オーナー
――ちゅ、ちゅ、ちゅ。
頬や唇に受ける、小鳥のような小刻みな感触で意識が覚醒した。ゆっくりと目を開けると、至近距離で雪乃が嬉しそうに顔を綻ばせている。
「おはよう、井上さん」
「朝からずいぶん機嫌が良いね」
「最高です、もうめちゃくちゃ幸せです! 好きな人の胸の中で目覚められるなんて、本当に夢みたい。大好き、井上さん……っ」
布団の中でしばらく雪乃を抱きしめ、甘やかな時間を過ごしてから、僕たちは揃ってLDKへと移動した。しかし、リビングにはまだ誰の姿もない。
「珍しいな。お姉ちゃんがこの時間まで寝坊しているなんて」
「冬子ちゃんって、昔から男嫌いだったの?」
「あ、それなんですけど……。井上さんだから、本当のことをお話ししますね」
雪乃は少し声を潜め、ソファーに腰掛けながら語り始めた。
「お姉ちゃん、頭がすごく良くて、中等部まではお堅い名門の私立女子校に通っていたんです。ずっと女子だけの環境だったから、そもそも男性に対する免疫が全くなくて」
「なるほど。でも、免疫がないのと『嫌悪』は少し違うよね?」
「そうなんです。お姉ちゃんって見ての通り美人だから、高校に進学してからはすごくモテて、一時期は彼氏もいたんです。……でもある日、この家にその彼氏を呼んでいた時、突然お姉ちゃんの部屋から悲鳴が聞こえてきて……。私が駆けつけたら、お姉ちゃんが押し倒されて、無理やり襲われそうになっていたんです。その時は未遂で済んだんですけど、それ以来、お姉ちゃんは完全に男の人が駄目になっちゃって」
「それは災難だったね。でも、彼氏なら、その後の話し合いで誤解を解くことはできなかったのかい?」
「それが……お姉ちゃんがその事件の後にすぐ別れを切り出したら、その男、今度は凶悪なストーカーになっちゃったんです。何度も帰り道に襲われそうになったり、この家の周りをうろつかれたりして……。お姉ちゃんは怖くて外に出られなくなって、結局高校も退学して、この2年間ずっと部屋に引きこもるようになっちゃったんです。だから、私もあまり一人では外に出歩かないようにしていて……」
雪乃の口から明かされた重すぎる過去に内心で激しく動揺した。そんなトラウマを抱えた人間を、僕は今朝、力尽くで組み敷いて処女を奪ってしまったのだ。
(……大丈夫だったのだろうか。恨まれて、取り返しのつかないことになっていないか……?)
急激な不安が胸を締め付け、背中に冷や汗が伝う。
「おっはよー!」
その時、廊下からパタパタと軽い足音が響き、冬子がリビングへと姿を現した。驚いたことに、彼女の声のトーンは信じられないほど陽気だった。
「あ、おはよう、お姉ちゃん。珍しいね、こんな遅くまで寝ているなんて」
「おはよう。冬子さん、僕たちは先にご飯を済ませてしまったよ」
「――『冬子ちゃん』だなんて! 井上さんは年上なんですから、これからは呼び捨てでいいですよ」
冬子は頬を林檎のように赤らめながら、はにかむように微笑んだ。
「ごめんなさいね、せっかくの朝なのに食事の準備もできなくて。わたし……なんだか昨日からとっても疲れてしまって、泥のように眠ってしまったの。でも……うふふ、今はとっても幸せな気分です」
「……お姉ちゃん、本当に大丈夫?」
あまりの豹変ぶりに、雪乃が完全に引き気味の目で姉を凝視している。
「君の過去を雪乃から聞いて、少し心配していたんだ。……元気そうで、本当に良かったよ」
「まあ! 井上さんに心配していただけるなんて、本当に嬉しいです……っ」
「??? ……ちょっと、どういうこと? 一体何があったの!?」
僕に対する冬子の露骨なベタ惚れぶりに、雪乃は目を白黒させて驚愕していたが、僕も冬子も、その本当の理由を口にすることはなかった。
僕は留守を守る二人に、見知らぬ者が来たら絶対にドアを開けないよう厳重に忠告し、再びマンションへと向かう支度を整えた。
「わたしも一緒についていきたいな」
「ダメだよ、雪乃。君にはベランダの排水管を登る体力はないし、外は危険すぎる。大切な君を危ない目に合わせたくないんだ」
「あのね……なんだか、すごく嫌な予感がするの。だからお願い、置いていかないで……っ」
「あと数日、準備が整うまで待ってほしい。必ず迎えに来るから」
「……わかったよ。気をつけてね」
出掛けに雪乃が駄々をこねたが、優しく宥めて何とか納得させ、僕は岡田のメルセデスへと乗り込んだ。
