外の様子
マンションの一階にコンビニの店舗があり、2階から4階はワンルーム、5階から7階は3LDKのファミリー向けという構造になっていた。住人もよくコンビニを利用するため、自然と顔見知りの人が多くいた。どの部屋かは知らないが、パートの広瀬さんもこのマンションに住んでいるらしい。
裏口から外に出ると、幸いにも視界の範囲にゾンビの姿はなかった。少し安心したものの、一歩間違えれば死に直結する現実を思い出し、喉の渇きを覚えながら、音を立てないようにマンションの正面玄関へと向かった。
コンビニの角を慎重に曲がり、玄関が見える位置までたどり着く。入り口の自動ドアは開かれたままで、人影は見えなかった。問題なくエントランスに入れそうに思えたが、よく観察すると壁やガラス、床に赤黒い汚れがこびりついている。
あれは、血痕なのか……。
恐る恐るエントランスに足を踏み入れると、その血痕はますます明確になり、鼻を突く鉄錆のような臭いが不安をかき立てた。
(これは……本当に、取り返しのつかない状況なんだな)
玄関ホールに進んだその時、奥の方でズルリと何かが物音を立てた。視線を凝らすと、薄暗がりにいくつかの影が揺れている。
まずい、気づかれる。
僕は慌てて引き返し、コンビニの壁の死角に身を隠した。心臓がうるさいほどに鳴り響く。周りを見回すと、ゴミ箱の上に空き缶が捨ててあるのを見つけた。それを手に取り、玄関とは反対の方向へ向かって力任せに投げつけた。
――カラーン、カラン、コロコロ……。
静寂の中に響いた鋭い金属音。隠れて様子を伺っていると、ズルズルと足を引きずる音を立てて、20体ほどの人の形をした「それ」が、群れをなしてマンションの外へと誘い出されていった。
足や手がえぐれていたり、首に大きな傷を負って顔半分が損壊していたり……凄惨な光景に吐き気が込み上げる。しかし何よりも僕の精神を削ったのは、そのゾンビたちのほとんどが、数日前までコンビニに来店していた「顔見知りの住人」だということだった。
「なんで、こんなことに……」
呆然としてその場に座り込んでしまいそうになったが、首を振って当初の目的を思い返した。
「とにかく、自分の部屋に戻らないと……」
僕の部屋は3階の302号室。正面から見て右から2番目だ。この状況では、エレベーターや内部の階段を使用するのはリスクが高すぎる。
「外から登ってみるか……」
ベランダを3階までよじ登り、ベランダの間仕切りを乗り越えるか、難しければ壊して部屋に入ろうと考えた。
意を決して取り付くと、張り出した排水管や手すりに手足をかけることで、思いのほかスムーズに身体を引き上げることができた。普段は意識しなかったが、防犯面の脆弱さに今更ながら不安を覚える。
ストン。
無事に3階まで登り切り、一番右端の部屋のベランダに降り立った。気配を消したまま素通りし、隣の部屋との間仕切りを調べる。
両端や床面は金具で固定されているが、板自体は木製のようで、強く衝撃を与えれば破れそうに見えた。
ドン、ドン。
足で蹴り破ろうと何度か衝撃を与えてみたが、簡単には壊れない。こうなったら助走をつけて体当たりでぶち破るしかない。一歩後ろに下がって構えた、その時だった。
「……何をしているの?」
「えっ……あ、こんにちは」
メガネをかけた女性に突然ガラス戸を開けられ、僕は驚きのあまりマヌケな挨拶を返してしまった。
「あなた、302に住んでいるコンビニの店員さんよね?」
「はい。部屋に戻りたくて……騒がしくしてすいません」
「どうしてベランダに? ああ、下から登ってきたのね」
彼女は少し目を丸くしたあと、僕の侵入経路に思い至ったようだった。
「ところで、あの……」
「黒木です。黒木彩香と申します」
「井上マサキです。廊下やお店で見かけていたので知っています。お綺麗ですし……OLさんですよね?」
「まあ、お上手ね。そうね……こんな場所で話すのも何ですから、中に入ってくださらない?」
「いいんですか?」
「かまいませんわ」
入れてもらえて本当に助かった。この部屋から廊下に出られれば、僕の部屋は隣なので、わざわざ壁を壊さなくても玄関から移動できるはずだ。
「コンビニで籠城……いいわね。食べ物や飲み物には不自由しないでしょうから」
黒木さんは部屋の鍵を閉めながら、どこか他人事のように呟いた。
「そうですね。数ヶ月はしのげると思います。でも、いつかは物資も尽きますし……」
「それを考えると、先行きが不安よね。……それで、あの、そのリュックの中には?」
「ああ、少しだけ食料が入っています。黒木さんは、食べ物は足りていますか?」
「いえ、実は普段は外食ばかりで買い置きがなくて、もう二日も何も食べていないの。もし良ければ、一つでもいいから分けていただけないかしら?」
「いいですよ、どうぞ」
僕はリュックから飲み物や缶詰、パンなどを取り出し、テーブルの上に並べた。
「こんなに、いいんですか?」
「驚かせてしまったお詫びですから、気にしないでください」
「ありがとうございます。井上さんは優しいのね」
余程お腹が空いていたのだろう。彼女は手際よく包装を破るとパンを一口大きく頬張り、にこりと微笑んだ。その笑顔があまりにも魅力的で、私は思わず見惚れてしまった。
「……ゴホッ、ゴクリ。そんなに見つめないでください、恥ずかしいわ」
「あ、ごめんなさい。綺麗な人は、食べている姿も絵になるなと思って」
