蛇田
明智がニヤつきながら部屋を後にすると、重苦しい静寂が院長室を包んだ。僕はソファーに深く腰掛け直すと、白崎院長に向き直った。
「……院長は、どうお考えですか?」
「そうだね……。冬子くんの推論を確かめる上で、明智くんが研究に乗り出すことになったのは大きな成果と言える。何と言っても、彼の明光医科学研究所には日本一と言っても過言ではない最新鋭の設備が整っているからね」
白崎院長は顎に手を当て、複雑な表情で頷いた。しかし、その隣に立つ良子がすかさず強い口調で割って入る。
「ですがお父様! あの男の元に冬子さんが行くなんて、私は絶対に反対ですわ」
「……明智先生のスキャンダルの件ですか? 僕も、彼が冬子に露骨な興味を隠そうとしない態度には強い嫌悪感を抱きました」
僕が同調すると、良子は怒りを込めて頷いた。あの明智の目は明らかに捕食者のそれだった。冬子を優秀な研究者としてではなく、自分の欲望を満たす獲物として舐め回していたのだ。
「私は医学関係者から色々と聞いておりますが、明智先生は若い頃から女性関係のトラブルが絶えない方なんです。何と言っても彼は……実の――」
「良子! 確証のない噂話を喧伝するのは良くないぞ」
良子が核心に触れかけた瞬間、白崎院長が静かだが強い声でそれを遮った。
「お父様、ですが……私はご本人から直接聞いたのです!」
「問題は、その話の真偽ではないのだよ。本人が良子に話したことと、それを良子が他人に話すことの意味は違うということだ」
「……」
良子は唇を噛み締め、悔しそうに黙り込んだ。二人を交互に見つめながら、僕は小さく息を吐く。
「どちらにせよ、僕にはよく分からない話ですから……。あとのことは僕と冬子でよく話し合って決めようと思います。ご助言、感謝します」
「うむ、それが良かろう。確かに危険な男だが、現状この問題を解決するには彼の施設が必要不可欠であることもまた事実なのだからな」
この地域で最大規模を誇る病院の院長がそう断言するのだ。明智の持つ設備は、僕たちの想像を絶するものなのだろう。ふと疑問に思い、僕は尋ねた。
「一つお聞きしたいのですが……明智先生はどうやってあの巨大な施設をこの混乱から守っているのですか?」
「私も詳しくは知らんのだがね、彼の施設は少し特殊でね。元々は明星大学が出資した、保険適用外の最新高度医療を提供する目的の施設だったのだよ」
「保険適用外……ということは、医療費は相当な高額になりますよね? そんなものに需要があるのですか?」
「自分の命や健康のためなら、金に糸目をつけない富裕層は驚くほど多いものだよ。この病院でも、特別室は常に埋まっているからね。……話をもどすとね、冬子くん。彼の施設は今回の災害前から自家発電や地下水による飲料確保のシステムが完備されていたのだ。それどころか備蓄も防犯対策も万全でね。私も一度招待されたことがあるが、敷地を囲う塀は高く、建物自体がシェルターのように頑丈だった。すべてのセキュリティは彼の生体認証で一元管理され、警備員も選び抜かれたプロばかりだったよ」
「まるで要塞ですね……! 生体認証で一元化されたセキュリティですか、それは素晴らしいです……!」
話を聞いていた冬子は、不気味な明智への警戒も忘れ、技術への興味で目を爛々と輝かせていた。
その時、コンコンと控えめなノック音が響き、受付の女性スタッフが入室してきた。何かを耳打ちされた白崎院長は、腕時計に目をやる。
「すまんね、これから人と会う約束があってね。井上くん、冬子くん、私は君たちの研究を心から応援しているよ」
院長はそう言って立ち上がり、対談の終了を告げた。これ以上長居するのは邪魔だろうと感じ、僕たちも退室することにした。
廊下へ出ようとしたその時、すれ違いざまに横柄な態度で一人の男が室内へと押し入ってきた。
「白崎くん! 10分も待たされたぞ! 私の時間は貴重なのだから、いい加減にしてくれないと困るな!」
「申し訳ありません、蛇田先生……」
恐縮する白崎院長に対し、あまりに高圧的な態度を取る男の顔に、僕は既視感を覚えた。
「……いまの人は?」
僕が呟くと、隣を歩く良子が声をひそめて教えてくれた。
