飼育ゾンビ
病院での用事を済ませた僕は陽葵も連れてマンションへと戻った。
「マサキさん、お帰り! あっ――」
ガシャーン!
部屋に入ると雪乃が出迎えてくれたのだが、直後、手に持っていた器を落として豪快な音を立てた。鉄製のボウルだったので割れはしなかったものの、中にあった小麦粉が床一面に白く散らばってしまう。
「雪乃ちゃん! またですか! ちゃんとやってください!」
失敗して固まる雪乃を、可愛いエプロン姿の咲愛がプンプンと叱り飛ばしていた。
「ごめ〜ん! 私は家事とか本当に苦手なんだよね……。あ、お姉ちゃんが帰ってきたから変わってもらおうっと!」
「もう、雪には困ったものです。ごめんね咲愛ちゃん、雪がお世話をかけてしまって」
「冬子ちゃんは甘すぎます!」
咲愛は呆れたように眉をひそめていたが――
「お姉ちゃん、ジュースこぼれたぁ」
「千鶴、動いたらダメ!」
テーブルでジュースを飲んでいた千鶴がカップを倒すと、咲愛はすぐさま駆け寄り、手慣れた手つきで拭き取り始めた。
どこの姉妹も、姉は妹に優しいんだなと思いながら、僕はその賑やかな光景を眺めていた。
「アハハハ! なんか、想像していたのと違います」
打ち解けた様子で陽葵が笑う。
「そう? どんな想像をしていたの?」
「その……もっと薄暗くて、セクシーな大人の女性がお出迎えしてくれるのかと」
「そういうタイプは、今はいないねぇ」
笑いながら答える陽葵の横で、僕はそういうタイプとは彩香のような女性のことかな、などと頭の隅で考えていた。
午後からは、奈緒と共に卵の調達へ出かけることになっていた。
昼食を手早く済ませると自室で着替えと準備を始める。外でゾンビと遭遇し、爪や歯で噛みつかれるリスクは避けられないため、厚手の革製ライダースーツに身を包んだ。
「マサキさん、準備できました」
部屋を出ると、同じくピチリとした黒革のライダースーツを身に纏った奈緒が待っていた。体のラインが露骨に出るその格好は、彼女の豊満で肉感的なスタイルをこれでもかと強調している。
(ライダースーツって、脱がせるのが結構大変なんだよな……)
そんな下心を密かに抱きながら奈緒の身体を眺めていると、荷物をまとめていた陽葵に声をかけられた。
「どこかにお出かけですか?」
「ああ、今夜の誕生会で卵が必要らしくてね。これから探してこようと思ってるんだ」
「卵ですか……。ちなみに、行くあてはあるんですか?」
「スーパーか、無ければショッピングモールかな。賞味期限の残っている缶詰や加工品でもあればいいんだが……」
「それなら、生産者さんの養鶏場とかはどうですか? この街には2箇所ありますよ」
「よく知ってるね! 場所も分かるのかい?」
「もちろんです! 災害前、何回も配達で行ってましたから。道順もバッチリですよ!」
すっかり失念していたが、陽葵はもともと宅配の配達ドライバーをしていたのだ。日頃からこの街の裏道を細部まで走り込んでいる彼女の存在は、今の状況において何より心強い。
「それなら……今日は陽葵に運転してもらおうかな」
「喜んで! 運転なら任せてください!」
こうして陽葵の運転する車に乗り込み、マンションを後にした。少し中心街に向かったあと、普段はあまり使わない橋を渡って山の手の道路へと入っていく。緑が増えてきた緩やかな坂道をしばらく走ると、『杉山ファーム』と書かれた大きな看板と、可愛らしい卵のイラストが目に入った。
「鶏さんたち……生きてるかなぁ」
奈緒が少し心配そうに呟く。
ゾンビが鳥類を捕食対象にすることは基本的にない。問題は、人間が全滅したこの状況で飼育システムが機能しているか、そして世話をする者がいない中で生き残れているかどうかだった。
