二人堕ちる
「雪乃、動けるか?」
「うん……私は大丈夫」
「今すぐこの家を出る。必要な荷物を急いで車に積み込め」
「わかった! お姉ちゃんをお願いね」
雪乃は涙を拭うと、毅然とした態度で部屋を飛び出していった。
抱きしめていた腕を少し緩め、冬子の顔を覗き込む。彼女は声を押し殺して泣いていた。乱れた前髪を優しく後ろへ流してやると、男に殴られたのか、彼女の白い頬が痛々しく腫れ上がっているのが見えた。
「見ないで……。あなたにだけは、こんな惨めな姿、見られたくなかった……」
弱々しく拒絶する彼女の唇に、僕は静かに自分の唇を重ねた。冬子は一瞬驚いたように目を見開いたが、舌を滑り込ませると、すがるようにその舌を強く絡ませてきた。激しいキスの応酬の中で、彼女の過呼吸気味だった呼吸が、次第に落ち着きを取り戻していく。
『見せつけてんじゃねえぞ……っ、グフッ、ゴホッ……!』
床に転がっていた、冬子を蹂躙した男が血反吐を吐きながら忌々しげに呻いた。再び男の元へ歩み寄り、その顔面を思い切り蹴り上げた。鼻骨が砕ける感触とともに、鮮血が噴き出す。
もう一人の男は、完全に戦意を喪失し、顔を青ざめさせてガタガタと震えていた。
「冬子、お前も連れていく。荷物の準備をしてこい」
「勝手に決めないでください……。もう、とっくに準備なんてしてありますけど……。――井上さん、助けてくれて、ありがとうございました」
微かにいつもの意地っ張りな調子を取り戻した冬子は、小さく頭を下げると、部屋を出ていった。
静まり返ったリビングで、ナイフを握り締めたまま思考を巡らせる。
(殺すなら、今だ。彼女たちにその瞬間を見せるわけにはいかないから)
「や、やめてくれ! 殺さないでください! 俺はあいつに誘われただけなんだ! 俺は女を殴ってもいない! 少し脅したら、妹の方が言う通りに咥えてくれたんだよぉ」
バシッ、と男の頬をパイプの腹で叩く。
「黙れ。お前たちの言い訳なんて、どうでもいいんだよ」
怯える男にロープを投げつけ、鼻血を流して気絶しかけている男の身体を縛り上げさせた。その後、残った男の身体も厳重に緊縛した。
しばらくすると、姉妹が大きなボストンバッグを両手に抱え戻ってきた。
「行こうか」
「こいつらは……このまま置いていくの?」
「ああ。外に運び出すのも手間だからな。家をめちゃくちゃにして悪かったな」
「仕方ないよ。ドアも窓も、全部鍵が閉まっていたんだから」
「さあ、車へ急ごう」
『おい、オッサン待てよ……っ!』
リビングを出ようとしたその時、鼻血まみれの男が、執念深く声を張り上げてきた。
『あんたさぁ……冬子とも雪とも、両方とデキてんのかよ!?』
「ああ、そうだ。二人とも僕の女だ」
『ふざけんじゃねえぞ! 俺はなぁ、2年前からずっと冬子のことが好きだったんだぞ! 頼むから冬子だけはここに置いていってくれよ!』
「誰があなたなんかと……。気持ち悪い」
冬子が冷徹な視線を男に投げかける。
「残念だったな。冬子はお前を激しく嫌悪している。それが答えだ。諦めろ」
『オッサン、あんた井上って名前だろ? 知ってんだぞ!』
「何をだ?」
『昼間、あのマンションの4階で、他の女を盛らせてただろ! 外まで女の卑猥な声が丸聞こえだったんだよ!「井上さん大好きぃ!」ってなぁ! だから冬子も雪も、そんな男に騙されんなよ!』
「プッ……、ハハハハハ!」
男の必死の暴露を聞いた瞬間、なぜか雪乃が突然大きな声をあげて爆笑し始めた。
「バッカじゃないの? 井上さんはカッコよくてモテるんだから、他にも女の人がたくさんいるのなんて当たり前じゃん。そんなの、私だってお姉ちゃんだって最初から知ってるよ!」
『なんだと……!? うああああ、許せねえ! 絶対に冬子は取り戻してやるからな! あのマンションの周りに張り付いて、隙を狙ってぶち殺してやる!』