「県会議員の議長をしている、蛇田へびたひとしさんよ。街中にポスターが貼られているでしょう?」
良子に言われて合点がいった。実物を見るのは初めてだったが、選挙ポスターの顔写真なら何度も見かけたことがある。
「白崎院長に対して、随分と不遜な態度だったね」
「蛇田さんはこの街の社会保障、都市開発、教育に至るまで絶大な発言力を持っていて……実質的にこの街を裏で牛耳っている実力者なの。お父様も、あの方にだけは相当気を遣われているわ」
混乱前のこの国の社会構造を考えれば、どこにでもありそうな政財界の癒着と権力勾配だなと僕は苦笑した。
「……そういえば良子、今日はなんだか顔色が悪いけれど、何かあったのかい?」
「……ええ。私が心の治療を受けていることは、マサキさんにもお話ししたかと思いますけれど……その件で少し……」
良子は何かを訴えかけるような視線を僕に向けたあと、チラリと冬子の様子を伺うように目を泳がせた。
「冬子なら気にしなくても大丈夫だよ。例の別荘での一件のことは、奈緒や僕から彼女にも全て話してあるから」
「……良子さんのお気持ちはお察しします。かくいう私も、過去に二度ほど男性に襲われたことがありますから」
「冬子ちゃんも……? それで、その加害者はどうなったの……?」
良子が息を呑んで尋ねると、冬子は事もなげに、どこか他人事のような平然とした顔で言い放った。
「はい。加害者は私とマサキさんで処置しまして……もう、この世には存在しません」
「……っ! そ、そういうこと……ですか。冬子さんは、お強いのですね……」
「強いのでしょうか? 至ってシンプルですよ。私はマサキさんありきの存在ですから……私と関わった余計な男に、生きていられては困るのです」
「冬子、変な誤解を生むから、そういう物騒な言い方は人前でするもんじゃないよ」
僕が苦笑しながら小突くと、冬子は慌てて口元を押さえた。
「あっ……申し訳ありません。私、コミュ障で人と話すのが苦手なもので……」
「冬子の話が参考になるかは分からないけれど、とにかく何でも相談に乗るからね」
「ありがとうございます。お気持ちはとても嬉しいわ。けれど……やっぱり私なりに、自分で乗り越えてみせます」
「そっか……。あ、そうだ。今夜は僕たちのマンションで千鶴ちゃんの誕生日会をするんだ。良かったら良子も来ないかい?」
「まあ、賑やかそうで素敵ですね。……それなら、お言葉に甘えてお邪魔させていただこうかしら」
良子の影のある表情が、ほんの少しだけ和らいだ。みんなでワイワイと賑やかに騒げば、彼女の張り詰めた気も少しは紛れるのではないかと、僕は密かに願うのだった。
それから僕らは良子と別れ、陽葵のもとを訪ねた。
「……綺麗な方ですね。どこかのご令嬢ですか?」
陽葵は冬子の姿を見るなり、感嘆の声を漏らした。
「近藤陽葵さん、こっちが木下冬子さん。今日は凄くめかし込んでいるけれど……」
「はい。本性はただの引きこもりオタクです。陽葵さんのことはマサキさんから伺っています。凄く車の運転がお上手だとか」
「あはっ! 話すと印象が全然ちがう! そうなんです、私、運転がめっちゃ好きで。車さえあればどこへでもお連れしますよ!」
「ほうほう……そう言えばマサキさん、例の501号室の乱交ゾンビたちが残した車が何台もありましたよね?」
「そうだね。SUVの外車が多いけれど、国産の高級ミニバンもあったはずだよ」
「えっ、乗りたい……!」
陽葵の目が一瞬で輝いた。
「それなら、今夜の誕生日会に陽葵さんも来たらどうかな? 来るならこのまま一緒にマンションに行こう」
「行く行く! 誕生日会とかワクワクする!」
「それじゃあ準備しなよ。気に入った車があれば乗って帰ればいいからさ」
「やったー! マサキさんって本当にいい人!」
「ニヒッ、マサキさんカッコいい外伝なら私にお任せください。もし良ければ、豚のオタクをヌッコロしたエピソードをじっくりとお聞かせしますから」
「豚のオタク……? ヌッコロ……? よく分からないけれど、楽しみにしてます!」
マイナスとプラスでゼロになるのだろうか。コミュ障で物騒な発言をする冬子の言葉を、コミュ力の高い陽葵が綺麗に打ち消して会話を成立させているのが、見ていて少し面白かった。




