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第13話 筋肉は生き残るためにある

北部前線。

そこは、すでに“日常”という言葉が通用しない場所になっていた。

怒号が飛び交う。

金属がぶつかり合う音が、耳を打つ。

肉が裂ける鈍い音。

血の匂いが、風に乗って流れてくる。

視界の端で、誰かが倒れる。

誰かが叫ぶ。

それでも、足は止まらない。

止まった瞬間に――死ぬからだ。

その混沌の中を、シエルは静かに進んでいた。

黒いローブを纏い、フードで顔を隠している。

足音はない。

気配も薄い。

まるで“そこにいない”かのように。

その周囲には、即席の混成部隊が展開していた。

騎士三人。

冒険者四人。

トロール三体。

種族も立場も違う、寄せ集め。

だが――

(この規模なら制御できる)

シエルは冷静に判断していた。

大部隊は崩れやすい。

命令は遅れる。

混乱は連鎖する。

だがこの人数なら違う。

目が届く。

判断が早い。

そして――生き残れる確率が高い。

「前来るぞ!!」

騎士の叫びが、空気を裂いた。

その直後。

ズンッ――

地面が、沈んだ。

振動が、足の裏から骨に伝わる。

嫌な予感。

本能が警鐘を鳴らす。

――来た。

砂煙の向こう。

揺れる影。

やがて、輪郭がはっきりする。

巨体。

盛り上がる筋肉。

圧倒的な質量。

ただ“そこにいる”だけで、空気が重くなる。

獣王軍幹部。

その背後には、複数の獣人たち。

牙。

爪。

血走った目。

どれもが“戦うために生まれた存在”。

幹部が、ゆっくりと口を開いた。

「我は――」

一歩、踏み出す。

地面が軋む。

「獣王軍団幹部、ガルバ」

胸を叩く。

ドン、と鈍い音が響く。

「会ったからには、皆殺しだ」

空気が凍る。

誰もが理解していた。

――格が違う。

シエルは、小さくため息をついた。

「……面倒」

その声には、恐怖も焦りもない。

ただ純粋な“手間”への嫌悪だけがあった。

次の瞬間。

戦闘が、爆発した。

ドゴォン!!

トロールの拳が振り抜かれる。

一体の獣人が宙を舞い、地面に叩きつけられる。

骨の砕ける音。

同時に、シエルはもう動いていた。

視界から消える。

一瞬で間合いを詰める。

背後へ。

ナイフ。

一閃。

血が、飛ぶ。

一人、沈む。

「数を減らす」

「先に」

短く、的確な判断。

だが――

ズンッ!!

ガルバの拳。

騎士の一人が、吹き飛んだ。

空中で身体が歪む。

地面に叩きつけられる。

動かない。

「がっ……!」

(……まずい)

冒険者が魔法を放つ。

火球。

だが――

ガキン。

拳一つで、粉砕された。

「……は?」

誰かが、呟く。

(このままじゃ)

(削られる)

(確実に)

一人ずつ。

確実に。

シエルは、一歩前に出た。

「そいつ、私がやる」

騎士が振り返る。

「無茶だ!」

「いいから下がって」

低い声。

温度のない声。

拒絶の余地がない声。

一瞬の迷い。

だが――

全員が、退いた。

空気が変わる。

一対一。

ガルバが、笑う。

「ほう」

「一人で来るか」

シエルは、ゆっくりとローブに手をかけた。

――脱ぎ捨てる。

布が落ちる。

軽い音。

露わになる身体。

黒のタイトインナー。

引き締まった細いライン。

無駄のない構造。

“速さ”のために最適化された肉体。

騎士が、思わず呟く。

「……美しい……」

シエルは短剣を逆手に構える。

横目で、ガルバを見る。

「……殺したら楽なんだけど」

一拍。

「しょうがない」

消えた。

速い。

圧倒的に。

「見えん……!」

背後。

ナイフ。

だが――

ガキン。

止められる。

「……読まれてる?」

ガルバが振り向く。

「本能だ」

拳。

ドォン!!!!

直撃。

シエルの身体が吹き飛ぶ。

地面を転がる。

肺の空気が一瞬で抜ける。

視界が揺れる。

「……っ」

呼吸ができない。

(やば……)

ガルバが近づく。

ゆっくりと。

逃がさない歩き方。

「速さは認めよう」

一歩。

「だが――」

さらに一歩。

「当たれば終わりだ」

拳が振り上がる。

シエルは、動かない。

(それでいい)

「終わりだ」

振り下ろされる――

その瞬間。

ピタリと止まる。

「……?」

腕が、動かない。

膝が崩れる。

ドスン。

巨体が倒れる。

沈黙。

シエルが、ゆっくりと起き上がる。

肩で息をしながら。

「……やっと、きいた」

ナイフを軽く振る。

血を払う。

「獣人って……無駄に丈夫」

一拍。

「めんどくさい」

騎士が呟く。

「毒……か……」

シエルは、小さく頷く。

「避けながら」

「全部、刺した」

誰も、言葉を失う。

ガルバは動かない。

完全に沈黙。

騎士が、震える声で言う。

「……いつの間に……」

シエルは、その場に座り込む。

力が抜ける。

深く、息を吐く。

「……わりにあわない」

空を見上げる。

遠く、戦いの音が響いている。

「ちょっと休む……」

目を閉じる。

その背後で、戦場はまだ動いている。

だが――

この場所だけ。

ほんの一瞬だけ。

静寂が戻っていた。

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