危険な誘い
院長室で待っていると、ドアが開き白崎院長が一人の男を伴って現れた。彼が明光医科学研究所の所長、明智だろう。
男は50代半ばといったところに見えるが、顔は整っていて白髪の交じる頭髪を後ろで結んでいた。一見は優男だが眼光は不気味なほど鋭く、全身からねっとりとしたギラつきと旺盛なエネルギーが溢れ出ていた。
「紹介しよう。こちらが明光医科学研究所の明智先生だ」
「初めまして、井上です」
挨拶を交わすと、明智の視線はすぐに僕の隣へと向いた。
「……そちらのお嬢さんは?」
「私は木下冬子です」
「彼女が、あのレポートを執筆した木下君だよ」
白崎院長の言葉に、明智の薄い唇がゆっくりと吊り上がった。
「ほう、君があのレポートを……! 美しいだけでなく優秀な頭脳の持ち主とは。それで……この男との関係は? まさか無関係ではあるまい?」
ねっとりと冬子の全身を舐め回すような視線に、胸の奥で不快な冷たさが広がる。
「私は井上さんと一緒に暮らしています」
「それは羨ましい。こんな綺麗な娘と同棲とは……まさか結婚でもしているのかね?」
「違いますよ。今回の災害の混乱下で彼女を保護した形です。……実際には、僕の方が助けられてばかりですが」
僕がやんわりと牽制するように答えると、明智は冬子へ一歩踏み出し、鼻先をかすめるほどの距離で顔を覗き込んだ。
「それはそれは……。それで冬子さん、おいくつなのかな?」
「……19歳ですが、何か?」
明智の馴々しい態度に、冬子は氷のように冷ややかな口調で言い放ち、一歩後ろへ引いた。
「19歳! それはまた、実に羨ましい限りだ……やはり女は若いに限る」
「明智先生、女性のプライベートに無闇に踏み込むのはお控えいただけますか?」
それまで黙って控えていた良子が、ピシャリと硬い声で制した。
「失礼、失礼。……しかし、しばらく見ないうちに良子ちゃんも随分とお上品な大人になってしまったねぇ」
明智は肩をすくめ、どこか失望したような嫌みな笑みを浮かべる。
「明智くん、君は相変わらずだね。……そろそろ本題に入ろうじゃないか」
白崎院長が苦笑いを浮かべながら間に入り、重苦しい空気を切り替えるように手を打った。
「レポートは拝見したよ。実に着眼点が素晴らしい。専門科の私にとっても、目から鱗が落ちる思いだった。それがまさか、研究員でもない素人の美しいお嬢さんとは……重ね重ね驚かされたよ」
「恐縮です。私は明智先生がゾンビ病原体について初期から研究されていると伺い、ぜひいくつかご質問させていただきたいのです」
「構わないとも。君のような美少女なら、私の研究所でじっくりと夜を徹して議論し合いたいところだね。なんなら、今夜は私の邸宅に泊まっていったらどうだい?この男と婚姻関係でないなら問題あるまい」
「明智先生! いい加減にしていただけませんかしら!?」
露骨に冬子を口説くような明智の物言いに、良子はついに怒りを隠さず語気を強めた。しかし、当の冬子は明智のセクハラじみた態度など端から視界に入っていない様子で、すっと表情を遮断し、本題へと切り込んだ。
「私がまず知りたいのは、ゾンビ病原体の『最初期の発症地』です」
「……なるほど、良い質問だ」
冬子のブレない態度に、明智はニヤけた表情を引っ込め、研究者としての顔を覗かせた。
「私も発生源を突き止めるべく調査を進めた。インフラが全滅する前にかき集めた情報によれば、残念ながら……この病原体は『世界中でほぼ同時期に発症』している」
「やはり……風邪のように特定の地域で発生し、人から人へ感染拡大したものではないのですね」
「具体的な地名を教えていただけますか?」
「世界で最も早く発生が確認されたのは中国の山脈部、そしてネパールの高地だ。地理的に近いため同一の感染源とも考えられるが……少し遅れて、南米のアンデス山脈付近やアフリカ大陸の高地でも同様の事象が起きている。日本国内で言えば、静岡、山梨、長野、岐阜といった標高の高い地域での発見が突出して早かった」
「……やはり、そうですか」
「やはりだと……?」
冬子が確信めいた呟きを漏らした瞬間、ヘラヘラとしていた明智の表情から完全に余裕が消え、眉間に深いシワが刻まれた。
「明智先生は、噛まれた感染者の経過観察もされていたと伺いました。その臨床症状について教えてください」
「……この病原体は、実に不可解な挙動を示す。噛みつきなどの唾液を介して体内に侵入した病原体は、真っ先に肺を汚染するのだ。被験者は例外なく、激しい発熱、息切れ、咳、吐血を起こし、最終的には深刻な酸素欠乏によるチアノーゼ反応を起こして窒息死に至る」
「何が不可解なのですか?」
「通常、インフルエンザなどのウイルスが肺を標的にするのは、飛沫感染によって気道から侵入するからだ。そして宿主に咳をさせ、ウイルス自身を飛散させて感染を広げる。しかし今回の病原体は、直接血液や組織内に侵入するタイプだ。にもかかわらず、わざわざ肺を優先的に破壊する……構造的な合理性が見えないのだよ」