車を停めて降り立つと、敷地内の事務所は人影もなく静まり返っていた。その横には大きなスレート屋根の鶏舎が建っている。重い引き戸を慎重に開けると――途端に、無数の鶏が一斉に羽ばたき、鳴き交わす賑やかな声が響いてきた。
「……鶏は生きているようですね!」
「ああ、よかった――」
安堵しかけたその瞬間だった。
「マサキさん、危ないっ!」
奈緒の鋭い叫び声に反応し、思考より先に条件反射で姿勢を低くかがめ込んだ。
シュッと風を斬る音とともに、僕の頭上を腐敗しかけたゾンビの手が空を切って通り抜ける。
すぐさま体勢を立て直し、ゾンビの背後へと回り込むと、体重を乗せてその背中を力任せに蹴り飛ばした。距離を取るつもりで放った蹴りだったが、バランスを崩したゾンビはそのまま無様に床へ倒れ込んだ。
(どうする……できれば無駄な戦闘は避けて安全に排除したいが……)
「奈緒! そこのロープを取って渡してくれ!」
うつ伏せに倒れたゾンビの背中をブーツで強く踏みつけ、自由を奪いながら、僕は壁のフックに掛けられていた作業用ロープを指差した。
「はいっ!」
奈緒は素早い動きでロープを手に取ると、僕へ手渡してくれた。僕は引っ張ると結び目が締まる即席の輪を作ると、暴れるゾンビの両足に素早く引っ掛け、力任せに引き絞って拘束した。
「事務所まで運んで押し込もう。一緒に引っ張ってくれ!」
「私も手伝います!」
様子を見ていた陽葵が駆け寄り、ロープの端を力強く握りしめた。
三人で一気に引きずると、足の自由を奪われたゾンビはズリズリと簡単に移動させることができた。事務所の奥へ押し込み、ドアを外からしっかりと固定する。危害を加えてきた相手とはいえ、元は人間だったと思うと少し気が咎めたが、自分たちの安全の確保が最優先だ。
――しかし、僕たちはすぐにそのゾンビを解放することになる。
奥の鶏舎へ進むと、驚いたことに無数の鶏たちは元気に動き回り、餌を突いていた。止まってしまったベルトコンベアの上には、生み落とされたばかりの新鮮な卵が溢れんばかりに積み上がっている。
鶏たちは痩せ衰えることもなく、しっかりと餌を与えられているようだった。
「これって……一体誰が餌をあげているんでしょうか?」
奈緒が首をひねる。僕も不思議でならなかった。そして、これまで遭遇してきたゾンビたちの不可解な挙動を頭の中で思い返した。
(……ゾンビは、生前の習慣や行動パターンを機械的に繰り返すことがある)
「……もしかしたら、さっきのゾンビかもしれないな」
「……私も、そう思います。あの方は、最期までこの鶏たちの心配をしていたのかもしれませんね」
僕たちの推測を聞いて、陽葵があっけらかんとした調子で言った。
「それじゃあ、さっきのゾンビ飼育係さんを元の場所に戻してあげないとですね!」
『ゾンビ飼育係』という陽葵独特のネーミングセンスに思わず吹き出しそうになったが、命懸けで鶏を守り続けている元農園主に対して失礼だと思い直して耐えた。
「そうだね。卵だけありがたく頂いて、縄を解いておこう。扉さえ開けておけば、たぶんまた自動的に飼育作業を再開するはずだ」
僕たちは出荷用の箱に、溢れていた卵を詰め込めるだけ詰め込んで車へと運んだ。そして事務所のドアを開けてゾンビの足を縛っていたロープを刃物で切断し、自由にしてやった。
生きている人間を襲う狂暴性を見せる一方で、生前の愛着や仕事を黙々と繰り返す死体たち――。
「本当に……この病原体は謎ばかりだな」
整然と並ぶ卵の入った箱を見つめながら、僕は呟いた。冬子が言っていた『脳のハック』という言葉が、重いリアリティを持って脳裏に焼き付くのだった。




