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402の女

市街地を抜けて郊外へと車を走らせるが、対向車も含めて、走行している車は一台も見かけなかった。


彩香のレポートによれば、今はまだ人々がゾンビを恐れて自宅に立て籠もり、様子を窺っている段階(フェーズ1)らしい。

しかし、それもあと数日だ。数日後には生存者同士による物資の奪い合いが始まり、10日も経てば、餓死のラインに到達した人間たちが互いを殺し合う地獄へ至る。


飢えて生きるか死ぬかの極限状態になれば、倫理や道徳、モラルなんてものは簡単に瓦解する――それが彩香の予測だった。すべての人間が獣になるとは思いたくないが、生きるために他者を躊躇なく傷つける者が現れるのは、間違いのない事実だろう。

組織的な討伐が行われない以上、化け物の数は増え続ける一方なのだから。


だが、現実の探索は厳しかった。バイクショップは見つからず、数軒見つけたワークショップはどこもシャッターが厳重に下りていて、防刃性の作業着を手に入れることはできない。大手の運送会社も入り口は施錠されており、鍵を壊さずに侵入するのは不可能だった。

結局、収穫といえば、道端に放置されていたトラックの荷台から、頑丈そうな極太のロープを10束ほど回収できたことくらいだった。


入り口のガラスを叩き割り、強引に押し入れば物資を奪うことはできただろう。しかし、今の僕にはどうしてもそれができなかった。まだ、文明社会の「道徳心」を捨てきれずに躊躇してしまうのだ。


それでも諦めずに車を走らせていると、ようやく正面入り口が大きく開放されている運送会社の営業所を見つけた。だが――。


「これは……酷い状況だな……」


敷地内には侵入できたものの、倉庫のあちこちに制服を着たゾンビたちが徘徊していた。無策で突っ込めば、高確率でこちらが餌食になる。

結局、その運送会社からも這々の体で撤退せざるを得なかった。僕は己の無力さに唇を噛み、日が暮れる前に一度、どうしても気になることがあって自分のマンションへと戻ることにした。


マンションの敷地外に車を止め、様子を窺う。特に異変はないようだ。


「……待てよ。あそこにバイクがあるじゃないか」


普段、自家用車も自転車も持たない僕は、マンションの駐輪場に目を向けることがなかった。だから気づかなかったが、奥のラックに2台の立派なバイクが停められている。

排水管を使えば、3階まで1分もかからずに登れるようになった。だがそれは同時に、「他の屈強な男たち」でも簡単に侵入できるという弱点を意味している。ここに籠城するなら、後でこの排水管は強引にでも取り外す必要がありそうだ。


――コンコン。


「まあ、井上さん。また来てくださったのね」


ベランダから彩香の部屋に入ると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「少し、気になったことがあってね」


「何かしら? 私でお役に立てることなら何でも言ってちょうだい」


「震災の夜、明かりの点いていた部屋を覚えているかい?」


「ええ、覚えているわよ。確か……307、402、405、501、601、602号室だったかしら」


「さすがだね。それと、駐輪場にあるバイクの持ち主を知っているかい?」


「確か、一台は学生の男の子。もう一台は401号室の男性ね。私の真上の部屋なんだけど、普段から足音や騒音が酷くて、何度か苦情を言いに行ったことがあるの。その人がバイクに乗っているのを見かけたわ」


僕は彩香に、雪乃の姉(冬子)に会ってきたことを話した。彼女が引きこもりながらも凄まじい分析力を持っていること、そして彩香のシミュレーションレポートを「素晴らしい」と絶賛し、会いたがっていたことも。


「優秀な女性なのね。フフ、私もぜひお会いしてみたいわ」


「問題は、彼女たちをここまで連れてくる手段なんだ。さっき頑丈なロープを手に入れたから、それを使えば、運動の得意じゃない女性でも登ってこられないだろうか」


「そうね、滑車や結び方を工夫すれば可能かもしれないわ。考えておきますね」


僕はさらに、これから上の階――401号室の様子を見にいく計画を伝えた。


「401号室の彼は、確か普段は電車通勤のはずよ。だから今は不在の可能性が高いと思うわ。……だけど、決して油断はしないでね」


「心して行くよ」


僕はリュックに最小限の食料を詰め、ベランダから排水管を伝って4階へと上がった。この要領なら、最上階の7階まで登るのもそう難しくはなさそうだ。

401号室のベランダに静かに降り立つ。リビングの窓の中を覗き込んだが、厚手のレースカーテンに遮られて内部の様子は窺えなかった。


――コン、コン。


ガラスを軽く叩いたが、中からの反応はない。やはり不在だろうか。

念のためサッシの鍵に手をかけ、横に引いてみる。驚いたことに、窓は鍵がかかっておらず、あっさりと開いた。僕と同じように、まさかベランダから人間が侵入してくるとは想定していなかったのだろう。

息を潜め、視界を遮るレースカーテンを静かに引いた、その瞬間だった。


「――グワァァアアアッ!!」


カーテンのすぐ裏に、皮膚の腐敗した男が待ち構えていた。ゾンビだ。

牙を剥いて飛びかかってくる化け物に対し、僕は咄嗟に身を低くして床に転がった。勢い余ったゾンビは、そのままベランダへと飛び出していく。


(マズイ、噛まれたら一貫の終わりだ……!)


