6階の未亡人
――コン、コン。
ベランダのガラス戸を叩くと、すぐにサッシが開け放たれた。
「……食料、持ってきてくれたの? ご苦労様」
流石に昨日のように包丁は構えていないものの、彼女は腕を組み、相変わらず高圧的な態度を崩していない。まだ、この世界における致命的な「上下関係」を理解していないようだ。
「中に入れてくれないか?」
「ダメに決まっているでしょ。早くそこにある食料を渡しなさいよ」
「……君のその態度、少し気に入らないな」
「な、何よ……っ。ケチケチしないで、早く頂戴よ!」
僕はポケットから、小さなアポロチョコを一箱だけ取り出して彼女の手元に放り投げた。
「……これだけ!? 馬鹿にしてるの?」
「無いよりはマシだろう。気が向いたらまた来るよ。明日になるか、明後日になるか……あるいは、一週間後になるか……」
「そんな……っ! ちょっと待ってよ、本当に食料を持っているんでしょう!?」
「持っているよ。ほら、見てみな」
僕はリュックのジッパーを少しだけ開き、中にある大量のサトウのご飯や缶詰のストックを見せつけてやった。
「……っ!! ご、ごめんなさい……っ! 中に入ってもいいから、お願い、その食料を私に渡して……っ!」
「ダメだ。今日はそのアポロチョコで我慢しろ」
「そんな……嘘でしょ……お願い、井上さん……っ! もう本当に食べるものが無いんです……。このままだと、私、餓死しちゃいます……っ!」
昨日は強がっていたものの、やはり彼女の胃袋は限界を迎えていた。何日もまともな食事を摂っていないのだろう。一瞬、不憫に思う気持ちが頭をよぎったが、ここで甘やかしては意味がない。彼女がその極上の肉体を自ら差し出し、僕に従属するまでは――。これも、彼女をこの地獄で生き残らせるためなのだから。
「僕も色々と忙しくてね。そうだな……昼過ぎにもう一度来るから、それまでに『僕をどうやって喜ばせるか』、その頭でよく考えておくんだね」
「待って……っ! お願いだから行かないで……っ!」
「忙しいんだ」
ベランダの手すりから必死に手を伸ばして追いかけてくる河合を冷酷に黙殺し、さらに上の階層へと登っていった。
501号室のベランダに降り立つ。中を覗き込んだが、人の気配は全く感じられない。効率を重視するため、この階は一旦スルーしてさらに上へと身体を引き上げる。
続く601号室のベランダに降り立った時、室内から不意に声をかけられた。
「――こんにちは。あなた、下のコンビニの店員さんですよね?」
見上げると、レースカーテンの隙間から、僕よりも少し年上の、酷く落ち着いた品のある女性がニコリと上品な微笑を浮かべて佇んでいた。
「はい、店員の井上です」
「若宮千里と申します。……もしよろしければ、中で少しお話ししていかれませんか?」
先を急いではいたが、今後のマンション占拠計画を考えれば、上層階の住人と良好な関係を築いておいて損はない。何より彼女の物腰は非常に洗練されていて好感が持てた。
「よろしいんですか?」
「ええ、喜んで。この騒動が始まってから、何日も誰ともお話しできていなくて、とても寂しかったものですから……」
千里さんに促されるまま、僕は窓から室内へと足を踏み入れた。部屋の中は驚くほど綺麗に片付けられており、全体が白を基調とした高級感のある家具で統一されていた。
「食料は足りていますか?」
「ええ、何とか。主人が少し被災経験のある人でして、普段から防災グッズや長期保存食を熱心に揃えてくれていたものですから」
「ご主人からのご連絡は?」
「この騒動が起きてすぐ、職場から『今から急いで帰宅する』と連絡があったのですが……それっきり途絶えてしまって。でも、あの人ならきっと、どこかで無事でいてくれていると信じています」
ご主人を深く愛しているのだろう。その凛とした態度を見るに、力尽くで襲うような真似は通用しそうにない。
「これ、少ないですがお菓子です。どうぞ」
僕はリュックからチョコレートとビスケットの箱を取り出してテーブルに置いた。千里さんは「まあ……!」と声を弾ませて、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「井上さんは、これから最上階の7階へ登られるのですか?」
「ええ。実は、オーナーの岡田さんが亡くなっているのを発見しまして。この非常事態を生き抜くために、何か役に立つものが残されていないか、探しに行こうと思っているんです。……泥棒のような真似で、恥ずかしい限りですが」
「――岡田さんが、お亡くなりに……? そうですか、あの方が……」