「井上さん、こんな狂人の言葉を聞くだけ無駄ですよ。早く行きましょう」
冬子は一刻も早くこの空間から離れたいようだった。彼女の心中を察し、まだ背後で狂ったように喚き散らしている男を無視して、車へと向かった。
やはり、男達はマンションの事を知っている。あの男が二年間も冬子につきまとっていたストーカーなのだろう。
「雪、悪いけど後ろのシートに乗ってね」
「おっけー。本当に良かった、井上さんが来てくれて……。でも、どうして私たちのピンチが分かったの?」
「マンションで双眼鏡を見つけてな。彩香にこの家を見張ってもらっていたんだよ」
その時、冬子がハッとした表情で足を止めた。
「ごめんなさい、大事な忘れ物をしちゃった。すぐに戻るから、少しだけ待ってて」
「お姉ちゃん、急いでね。マンションは住めそうなの?」
冬子はそう言い残すと、止める間もなく家の中へと走っていった。
「見通しは立っている。うまく行けば明日から住めるよ」
その後、玄関から現れた男達を僕だと勘違いして家に入れてしまった事や、雪乃を庇った冬子が殴られナイフで脅されて恐怖に震えた事などを話してくれた。
「あなたには見られたくなかった、、お姉ちゃんは殴られて、私もナイフで脅されたの。それであの男に要求されて仕方なくなの、だから嫌いにならないでください」
「嫌いになんかならないよ。それよりも、謝るのは僕なんだ、すまない、早く戻ればこんな目には会わなかったのに」
「井上さんは悪くない。助けてくれたじゃない、大好きだよ」
雪乃は他の男と関係を持つことに大きな抵抗は無いようにみえた。彼女が誰にでも身体を許さないのは、僕に嫌われたくは無い、それだけの理由なのだろう。この年頃の女の子は、性欲と心のバランスが崩れ易いのかも知れない。しっかりと支えてあげる必要がある。
それからも雪乃は、冬子と二人で話した事などを教えてくれていたが、暫く待っても冬子は戻って来なかった。
「お姉ちゃん、遅いね……。何を取りにいったんだろ」
「僕が見てくる。雪乃は絶対に車から出るなよ」
「はーい」
不吉な予感が胸を過る。
開け放たれた玄関のドアを潜ると、リビングの奥から、先ほどまで喚いていた男の、悲痛な怯え声が響いてきた。
『やめ……やめてくれ! 頼む、頼むから助けてくれぇーー!』
嫌な予感に突き動かされ、僕はリビングへ飛び込んだ。
凄惨な光景が広がっていた。そこには、血塗れのナイフを両手で握り締め、冬子を蹂躙した男の胸元に刃を突き刺している、狂気に染まった冬子の姿があった。男はすでに事切れている。
「見られてしまいましたね……殺しちゃいました。わたし、人殺しになっちゃった。……ついて行きたかったけど、もうあなたとは一緒にいられません……」
「冬子、落ち着け。……そのナイフを僕に貸すんだ」
「ダメです、渡せません! だって……このナイフを渡しちゃったら、わたし、自分で死ねなくなっちゃうじゃないですか……」
「人を殺したから、僕と一緒に来られないと言うのか?」
「あたりまえです……。だって、人殺しですよ? わたしは、取り返しのつかない凶悪犯になってしまったんですから……自分で命を終わらせます」
涙を流しながら包丁を自分に向けようとする冬子を見つめ、僕は静かに言った。
「そんな下らないこと、気にするな」
「え……? 何を……」
テーブルに置かれたままの、もう一本のナイフを手に取った。
そして、思い切り突き刺した。
冬子は僕の行動を暫く唖然とした表情で見ていた、やがてその口元に歪んだ笑みを浮かべた。
「アハハ……なんて人なの……ステキです」
「これで、お前と同じだろ」
「……はい。それなら、わたしはもう、あなたについていくしかありませんね」
