第35話 筋肉は受け継がれる
あの戦いから、幾日かが過ぎた。
王国は、静かだった。
だがそれは、かつてのような緊張に満ちた沈黙ではない。
どこか柔らかく、穏やかで。
人々が“前に進み始めている”ことを感じさせる静けさだった。
街では、変化が当たり前のように溶け込んでいる。
市場では、商人たちが荷を運びながら自然と体幹を意識し、
農夫たちは鍬を振るう前に軽くスクワットを行う。
子供たちは、遊びの中で腕立て伏せを競い合い、
その回数を誇らしげに報告していた。
誰かに教えられたわけではない。
それでも。
あの日の“感覚”だけが、確かに残っている。
※
王立学園。
中庭には、多くの学生たちが集まっていた。
魔法学の講義の時間。
だが、黒板に書かれているのは術式ではない。
【基礎鍛錬:スクワット20回】
「姿勢を崩すな」
教師が静かに言う。
「魔力は、肉体を通して発現する」
「体幹が抜ければ、魔法もまた不安定になる」
学生たちは真剣だった。
誰も笑わない。
知ってしまったからだ。
あの戦いの果てにある、“本質”を。
※
神殿。
静謐な空気の中。
祈りの声が、穏やかに響いている。
その中央で。
カイシンが、ゆっくりと動いていた。
片足を上げ、姿勢を保つ。
そのまま、静かに沈み込み――戻る。
無駄のない動き。
呼吸すら、乱れない。
「……ふむ」
小さく呟く。
「やはり、祈りと鍛錬は似ておるな」
背後で見ていた神官たちが、息を呑む。
「集中し、己を見つめ、無駄を削ぐ……」
カイシンは、静かに笑う。
「筋肉もまた、信仰の一つかもしれんのう」
※
騎士団訓練場。
金属音が、規則正しく響く。
フィオナは、剣を振っていた。
鋭く。
速く。
そして、重く。
一振りごとに、地面がわずかに沈む。
だが、止まらない。
汗が流れ、呼吸が荒くなる。
それでも。
剣は、鈍らない。
「……まだ足りない」
呟きと同時に、さらに踏み込む。
かつての戦いを思い出す。
あの、圧倒的な差。
そして。
乗り越えた瞬間を。
「……次は」
一拍。
「もっと上へ行く」
その目には、迷いがなかった。
※
路地裏。
人の気配が薄い場所。
その影の中に、シエルがいた。
ローブではなく、軽装の戦闘服。
動きやすく、無駄のない装い。
視線が、鋭く走る。
「……動きが甘いな」
小さく呟く。
視線の先。
怪しい取引をしていた男たちが、一瞬で制圧される。
音もなく。
速さだけで。
仕事を終え、ナイフを軽く振る。
「……まぁ、悪くない稼ぎだな」
そして、ふと空を見上げる。
「……あいつ、今もやってんのかな」
口元に、わずかな笑み。
※
神殿の一角。
セリアーナが、祈りを終えたところだった。
かつての補助神官ではない。
今は――正式な神官。
その証の衣を纏い、ゆっくりと立ち上がる。
「……よし」
小さく拳を握る。
その身体は、以前よりもしっかりしていた。
結界を張るための体幹。
長時間の支援に耐える筋力。
すべてが、積み上がっている。
「筋肉は……大事ですね」
誰に言うでもなく、呟く。
そして、少しだけ笑った。
※
王城の中庭。
陽光が、静かに降り注ぐ。
その中央で。
竹助と、オーマが並んでいた。
同じ動き。
同じ呼吸。
スクワット。
ゆっくりと沈み、静かに立ち上がる。
その繰り返し。
「……いいフォームだ」
竹助が言う。
オーマが、わずかに笑う。
「当然だ」
「筋肉が、そう言っている」
※
やがて、竹助が動きを止める。
取り出したのは、透明な容器。
白く濁った液体。
それを、迷いなく飲む。
オーマが、じっと見る。
「……何だ、それは」
「……プロテインだ」
一瞬の沈黙。
ポウサンの目が、鋭く光る。
「……なるほど……!」
一歩前へ。
「筋肉に必要な栄養素を、最適比率で配合した補助食品……!」
興奮が滲む。
「理論的に、極めて合理的です!」
オーマが、即座に手を差し出す。
「……私にも飲ませろ」
「構わん」
受け取り、口にする。
――ごくり。
一拍。
「……飲みにくいな」
率直だった。
竹助が、肩をすくめる。
「試作段階だ」
ポウサンが、静かに頷く。
「……つまり、改良の余地がある」
その目に、再び火が灯る。
オーマが、満足そうに言う。
「任せたぞ、ポウサン」
「お任せを」
それは、新たな挑戦の始まりだった。
※
王国のどこかで。
誰かが、ふと口にする。
「……今日も、鍛えるか」
その言葉に、誰もが頷く。
理由は、いらない。
なぜなら――
筋肉は、裏切らない。




