それ相応の条件がある。君はそれに耐えられるかい?」


「条件……ですか? 何ですか、それ。もしかして、他にも男の人がいるんですか……?」


「いや、男は僕一人だけだ。他はすべて女性で構成する。男が複数いれば、必ず序列や女を巡って血を見るトラブルが起きるからな。男を排除するのは鉄則だ。――そして条件というのは、仲間になるなら、僕の『完全な女』になってもらうということだ。心も、身体も、そのすべてをね」


「心も、身体も……」


「これにも明確な理由がある。この崩壊した世界で生き残るには、互いの命を預け合えるだけの絶対的な信頼関係が必要だ。綺麗事だけでは命は守れない。だが幸いなことに、男と女にはセックスという、互いの肉体と本能を曝け出して理解し合える最高の手段がある。身体を完全に許し合うことで、僕たちは特別な絆を得られるんだ。……どうする?」


奈穂は赤くなった目で僕をじっと見つめ、やがて覚悟を決めたように小さく、だが気高く頷いた。


「分かりました……。恥ずかしいけれど、正直に言います。昨日、あなたにめちゃくちゃに抱かれてから……頭の中があなたのことばかりで、おかしくなりそうだったんです。もう、直くんとも二度と会えないでしょうし……。わたしを、あなたの女にしてください」


「よし。ただ、僕にはすでに彩香を含めて3人の女がいる。これからも増える予定だ。それでも構わないな?」


「はい……。あなたについていけるなら、不満はありません」

※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です

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