千里さんがポツリと呟いた。その一瞬、彼女の美貌に、信じられないほどの「歓喜」と安堵の色が混じった暗い光が走った。僕は強烈な違和感を覚えた。
「あの、井上さんは、今もまだあのコンビニで働いていらっしゃるの?」
「いえ。店長のやり方や方針にはついていけず、意見の違いから決別しました」
「……店長さんは、まだ生存されているのですね」
「ええ、おそらく今もコンビニに立て籠もっているはずです」
店長が生きていると聞いた瞬間、千里さんの表情に、明らかな嫌悪と失望の影が広がった。普段は人当たりの良い上品な奥様といった風情だが、どうやら彼女は、オーナーの岡田やコンビニの店長を、激しく憎悪していたらしい。この崩壊した世界では、誰がどんな闇を抱えていても不思議ではない。
「ちなみに、玄関から外の様子は見られましたか?」
「初日に少しだけ外に出ました。でも、下の階から恐ろしい呻き声が聞こえてきて……すぐに鍵を閉めて引き返しました。エレベーターを使うのも、もし途中で電気が止まって閉じ込められたらと思うと怖くて」
「非常に賢明な判断です。今、エレベーターホールや階段にはゾンビが溢れかえっていますから」
「まあ……本当に恐ろしい……」
細い肩を震わせる彼女は、大人の色香に満ちていて非常に美しく、不思議と会話が弾む。これまで人妻に興味を持ったことなどなかったが、彼女と過ごす空間には、他にはない極上の癒やしがあった。
(……少しだけ、揺さぶりをかけてみるか)
僕は静かに立ち上がると、対面のソファに座る千里さんの元へとゆっくり歩み寄った。彼女の傍らに深くしゃがみ込み、その華奢な肩へとそっと手を回して、耳元で低く囁いた。
「千里さんのことは、僕が責任を持って気にかけておきます。……また、こうして部屋にお邪魔してもよろしいですか?」
「あっ……」
千里さんは微かに身体を強張らせたものの、僕の手を拒絶することはなかった。熱い吐息を漏らしながら、潤んだ瞳で僕を見つめ返す。
「はい……。あの、本当は主人のいないお部屋に男の人を入れるなんて、絶対に駄目なんですけれど……井上さんは、とても素敵な、良い方のようですから……」
「どうでしょうね。僕は、自分が気に入った特別な女性にしか優しくしない男ですよ。……千里さんは、とても綺麗だから」
「まあ……嬉しいわ。でも、その……まだ主人が生きているかもしれませんし、その、これ以上の深い関係に、今すぐというのは……」
「ええ、分かっています。急がせるつもりはありませんよ。では、今日はこれで失礼しますね」
それ以上追及せず、大人の余裕を見せるように立ち上がり、ベランダへと歩き出した。
「――待ってください、井上さん!」
「まだ何か?」
「また……必ずお越しくださいね? その時は、私にできる精一杯のおもてなしをさせていただきますから……っ」
「ええ、考えておきますよ」
時間が潤沢にあれば、このまま彼女をソファに押し倒して強引に陥落させているところだが、今回の本命は7階だ。僕は大人の駆け引きの余韻を残したまま、彼女の部屋を後にした。
6階から地上を見下ろすと、流石に高さに足がすくみそうになる。しかし、ここまで登ってきた経験を信じ、「やるべき動作は同じだ」と自分に言い聞かせて平常心を保つ。
途中で一度、指先が滑って冷や汗が吹き出る瞬間があったものの、何とか最上階である7階のベランダへとたどり着いた。
7階のベランダは、他の階層とは完全に一線を画していた。驚くほど広く設計されており、高級なアウトドア用のテーブルとチェアが並べられ、優にバーベキューが楽しめるほどのスペースがある。最上階ゆえに外壁からの侵入など100%想定していなかったのだろう、サッシの鍵は無警戒に開け放たれていた。
室内へ一歩足を踏み入れた瞬間、僕はその豪華さに圧倒された。まるで超高級ホテルのスイートルームだ。間取り自体は3LDKのようだが、一部屋ごとの空間が異常に広い。
寝室、ゲストルーム、仕事部屋、そして広大なLDK。
主寝室の真ん中には、見たこともないキングサイズの巨大なウォーターベッドが鎮座しており、ゲストルームには贅沢なベッドが2台。そして仕事部屋には、高性能なPCと大型モニターが実に6台も並べられ、何かの監視システムのようになっていた。さらに、特注のバスルームとウォークインクローゼットが独立して作られている。
そして何より驚いたのは、通常の玄関とは別に、部屋の奥に隠されるように設置された勝手口のようなスペースだった。そこには、一般の住民が使用するのとは完全に独立した「オーナー専用のプライベート・エレベーター」が備え付けられていたのだ。