車を発進させてすぐに街の空気が昨日までとは決定的に異なっていることに気づいた。最大の違和感は、他に走行している車を複数台、見かけるようになったことだ。誰もが焦燥しきった顔でハンドルを握り、何処かへと暴走している。さらに、物陰からこちらの車を値踏みするような「人間の視線」が、肌にねっとりとまとわりつく。
マンションの敷地周辺にも、明らかにゾンビの数が増えていた。一刻も早く、上の階層への避難計画を進めなければならない。
排水管を伝って3階のベランダから彩香の部屋に入ると、彼女は窓辺で双眼鏡を構えたまま、非常に険しい表情を浮かべていた。
「どうしたんだい、彩香」
「井上さん……。双眼鏡で街の様子を観察していたのだけれど、かなり不穏な状況よ」
「何が起きているのか、教えてくれるかい?」
「ええ。まず、徘徊しているゾンビの密度が目に見えて上がっているわ。それから昨日の夜、市街地の何箇所かで大きな火の手が上がっていたの。……恐らく、本格的な『略奪』と暴動が始まってしまったのだわ」
「火の手って、どの辺りだ?」
「まだ白い煙が上がっているはずよ。ほら、あの方角……」
彼女が指差す先を凝視した僕は、思わず息を呑んだ。
「あそこは……コンビニじゃないか……!」
「そうなの。レポートにも書いたけれど、物流が完全にストップした現状で、コンビニやスーパーは真っ先に暴徒の標的になるわ」
「このマンションが襲われるのも時間の問題だね」
「ええ。だからこそ、早急に上の階層へ立て籠もる必要がある。……それともう一つ。さっきから、下のコンビニの若い店員が、何度も不審に外に出てきているの。まだ登っては来ないけれど、このベランダの壁や排水管の構造を、執拗に観察していたわ」
佐藤くんなら、若さと体力に任せて排水管から登ってくることは容易だろう。もし彼が武器を持って侵入してくれば、彩香が極めて危険な目に晒される。何としてでも、下階からの侵入を物理的にシャットアウトできる「絶対的な安全圏」を確保しなければならない。
僕はポケットの中から、岡田の死体から奪ったキーケースを強く握りしめた。迷っている暇はない。やるしかないんだ。
「――今日、最上階の7階まで登ってみるよ。7階なら、万が一にも外壁から侵入されるリスクはない。そこで安全を確保したあと、3階までの階段にいるゾンビを内側から排除して、彩香を7階に避難させる」
「7階……? ねえ、以前から少し気になっていたのだけれど、井上さんが乗っているあの車、オーナーの岡田さんのものよね? どうしてあなたがその鍵を持っているの?」
「……実は、岡田さんの遺体を駐車場で見つけたんだ。不憫だったから、シートをかけて隠してあるけどね」
「えっ……あの人が、死んだ……?」
そう呟いた瞬間、彩香の顔に、喜びとも悲しみともつかない、酷く複雑で奇妙な感情が去来したのを僕は見逃さなかった。
「彩香……? どうかしたのかい?」
「……いいえ。そうね、この状況なら、隠さずにすべて話しておくべきね。井上さん、このマンションの『本当のオーナー』が誰だか知っている?」
「僕はコンビニで働くことになり店長に紹介してもらったんだけど店長……ではないよね。詳しくは知らないな」
「このマンションの名前は『ルミナスOKD』。オーナーは、その亡くなった岡田さんよ。下のコンビニの土地も建物も、すべて岡田さんの所有物。店長さんは、岡田さんの昔からの悪友に過ぎないわ」
「友人だとは聞いていたが、そんな上下関係があったんだね」
「ええ。そしてオーナーである岡田さんは、この建物のすべての扉を解錠できる【マスターキー】を所持しているはずよ」
「マスターキー……!」
「そう。それさえあれば、他の部屋を自由に開けて物資を確保することも、このマンション全体を私たちの強固な要塞として完全占拠することも容易になるわ」
「なるほど、それは絶対に手に入れないといけないな。最上階の部屋を探してみるよ」
「気をつけてね、井上さん」
「それと彩香、一つ頼みがあるんだ。あそこに見える白い一軒家が雪乃たちの家なんだ。ここから双眼鏡で、定期的に異変がないかチェックしておいてくれないか?」
「あの家ね、了解したわ。私が監視しておくから、あなたは上へ急いで」
僕は大型リュックに頑丈なロープと食料、飲料水を詰め込み、再び外壁の登攀を開始した。まずは、402号室の美人アスリート、河合さんのところへ寄ってい
※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です