僕は入れ替わるようにして室内へと滑り込んだ。ゾンビはすぐに反転し、狂暴な声を上げて僕を追いかけてくる。背格好からして、この部屋の住人が発症したのだろう。僕よりも一回り体格が大きい。

狭いワンルームの中、逃げ場を探す。間取りは僕の部屋と全く同じだ。僕は脱衣所へ飛び込み、トイレの頑丈なドアを閉めて内側から鍵をかけた。


直後、ドンドンドンドン!! と激しい衝撃がドアを揺らし、ドアノブがガチャガチャと狂ったように回される。

(開けられたら、死ぬ……!)

心臓が破裂しそうなほどの恐怖の中、僕は全身の体重をかけて必死にドアを押し押さえた。


どれほどの時間が経っただろうか。やがて、ドアを叩く音が止み、不気味な静寂が訪れた。

そっと隙間から外を覗くと、ゾンビは室内に僕の姿を見失ったからか、再び開け放たれたベランダの方へとふらふらと戻っていき、外を眺めるように背中を向けて立っていた。


このままサッシを閉めて閉じ込めれば、安全に室内を探索できるかもしれない。だが、自分がこの部屋から脱出することを考えれば、化け物をここに残しておくのは得策ではない。


(――やるしかない。今、ここで)


深く吸気し、狂いそうな動悸を整える。身を極限まで低くし、僕はベランダに向かって一気にダッシュした。背後から音もなく接近し、無防備なゾンビの両足首をガシッと掴む。そのまま、背筋の力を爆発させて一気にその足を上に跳ね上げた。


化け物の巨体がベランダの手すりに乗り上げる。テコの原理が作用したかのように、僕は自分より大きなゾンビの身体を反転させ、そのまま遥か下の地上へと突き落とすことに成功した。


「はぁ……はぁ……っ、危なかった……っ!」


もし一歩間違えて噛まれていたら、と思うと、全身から冷や汗が吹き出た。

しばらく放心していたが、ふと落下の衝撃音が気になり、手すりから下を覗き込んだ。すると、3階のベランダから彩香が心配そうにこちらを見上げているのが見えた。凄まじい落下音に驚いたのだろう。

僕は彼女を安心させるため、荒い息を整えながら親指を立てて微笑んでみせた。


401号室の中を探索すると、クローゼットから頑丈な革製のライダースジャケットとパンツが見つかった。さらに、バイクのロゴが入った鍵、大型の登山用リュック、双眼鏡、アウトドア用品一式が揃っている。

工具箱の中から充電式の電動ドライバーを発見した僕は、早速ベランダへ出て、隣の部屋との境界にある非常用の間仕切り(パーティション)の撤去にかかった。3階の彩香の部屋と同じ構造なので迷うことはない。電動工具のおかげで、ものの数分でボルトを外し、壁を取り外すことができた。