「こっちへおいで、冬子」
両腕を広げると、嬉しそうに僕の胸の中へと飛び込んできた。その細い身体を強く抱きしめ、血の味のする濃厚なキスを交わす。
「二人とも、揃って人殺しになっちゃいましたね。……大好きです。もう……離れませんから」
リビングには、二つの無残な死体が転がっていた。一人は冬子が殺し、もう一人は僕が殺した。冬子には酷な経験をさせてしまったが、マンションの存在を知られ、張り込みを予告された時点で、どのみち二人とも生かして返すつもりはなかった。
「玄関のドアは、開けたままにしておいてください。あのクズたちに、この家をゾンビとして荒らされるのは胸糞悪いですから」
「やはり……噛まれなくても、人間は死ねば確実にゾンビ化するのか?」
「ええ、まず間違いありません」
車に戻ると、助手席のドアを開けた冬子と僕を見て、雪乃が「もう、遅いよ!」と膨れて怒った。
今夜はマンションに戻るのを諦め、どこか安全な場所を探して車中で夜を明かすことにした。
「二人とも……助けに行くのが遅れてしまって、本当に済まなかった」
ステアリングを握りながらバックミラー越しに謝罪すると、雪乃が優しく微笑んだ。
「井上さんが来てくれただけで、私は最高に嬉しいよ。わたしは嫌な思いはしたけど、前にも似たようなことがあったから大丈夫」
「わたしも、井上さんには感謝しています。最悪な目に遭いはしましたが……幸いにも、射精まではされませんでしたから」
冬子が淡々と淡白に告げる。すると、後部シートの雪乃が身を乗り出してきた。
「こんなことになるなら、お姉ちゃんも井上さんに処女を捧げておけば良かったのにね」
「ブッ……!」
「ふふふ……っ」
あの日の事を雪乃は何も知らない。僕と冬子はお互いに顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。
「えっ、なになに!? 二人で怪しく笑って、わたしにも教えてよ!」
「……わたしの処女なら、井上さんに……犯されて奪われましたよ」
「おい、あれは和姦だろ」
「違います。完全なレイプでした」
「でも、2回目は自ら求めてきただろ?」
「あれは……その、雰囲気に流されただけで……っ」
「ちょっと、マジ信じられないんだけど、いつの間に?泊まったのは一晩だけで私と寝てたよね、ねえ?えー?おかしくない?」
凄惨な事件の直後だというのに、車内には軽口と笑い声が響いていた。僕たちの精神は、やはりこの世界の崩壊と共に、どこか決定的に壊れ始めているのかもしれない。
「ねえ、二人とも。最後に一つだけ教えて。――あのクズたち、ちゃんと殺してきたんだよね?」
雪乃の瞳から一瞬だけ無邪気さが消え、冷徹な光が宿った。
「ああ。僕が二人とも、確実に処理したよ」
「井上さん……それは……」
冬子が僕を気遣うように視線を向けたが、僕は前を見据えたまま静かに頷いてみせた。
「ふーん、ならいいや! やっとお姉ちゃんも、あのストーカーから解放されたんだね。良かった」
「……ええ、ありがとう、雪乃」
冬子は泣き出してしまった、彼女は二年間もあの男につきまとわれ、怖くて外にも出られず高校を退学になったのだ。その男は死んだ、もう二度と冬子の前に現れる事はない。
これで良かったんだ、と自分に言い聞かせた。殺人が忌むべき行為なのは理解している、避けたいとも考えている。
しかし、危害を加える存在を確実に消し去るには殺すしかない、少なくとも僕には他の方法が思いつかなかった。
その夜、僕たちは幹線道路に架かる大きな橋の真ん中にメルセデスを停車させ、周囲の安全を確保した状態で、静かに夜が明けるのを待った。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




