第86話
宗務室の主座には、教皇国の枢機卿が腰かけており、その後ろに、アイーシャを呼び出した大司教が控えていた。
そして、アドリア王国へ向かうようにと大司教が告げた瞬間、誰もいなかったはずの目の前の席に、二人の男性が突然姿を現した。
一人は、見覚えがあった。公国の君主・ロレーヌ公に入国の挨拶をした際に同席していた公子の少年だった。たしか、バスティアン公子だったはず。
弟の公子は澄んだ目をしていたのとは対照的に、濁った目をしていて嫌悪感を覚えたので印象に残っていた。
もう一人は、中年の男性。装飾過多な豪華なマントを纏っていた。
二人とも、舐めるような目つきでアイーシャを見つめている。
すると、中年の男性の方が口を開いた。
「なるほど、これは美しい……。
公女もよかったが、こちらの方が、余の好みだな」
「お、お待ちください、“皇帝陛下”!! 歌姫は我にと……」
「黙れ!! 誰が卿に言を許したか!
気が変わった。両方とも余のものとする。
おい、シャイデマンよ、こいつ、必要ないのではないか?」
「そうですな。
このように分を弁えぬ者では、跡に据えるにも差し障りがありましょう。
当初の予定通りに、アドリア王国に併合させれば、特に必要もございませんし。
猊下、よろしいでしょうか?」
誰もいなかったはずが、どこからか声がしたのに驚く、アイーシャ。
それ以上に驚いたのは、バスティアン公子。
「な、な、どうして!!
貴様、何を言っている!!
我は、”公世子”になったのだぞ!!
陛下は、先程、我を、勅許により、ブラウンシュヴァイク=ロートリンゲン家の嫡嗣と定め、ロレーヌ公世子とすると……。
しかも、ゆくゆくは、大公……」
「黙れと言ったのが、わからぬのか!!
余に二度も同じ命を下させるとは……。
おいおい、シャイデマンよ……」
「はっ、大変失礼いたしました。
では、猊下、よろしいですね」
「仕方あるまい……。
もう少し扱い易いかと思っておったが、これではな。
確かに、ロレーヌ公が公世子にせぬのも道理じゃて。
すまぬな、シャイデマン宮中伯。
無理に連れてきてもらったが、“処分”してくれるか?」
枢機卿がそのように告げた瞬間、バスティアン公子が消えた。
その後、後ろの扉がひとりでに開き、そしてすぐに閉じられた。
いったい何が起きているのか?
まったく理解できないアイーシャは困惑する。
それを気にするでもなく、枢機卿は再び口を開いた。
「アイーシャよ。先程の者は忘れてよい。
それよりも、この御方こそが、アウグステンブルク帝国の”皇帝陛下”なるぞ」
「え……、でも、皇帝には、皇太子殿下がご即位されるのでは?」




