キス
チュッ、チュッ、チュッ。
頬に柔らかい唇が当たる感触で目が覚めると、すぐ目の前で雪乃が満面の笑顔で見つめていた。どうやらキスで起こされたらしい。
「あっ、起きた! マサキさん、おはようございます!」
「おはよう。雪乃のキスで目覚められるなんて、今日はすごく良い日になりそうだよ」
「えへへ、それならこれから毎日しようか?」
「それは最高に魅力的な提案だね」
前にもこんなことがあったなと思い出しながら、朝からとても幸福な気分に包まれる。
昨夜は、冬子が今日行われる医科学研究所との顔合わせに向けて色々と熟考したいと言っていたため、雪乃を寝室に呼んで一夜を共にしたのだった。
雪乃はもともとの素質も手伝ってか、男に尽くす術が日に日に上達している。昨夜は僕がほぼ横になっているだけで、濃厚で濃密な時間を存分に堪能させてくれた。
身支度を整えてリビングへ降りていくと、咲愛、千鶴、そして601号室の千里が姿を見せていた。
「今日は千鶴ちゃんのお誕生日みたいで……もし宜しければ、わたくしがお料理を作りますから、今夜はみんなで食事会などいかがでしょうか」
「それは素晴らしいアイデアですね! こんな世界だからこそ、記念日はみんなで賑やかに祝いましょう」
先のことを考えると不安は尽きないが、幼い千鶴にとって素晴らしい思い出になるはずだ。ぜひ盛大に祝ってあげたいと思う。
「千鶴、お誕生日おめでとう。いくつになったのかな?」
「7歳になったの!」
「そうか、おめでとう」
頭に手を置いて優しく撫でまわしてあげると、千鶴は照れくさそうに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「料理の材料で、何か必要なものはありますか?」
「そうですね……もし手に入るようでしたら、卵をお願いできますでしょうか?」
「あ、卵ほしいよね! 目玉焼きとか、最近すっかり食べてないもん」
僕も毎朝の食卓でどこか物足りなさを感じていたが、欠けていたのは卵料理だったのだとハッと気づかされた。
冬子との病院での面談は午前中に終わるはずだ。午後からは奈緒を誘って、物資の調達に出かけるとしよう。
朝食をみんなで囲みながら、今日の予定を話し合う。
「それでは、憩いの里は本日お休みですね」
「奈緒ちゃんいいなぁ……! あたしも学校休んで、お誕生日会の準備手伝う!」
「私も千鶴のお洋服を出してあげたいから、今日はお休みする」
雪乃と咲愛が声をそろえてそう言った。
昨日の話から察するに、二人とも学校や補習に対してかなり不満が溜まっているようだった。たまには羽を伸ばして息抜きをするのも悪くないだろう。
「そうだね。今日は学校を休んで、千鶴の誕生日会の準備をしてあげて」
「やったー! さすがマサキさん、話がわかる!」
「たまには雪も、ちゃんとお料理のお手伝いをしなさいね?」
「はーい!」
普段あまり家事をしない雪乃に向けて、冬子がチクリと釘を刺していた。
◇
予定が決まり、今日は冬子と二人で白心病院へ向かうことになった。
二人でエレベーターに乗り込み、一階へと降りていく。千里から借りた仕立ての良いスーツをビシッと着こなした冬子を見ると、やはり息を呑むほど綺麗だった。しかし、これから始まる大一番への不安からか、どこか落ち着かない様子でそわそわしている。
「マサキさんも、スーツがすごくお似合いですよ。……ムフフ、今の私たちって、なんだか用事で出かける夫婦みたいですよね」
「君みたいな綺麗で自慢できる奥さんがいたら、それだけで男として最高の幸せだよ」
「ちょっ……やっ……そんなストレートに言われたら照れるじゃないですか……っ! 滅茶苦茶嬉しいですけど……っ!」
冬子は顔を真っ赤にしてうつむいた。彼女はネットやAIを通じて膨大な知識を持っており、その中には男女の恋愛に関する知見も当然含まれている。それでも、長年引きこもっていたせいか実際の男性との触れ合いには慣れておらず、ふとした瞬間に純情な恥じらいを見せるのだ。
それがたまらなく愛おしく思え、僕は冬子の頬にそっと手を添えると、その唇に優しく自分の唇を重ねた。
「いきなりは心臓に悪いです……お化粧も、口紅も塗ったのに……けど、もう一度お願いします!」
リクエストに応えて唇を重ねる。冬子はキスが好きなようで唇を離すと切なそうな顔をするので、エレベーターが1階についても暫く続けて互いの粘膜を感じあっていた。
「はぅ……こんなところでキスされたら、病院じゃなくてどこか遠くに連れて行ってほしくなっちゃいます……」
「病院に行くのをやめて、どこか遠くへ逃げちゃおうか?」
「それも……素敵ですね……」
「冬子がそうしたいなら、僕はそれでもいいんだよ。……本当は、すごく怖いんだろ?」
「……はい。正直に言うと、すごく怖いです。私、もう何年も大勢の人がいる場所なんて行ったことがありませんから……。だけど、行かなければならないんです! 彩香さんを救うって、自分で決めましたから……!」
「そうだよね……ごめん、意志を削ぐような意地悪を言ってしまって。今の僕にとって君の存在はあまりに大きくて……万が一にも失いたくないんだ」
「ムハッ……私……すごく愛されてますね。嬉しいです! もちろん、私もマサキさんを心から愛していますから!」
笑いながら語る冬子の瞳には、強く澄んだ意志の光が宿っていた。
◇
白心病院に到着すると、良子がエントランスで出迎えてくれた。しかし、どこか雰囲気が重く、元気がなさそうに見える。
「どうしたの良子? 目が少し赤くなっているけれど……寝不足かい?」
「マサキさん……私……」
良子は何かを言いかけて言葉を呑み込み、一度俯いた。そしてゆっくりと顔を上げ、僕の顔をじっと見つめると――
「実は例の治療で……。あ、マサキさん……お口のあたりが少し赤いですわ」
「えっ? ……あ、これは……口紅かな」
マンションの女性達はあまり普段から濃い口紅を塗らないが、今日の冬子はフォーマルに合わせて薄く口紅を差していた。さっきエレベーターで交わしたキスの痕が残っていたのだろう。少しバツの悪い思いがした。
「マサキさん、こちらのハンカチをお使いください」
冬子が察して、自分のハンカチをすっと差し出してくれる。口元を拭いながら、気まずさを誤魔化した。
「それじゃあ、参りましょうか。間もなく先方もお見えになると思いますわ」
良子は何事もなかったかのように微笑むと、静かな足取りで院長室の方角へと歩き始めるのだった。