(……なるほど。これを使えば、住民に顔を合わせることなく駐車場へ直接売り買いに行けるわけか。駐輪場の横にあった、あの厳重な鉄の扉はここに繋がっているんだな)
リビングの重厚なデスクの引き出しを片っ端から漁ると、ケースの中から無造作に詰め込まれた大量の札束(数百万円分)が出てきた
今やただの紙屑だ。僕が求めているのはこれじゃない。
「――あった。この鍵の束の、どれかだな」
引き出しの奥から、ズッシリと重い大量の鍵がリングでまとめられた束を発見した。親切なことに、一本ずつの鍵にラベリングされたテープが貼られている。
『外周シャッター』『正面玄関』『発電室』『非常扉』『専用エレベーター』、そして――【全館マスターキー】。
「発電室……? このマンション、まさか自家発電装置があるのか?」
マスターキーの入手もさることながら、僕は『発電室』という文字に強烈に心揺さぶられた。もし自家発電が機能すれば、この要塞化計画は完璧なものになる。設置場所はおそらく、この専用エレベーターを降りた最地下か、駐輪場奥の鉄扉の近くだろう。
鍵の束を慎重にリュックの奥へしまい、続いて食料を探す。
キッチンにある超大型の冷蔵庫を開けたが、中は高級ビールや大量のプレミアムアイスクリームばかりだった。当然、電力の切れた室内でアイスは無惨にドロドロに溶け、異臭を放ち始めている。冷蔵庫の横には巨大なワインセラーがあった。岡田はコンビニに来ては「その日食べたいものだけを買い占める」タイプだったから、長期保存の効く備蓄食料はほとんどないようだ。
次に寝室のサイドボードにある小型冷蔵庫を開けると、そこには僕の予想通り、おぞましい性質の品々が冷やされていた。
数本の高級バイブ、大容量のローション、海外製の怪しい薬、大量のコンドーム、そして――何かの成分が書かれた謎の錠剤。
「……相変わらず、ゲスな男だ」
僕は冷ややかな嫌悪感を抱きながらも、今後の「女性たちの管理と調教」のために、バイブ、ローション、怪しい薬を迷わずリュックへと詰め込んだ。使えるものは何でも使う。それがこの世界のルールだ。
寝室のベッド脇には、薄型のノートパソコンが置かれていた。主電源は落ちていたものの、バッテリーの残量があったため、起動ボタンを押すとあっさりと画面が立ち上がった。パスワードすら設定されていない。
「……ん? なんだ、このフォルダは……」
デスクトップのド真ん中に【ハメ】とだけ名付けられたフォルダが存在していた。
嫌な予感を覚えながらクリックして中を開くと、そこには複数の「数字が書かれたフォルダ」と、一つだけ【キャバ】と名付けられたフォルダがあった。
まず【キャバ】のフォルダを開くと、無数の動画ファイルが並んでいた。適当なものを再生してみる。
画面に映し出されたのは、岡田が金の力で囲っていたであろうキャバクラ嬢との、生々しいハメ撮り映像だった。アングルも素人臭く、未編集の退屈な代物だったため、僕はすぐに動画を閉じた。
問題は、もう一方の「数字の羅列がつけられたフォルダ」群だ。
中身を確認していくと、こちらも素人らしき若い女の子たちとのハメ撮り動画だったが、決定的な違和感があった。明らかに女性側の意識がなく、眠らされている、あるいは動けない状態の女の子を、岡田が一方的に襲っている犯罪的な映像ばかりだったのだ。
そして、ある動画を再生した瞬間、僕の全身に凄まじい戦慄が走った。
(……待て。この部屋の内装、見覚えがある。……いや、見覚えがあるなんてレベルじゃない。これは――!)
動画に映っているワンルームの構造、キッチンや備え付け家具の配置、壁紙の色。それは、僕が毎日過ごしているこのマンションの室内の間取りと、完全に「同一」だった。
「この数字……まさか、このマンションの『部屋番号』なのか……!? ということは、岡田の奴、マスターキーを使って……っ」
心臓が早鐘を打ち、激しい動悸が喉元までせり上がる。
インデックスの画面に戻り、数字の並びを血眼になって凝視する。
そこには、ハッキリと書かれていた。
【301】
【601】
「嘘だろ……。彩香と……千里さん、なのか……?」
奥歯がガタガタと震えるのを感じながら、僕はまず【601】のフォルダをクリックした。中には、2つの動画ファイルが保存されていた。僕は息を呑み、震える指先で、その最初のファイルをダブルクリックした――。
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