「私の推論通りです。私は、ゾンビ病原体はすでに空気中全体に充満していると考えています。ですが、生存している人間は通常発症しません。病原体は免疫機能によって防がれているのではなく……血中酸素によって活動を抑制されているのではないかと考えました」
「……!」
「標高が高く空気が薄い地域で初期発症が多発したのも、体内の血中酸素濃度が下がり、空気中に潜んでいた病原体が活性化したからと考えれば辻褄が合います。そして、噛みつきによって直接体内に侵入した病原体は、まず宿主の肺を破壊して酸素供給を絶ち、全身の血中酸素をゼロにしようとしているのです」
明智は目を見開き、驚いた様子で冬子を見つめた。
「さらに私は……この病原体は単純なウイルスではなく、寄生虫に近い構造を持つ生体だと推測しています。宿主の脳をハックして肉体を操る寄生虫は自然界にも存在します。この病原体には、空気中を漂う幼体と、体内で急速に発育した成体が存在するのではないでしょうか」
「ほう……! 唾液から直接侵入した成体はすでに酸素耐性を得ており、体内の無数の幼体を一斉に覚醒・生育させるために、肺の機能を止めて酸素を奪い尽くす……というのか!?」
「はい。そしてこの病原体は、人間のDNAを書き換えるか、あるいは自らの細胞を人間の組織へと変異させる特殊な機能を有していると考えます」
「……若いからか、あるいは素人だからか……恐ろしいほど頭脳が柔軟だな」
「それは褒め言葉ですか?」
「最大級の褒め言葉さ。我々のような感染症学の専門家ほど、爆発的なパンデミックを見れば無意識に『ウイルス』や『細菌』の枠組みに思考を縛られてしまう。だが君は固定観念を捨て、未知の脅威の本質を見抜こうとしている」
「至極当然の思考経路だと思いますが」
「それが現場の研究者にはできんのだよ。私も噛まれた者を何人も観察したが、『死亡するまでのプロセス』に囚われ、死後にどのようにして遺体が再起動するのか……その核心を見落としていた。医療従事者とは、どうしても生かすことに目を奪われてしまうからね」
明智はフッと息を吐き、机の上で指を組んだ。
「……だが、臨床データによる裏付けがない以上、今の段階ではあくまで魅惑的な仮説に過ぎん」
一旦は否定的な態度を取ったものの、明智の瞳には明らかな興奮と執着が宿っていた。
「白崎さん、どうしてここに明子が来ていないんだ? あの女の技術があれば、血中から病原体の細胞を抽出し、幼体と成体の遺伝子構造を即座に特定できるだろう」
「私もそう考えたのだがね……明星大学との連絡が途絶えてしまっていてね」
「……確かにあそこは今、部外者が安易に立ち入れる状況ではないか」
明智はしばらく思案するように顎を撫でていたが、やがて邪悪な笑みを浮かべて冬子に向き直った。
「よし、分かった。木下冬子くん……君の推論を元に、実験的な臨床運用を始めようじゃないか」
「明智先生は、どのような治療的アプローチをお考えなのですか?」
明智の急な方針転換に期待の表情を浮かべた冬子がすかさず問いかける。
「私の研究所には、高気圧酸素治療が可能な特殊設備がある。まずはゾンビに噛まれて運び込まれた患者に対し、高濃度酸素を投与して経過を観察するのだ」
「その研究結果は、こちらにも知らせていただけますか?」
冬子が身を乗り出して尋ねる。
「あいにくと、この白心病院へ出向くのすら命がけでね。結果を知りたいのであれば……君が私の研究所へ来て、直接立ち会えばいい。大歓迎するよ」
「それは……つまり……」
「私の研究所の空き部屋を君に提供しよう。食事や身の回りの世話も全て用意する。君は誰にも邪魔されず、病原体の研究だけに没頭すればいいのだよ」
「……ッ!」
あからさまな囲い込みだ。冬子は一瞬言葉を詰まらせ、不安そうに僕を見つめてきた。
「マサキさん……どうしましょう……」
明智の提案に強い胡散臭さと危険を感じた僕は、すぐさま横から口を挟んだ。
「……定期的に僕が病院へ伺って、研究結果を受け取る形ではダメですか?」
「ダメだね、それは到底許可できない。これは極めて貴重な機密研究データだ。外部の人間に簡単に持ち出させるわけにはいかないよ。……それに冬子くん、私の研究所には膨大な医学文献やアーカイブが揃っている。素人でありながら大学教授すら凌ぐ推論を打ち立てた君だ。正しい知識を得れば、さらに病原体の真実へ近づけるとは思わないかい?」
言葉巧みに冬子の知的好奇心を刺激して追い詰めていく明智に、僕は強い警戒感を抱く。
「……ありがとうございます。少し考えさせてください」
冬子が静かに答えると、明智は満足そうに口元を歪めた。
「そうか……いいだろう。いつでも歓迎するから、じっくり考えるといい。……ああ、井上くんにも言っておくがね、彼女に貸し出す部屋のセキュリティは完璧だ。他人が立ち入ることは絶対にないから、安心して彼女を預けてくれて構わないよ」
明智の浮かべた不気味な微笑みに、僕は生唾を飲み込みながら、重い声で応じるしかなかった。
「……分かりました。冬子と二人で話し合い、もしお世話になることになりましたら、よろしくお願いします」




