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第36話 筋肉の国

魔王軍との戦いから、数ヶ月後。

王国は、変わっていた。

それは劇的な変化ではない。

ある日を境に一変したわけでもない。

だが、確実に――

日々の積み重ねの中で、少しずつ、しかし確実に形を変えていった。

かつて対立していた人間と魔族は、同じ場所で暮らし、同じ空気を吸い、同じ時間を共有している。

その光景は、今では珍しいものではなくなっていた。

だが。

この国を本当に変えたものは、別にある。

「いち! に! さん!」

朝の広場に、規則正しい掛け声が響く。

整然と並んだ人々。

その中には、人間だけでなく、魔族の姿も混ざっていた。

角を持つ者。

肌の色が異なる者。

明らかに“人とは異なる存在”。

それらが今、何の違和感もなく並び、

同じ動きを繰り返している。

腕立て伏せ。

単純な動作。

だが、その動きは驚くほど揃っていた。

呼吸が一致している。

力の入れ方が揃っている。

そこには、種族を越えた一体感があった。

そして、それを見守る周囲の人々もまた、

その光景を“当たり前”として受け入れている。

この国では、それが日常だった。

“筋肉”という、奇妙な共通言語によって成り立つ日常。

神殿の石造りの一室。

窓から差し込む光が、机の上に広げられた紙束を照らしている。

机の上には、数式と図表が無数に並んでいた。

試験管、粉末、測定器具。

それらはすべて、ある目的のために存在している。

「この配合であれば、筋肉への転換効率はさらに上昇します」

ポウサンの声には、抑えきれない熱があった。

理論はすでに組み上がっている。

数字は裏付けを持ち、仮説は再現性を伴っている。

その向かいで、カイシンは静かに頷いた。

「……確かに、筋は通っておる」

短い言葉。

だが、それは十分な評価だった。

ポウサンの視線が鋭くなる。

「ですが、これ以上の効率向上は難しい」

「うむ」

カイシンは腕を組み、ゆっくりと視線を落とした。

「ならば、別の角度から考えてみるか」

「別の角度……?」

「今の理論は、“取り込む”ことに偏っておる」

一拍。

「ならば、“受け入れる側”を変えてみてはどうじゃ」

ポウサンの思考が、一瞬止まる。

やがて、その目に光が宿る。

「身体側の最適化……」

すぐに紙へとペンが走る。

「……ならば」

「出力ではなく、“筋圧”を指標にするのはどうでしょう」

空気が変わる。

カイシンの目が細くなる。

「面白い」

「出力は結果です」

ポウサンは続ける。

「その前段階――蓄積と解放の過程を制御できれば」

「より自由に扱えるはずです」

カイシンが頷く。

「理論は、一人では広がらぬ」

ポウサンがわずかに笑う。

「ええ」

二人の視線が交差する。

そこにあるのは上下関係ではない。

同じ領域を探求する者同士の、対等な関係だった。

「やってみるか」

「はい」

再び、議論が始まる。

終わりはない。

だが、その先にこそ意味がある。

騎士団訓練場。

乾いた音が響く。

剣と剣がぶつかり合う。

足音が地面を叩く。

「遅い!」

フィオナの声が鋭く飛ぶ。

団員たちは必死に応じる。

その動きは決して遅くない。

むしろ優秀だ。

だが――

(足りない)

フィオナは確信していた。

勝ったはずだった。

だが、それは“勝てた”だけだ。

“届いてはいなかった”。

その事実が、彼女を止めない。

「もう一度!」

その声には、迷いがない。

王国から離れた地。

影が、屋根の上を滑るように移動する。

音はない。

気配も薄い。

シエルだった。

その視線は、さらに遠くを見ている。

「……まだ浅い」

呟き。

情報は断片的。

だが、確信がある。

何かが動いている。

まだ表には出ていない。

だが、確実に存在する“何か”。

それを追うために、彼女はここにいる。

森の中。

木々の隙間から光が差し込む。

静寂。

その中に、重い音が響く。

ドン

竹助とオーマが向かい合っていた。

言葉はない。

同時に腰を落とす。

スクワット。

単純な動作。

だが、その一回一回に、圧がある。

地面が沈む。

空気が揺れる。

オーマの呼吸が、わずかに変わる。

次の一回。

さらに深く。

さらに重く。

その瞬間。

空気が変わった。

オーマの口元が、わずかに歪む。

「……なるほど」

理解。

それだけで、十分だった。

王都・神殿前。

一人の少女が立っていた。

茶色の髪。

小柄な体。

大きめの荷物。

やや緊張した面持ちで、門を見上げる。

(ここが……)

彼女の新たな配属先。

王都。

遠くから聞こえる。

「いち! に! さん!」

少女の思考が止まる。

「……え?」

理解が追いつかない。

だが、それでも。

一歩を踏み出す。

彼女の名は、ミリア。

この“筋肉の国”に足を踏み入れた、

新たな補助神官だった。

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