第22話 筋肉は戦を選ばない
魔王城――玉座の間には、重く沈んだ空気が満ちていた。
普段であれば、濃密な魔力が満ち、立っているだけで圧倒されるような空間であるはずだった。だが今、この場を支配しているのは魔力ではない。言葉にし難い、別種の圧だった。
それは、理屈では説明できない違和感。
そして、魔族たちの本能をじわじわと侵食する“不安”の正体でもあった。
玉座の間には、魔王軍の中枢が一堂に会している。
四天王、幹部、精鋭。
誰もが沈黙していた。
しかしその沈黙は、決して安定したものではない。
ほんの僅かなきっかけで崩れ落ちる――そんな危うさを孕んでいた。
「……おかしい」
ぽつりと漏れた声が、その均衡を崩した。
幹部の一人が腕を組んだまま、低く言葉を続ける。
「最近、魔王様は……魔法を使っておられない」
その一言に、周囲の空気がわずかに揺れた。
別の幹部が、抑えきれないように口を挟む。
「詠唱も聞いていない。魔力の放出も、ここ数日ほとんど確認されていない」
「それどころか――地下で妙な鍛錬を繰り返していると聞く」
言葉が重なるにつれて、場の緊張はゆっくりと形を持ち始める。
そして、その核心に触れる言葉が、ついに口にされた。
「……筋肉、だ」
誰かの呟き。
それは小さな声だったが、この場にいる全員の耳に、はっきりと届いた。
沈黙が落ちる。
それは理解ではなく、拒絶の沈黙だった。
「なぜだ……」
絞り出すような声。
「我らは魔族だ。魔法を極め、理を支配してきた種族だぞ」
「肉体など……補助に過ぎぬはずだ」
言葉には、戸惑いと焦りが混ざっていた。
それは決して反逆ではない。
むしろ、その逆だった。
理解できないからこそ、恐れている。
魔王という絶対が、見えない方向へ進んでいることを。
「――貴様ら」
低く、冷たい声が空気を断ち切った。
四天王最強の男、ゼルアークだった。
静かに一歩踏み出し、幹部たちを見据える。
その視線には、わずかな揺らぎもない。
「魔王様を愚弄する気か」
その一言で、場の温度が一気に下がった。
幹部たちが息を呑む。
反論は喉まで出かかっている。だが、それを口にすれば何が起こるか、誰もが理解していた。
「落ち着きなよ、ゼルアーク」
緊張をほどくように、柔らかな声が割って入る。
同じく四天王の1人、メギストラだった。
長身でスレンダーな体躯に、紫黒の長い髪。冷たい美貌と軍服風の衣装が、異様なほどに整っていた。
腕を組み、わずかに首を傾けながら言う。
「こいつらだって、魔王様のことを思って言ってるんだ。感情的に切り捨てるのは非合理だよ」
言葉は穏やかだったが、その内容は冷静で鋭い。
ゼルアークは何も言わない。
だが、完全に納得したわけでもないことは明らかだった。
「……事実として説明する」
中央に立つポウサンが、静かに口を開く。
その声は感情を極限まで排した、純粋な情報としての響きを持っていた。
「魔王様は現在、筋肉の強化に専念されている」
再び、沈黙。
今度は、理解した上での沈黙だった。
「……なぜですか」
幹部の一人が、ゆっくりと問いかける。
「我らは、魔族ですぞ」
その言葉には、誇りが込められていた。
魔法を極め、理を支配してきた種族としての矜持。
その時だった。
玉座の間の扉が、静かに開いた。
ほんのわずかな音。
だが、その瞬間、空気は完全に変わった。
現れたのは――魔王オーマ。
誰もが、息を呑む。
以前と変わらぬはずの姿。
だが、違う。
決定的に、何かが違っていた。
密度。
存在感。
言葉にできない何かが、確実に変質している。
「……何事だ」
低く、静かな声。
それだけで、場の全てが支配される。
ゼルアークが即座に膝をついた。
「魔王様。この者たちが――」
「違います」
被せるように、ポウサンが否定する。
「彼らは不安を口にしただけです」
魔王は、しばし沈黙したまま、全員を見渡した。
その視線は厳しくもあり、同時にどこか静かだった。
「……よい」
「言え」
それは命令ではなかった。
許可だった。
幹部の一人が、深く頭を下げる。
「……我らは、不安なのです」
震えながらも、言葉を続ける。
「これまで我らは、魔法と理によって世界を制してきました」
「しかし今、魔王様は……その理の外に踏み出されている」
沈黙。
魔王は、ゆっくりと頷いた。
「……そうか」
否定はしない。
怒りもない。
ただ、受け止める。
その事実だけで、場の空気がわずかに緩む。
そして魔王は、静かに言った。
「私は――敗北を感じた」
空気が凍る。
「水晶越しに」
「何もしていない男に」
「筋肉で、負けた」
誰も、言葉を発せなかった。
「だから、鍛えている」
「逃げるためではない」
「屈するためでもない」
一拍。
「――届くためだ」
その言葉は、静かでありながら、確かな重みを持っていた。
「お前たちが不安を感じると言うのなら」
魔王は、ゆっくりと告げる。
「この俺が、勝利をもってそれを払おう」
ーーだが。
「まだ、確実に勝てる算段は取れていません」
ポウサンが、ためらいなく言った。
「ダービルとポウセンも不在。戦力も万全ではありません」
メギストラも頷く。
「現状での開戦は非合理です」
沈黙。
すべての視線が、魔王へ向けられる。
そして。
「……よい」
その一言で、空気が変わった。
「ダービルもポウセンも、いずれ戻るであろう」
「だが、それを待つことはできぬ」
一歩、前へ。
「現有戦力で攻める」
断言。
「鬼門は――勇者のみ」
その言葉に、ゼルアークが笑う。
「ならば、私が斬ります」
迷いはない。
幹部たちの表情から、不安が消えていく。
残るのは、戦意だけだった。
魔王は、玉座に手を置いた。
その瞬間。
城全体が、静かに震えた。
「伝令を出せ」
「人間軍へ」
一拍。
「――宣戦布告だ」
それは、支配のための戦ではない。
征服のためでもない。
ただ一つ。
答えを求める戦い。
筋肉の真理を巡る、決戦だった。
※
その夜。
遠く離れた場所で、静かに鉄の音が響いていた。
重いバーベルを、一定のリズムで持ち上げる男がいる。
竹助内人。
呼吸は乱れない。
動作は正確。
ただ、積み重ねている。
「……まだ足りない」
誰に向けるでもない呟き。
だが、その肉体はすでに理解していた。
来たる戦いを。
言葉ではなく。
筋肉で。
夜は、静かに更けていく。
決戦の時は、すぐそこまで迫っていた。