「うふふ、井上さんって褒めるのがお上手ね。それにあなたって、落ち着いていてどこか知性を感じるわ。……気を悪くしないでほしいのだけど、とてもコンビニの店員さんには見えないの」
「コンビニで働き始めてからは、まだ数ヶ月なんです。以前はサラリーマンをしていましたから」
大学を卒業後、それなりに大きな企業に就職した。高校・大学時代を共に過ごした彼女と同棲し、結婚の約束もしていた。――だけど今は、会社を辞めて寮完備のコンビニで働いている。
「そうなの……」
彩香は僕の表情や雰囲気から何かを察してくれたのか、それ以上の詮索はしてこなかった。コンビニで働くことになった理由は、まだ他人に話せるほど心の中で吹っ切れていなかったため、彼女のその心遣いが純粋にありがたかった。
「ご馳走さまでした。それで井上さん、お隣の自室へ移動したいのよね?」
「そうなんです。ベランダの間仕切り板を壊して部屋に入ろうと思っていました。だけど、黒木さんが部屋に入れてくれたので、玄関から移動することにします」
「待って、それは危険よ。廊下を何体か歩いているのが見えたの。その……」
「ゾンビ、ですね」
「ゾンビ……そう、まさしく、あれはホラー映画に出てくるゾンビそのものだわ」
彩香は僕の言葉を頭の中で反芻するように少し考えてから頷き、独り言のように呟いた。私は玄関の覗き穴から外の様子を伺う。
「ダメだ、四体のゾンビが廊下にいます。あれは……305号室と307号室の住人だ。あとの二体も見覚えはありますが、どの部屋の人かまでは分からないな」
「顔見知りが、あんな姿になっているのを見るのは複雑な気持ちになるわね」
「本当にそうですね。一階の玄関ホールにも変わり果てた住人がいて、嫌な気持ちになりました。なんでこんなことになってしまったのか……」
「どうなさるおつもり?」
「玄関から出られないこともないですが、もし噛まれたら終わりです。安全を取って、当初の予定通りベランダから部屋に向かいます」
「それがいいわね。んー、さっきベランダの間仕切りを少し観察していたのだけど、あそこ、プラスのネジで留められているから、ドライバーがあれば外せるんじゃないかしら?」
彩香に言われてベランダの間仕切りを調べてみると、確かに壁面と手すりにビスで固定されているだけだった。彼女が持ってきてくれたドライバーを使ってビスを外していくと、どこも壊すことなく綺麗に板を取り外すことができた。
私は少し考え、真ん中あたりのビスだけを一本だけ残して締め直した。少し力を入れて押すと、そのビスを支点として間仕切り板が動き、簡単に隣のベランダへと行き来できる仕掛けが完成した。
「あはは、面白いわ! まるで忍者屋敷ね」
「これで、いつでも黒木さんの部屋に遊びに来られますね」
上手くいったのが嬉しくて、少し調子に乗って冗談めかして言ってみた。だが、彩香は動じることもなく、大人の余裕を感じさせる笑みを浮かべた。
「まあ。嬉しいことを言ってくださるのね。井上さんなら、いつでも大歓迎します」
「あっ、その……はい」
彩香のような美女にそんな風に誘われるようなことを言われると、急に男としての悶々とした感情が湧き上がってしまい、上手く言葉を返すことができなかった。
自室は三階ということもあり、外から部屋に侵入されることなど全く警戒していなかった。そのため、窓の鍵をかける習慣がなかったのだが、今回はそれが幸いして、ベランダから簡単に自室へと入ることができた。しかし、こうして外から簡単に三階まで登れてしまう現実を知ると、今更ながら自分の無用心さを反省した。
当然のことだが、部屋の中は二日前に出たときのままだった。この部屋にはまだ二ヶ月ほどしか住んでいないため物が少なく、あまり生活感がない。
とりあえずシャワーを浴びて清潔な服に着替え、ベッドに寝転がった。我が家に戻れたという圧倒的な安心感から、すぐに心地よい眠気が襲ってきて、そのまま意識を失うように眠ってしまった。
再び目を覚ましたときには、外はすっかり暗くなっていた。
これまではコンビニの床に段ボールを敷き、店長から借りた毛布にくるまって眠る生活を送っていたため、寝心地が良いとは言えず、疲労が限界まで溜まっていたのだろう。
お腹が減ったので冷蔵庫を開けてみたが、普段はコンビニの売れ残りを食べていたため、中には大した物が入っていなかった。
「驚くほど食べるものがないな……。料理スキルも皆無だから仕方ないか」
大学時代から、料理の得意な彼女と一緒に暮らしていたため、自分で包丁を握ったことなど殆どなかったのだ。
「京香は、今どうしているだろう……無事なのかな」
不意に、元カノである京香のことが頭をよぎった。同時に、彼女と別れるに至った当時の苦い経緯までもがフラッシュバックし、目頭が熱くなって涙が溢れてきた。
ブンブンと頭を振り、無理やり気持ちを切り替える。
(駄目だ、京香のことはもう忘れよう。前を向いて生きていくと決めたんだ)
ゴソゴソとキッチン周りを探ると、入居したての頃に買って忘れていた乾燥パスタとレトルトのソースを見つけた。その他に口にできそうなものは、ビールと少しの食パンだけだったが、何とか今夜の夕食にはなりそうだった。
……井上さんなら、いつでも歓迎しますわ……
さきほど黒木さんが口にした言葉が頭をよぎる。恐らくは社交辞令だとは思ったが……断られるのを覚悟で声をかけることにした。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です
あちらは、ラブシーンに少しづつ挿絵もいれてます。