隣の402号室のベランダへと足を踏み入れる。窓を覗き込むと、奥のカーテンが僅かに揺れた。生存者がいる。

確か402号室は、あのコンビニの店長が「連れてこい」と執着していた、美人女子大生の部屋だったはずだ。


――コンコン。


ガラスをノックすると、サッシが数センチだけ警戒気味に開いた。


「……何の用ですか?」


「こんにちは。怪しい者じゃないんだ、ちょっといいかな?」


「入らないで。一歩でも入ったら、刺しますから」


僕が中に入ろうとすると、ジャージ姿の少女が鋭い包丁の切っ先をこちらに向けて身構えた。僕は反射的に両手を上げ、敵意がないことを示す。

突然ベランダに男が現れれば警戒するのは当然だが、いきなり刃物を突きつけられると流石に心臓に悪い。


「あなた……下のコンビニの、店員さんですよね?」


「そうだよ。このマンションで生き残っている人に、食料を届けて回っているんだ」


「食べ物を……?」


――グウゥゥ〜。


その瞬間、緊張感の漂う室内に、彼女の可愛らしいお腹の虫の音が響き渡った。よほど飢えているのだろう。僕は思わず小さく吹き出してしまった。


「……笑わないでよ!」


「すいません。……もう、食べるものが無いんだね?」


「あります。……でも、貰えるっていうなら、貰っておくわ」


気の強そうな目でこちらを睨みつける。


「これは限りある貴重な食料だからね。基本的には、本当に困っている人を優先しているんだ」


僕がそう答えると、彼女は大きな瞳をさらに見開いて、不満そうに口元を歪めた。


「何よそれ……っ! 私には渡さないつもり!?」


「渡すよ。はい、どうぞ」


僕はリュックから、大きめのビスケットの箱と紙パックの牛乳を取り出して差し出した。彼女がひったくるように受け取ろうとしたので、僕はサッとそれを手前に引いてじらす。


「なっ……!」


「僕は井上。君の名前は?」


僕が名乗ると、彼女はキッと僕を睨みつけ、忌々しそうに吐き捨てた。


「……河合です。早くそれ、ちょうだい」


「はい、どうぞ。河合さん、また明日、ここに来てもいいかな?」


「……っ、……お願いします」


食料を抱きしめるように受け取ると、彼女はピシャリとガラス戸を閉めて鍵をかけた。

河合。何かスポーツをやっているのだろう、女性にしては背が高く、実に見事な体格をしていた。ダボついたジャージの奥には、しなやかに鍛え上げられた美しい身体のラインが隠されているに違いない。まさに「美人アスリート」と呼ぶにふさわしい佇まいだった。


僕は401号室に戻り、使えそうなアウトドア用品を大型リュックに詰め込んで、3階の彩香の元へと戻った。


「大きな音がしたけれど、大丈夫だった?」


「ええ、上の住人がゾンビ化していて肝を冷やしましたが、何とか排除できました。それより見てください。彼はアウトドアが趣味だったようで、役に立ちそうな物資がたくさん手に入りました。バイクの鍵や、冬子さんの言っていた革ジャンもあります」


「それは素晴らしいわね。……あら、双眼鏡もあるじゃない。これ、私がお借りしてもいいかしら?」


「ええ、それは彩香さんが使ってください」


「ありがとう、井上さん」


それから僕は、隣の402号室で女子大生の河合が生存しており、食料を渡してきたことを報告した。


「ただ、かなり警戒心が強いようでね。彼女が心を開いてくれるまでには、少し時間がかかりそうだよ」


僕の感想を聞いた瞬間、彩香の表情が、どこか冷徹で厳しいものへと一変した。


「……ふう、井上さん。ちょっといいかしら?」


「なんだい?」


「まさかあなた、あの子を時間をかけて『惚れさせよう』なんて、のんびりしたことを考えているんじゃないでしょうね? 私やあの小猫ちゃんは、災害の前からあなたに好感を持っていたの、だから簡単に身体を許したのよ」


「それは、本当に光栄に思っているよ」


「そうじゃないの。……確かに、食べ物を与え続けていれば、いつかはあなたに好感を持つ可能性は高いわ。でも、そんな悠長なことをしている時間的な猶予は、この世界にはないのよ。――彼女の『気持ち』なんて後回しでいいから、先に既成事実を作って、身体の関係を持ってしまいなさい」


彩香の冷酷な提案に、僕は息を呑んだ。


「……レイプでもしろ、と言うのかい?」


「まさか、そんな野蛮なことはダメよ。高確率で深い恨みを買って、寝首を掻かれるわ」


「では、一体どうすれば……」


「女の口からこんな下劣なことを言わせないでほしいのだけれど……【条件】をつけて、彼女自身の意志で『やらせる』のよ。女という生き物はね、どんなに不本意な状況であっても、一度自分の意志で受け入れてしまった行為に対しては、後から言い訳を作って順応してしまうものなの」


「……食べ物が欲しければ、僕と寝ろ、と要求しろということか?」


「ええ。とてもゲスな言い方だけど、本質は合っているわ。どんなにプライドが高い女でも、極限の飢えの前には平伏する。そして一度抱かれてしまえば、その快楽に溺れ、あなたに従うようになるわ」


「……本当に、そうなるのかな」


「大事の前の小事、と言うでしょう? あの子があなたに抱かれて、あなたの所有物として従うことこそが、この狂った局面における彼女の『正解』……いいえ、唯一の救いなのよ」


彩香の言葉には、反論できないだけの冷徹な現実味があった。


「分かったよ……」


「それから、井上さん。あなたには、目的のためならこれまでの『道徳心』や『常識』をすべて捨ててほしいの。誠実なあなたには、それが簡単ではないことは重々承知しているわ。でも、私たちが生き残るためには必要なのよ。……恐らく、自らの手で『人の命を奪う決断』を迫られるときも、必ず近いうちにやってくるわ」


「それは……できる限り避けたいけれど。言葉の意味は、理解しているよ」


彩香の言う通り、数日後には本格的な略奪が始まる。僕や、僕の周りの女の子たちが狙われれば、武器を取って戦わなければならない。

そして、法も警察も機能していないこの狂った世界において、大切な存在を守り、敵との戦いを完全に終わらせる手段は――相手の息の根を止める、それ以外にないのだから。


僕は手に入れた革ジャケットを強く握り締めながら、迫り来る血の匂いに、静かに覚悟を決め始めていた。

※少し過激な性描写や表現もありますから、ミッドナイトノベルに移行中です

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