第13話 筋肉は生き残るためにある
北部前線。
そこは、すでに“日常”という言葉が通用しない場所になっていた。
怒号が飛び交う。
金属がぶつかり合う音が、耳を打つ。
肉が裂ける鈍い音。
血の匂いが、風に乗って流れてくる。
視界の端で、誰かが倒れる。
誰かが叫ぶ。
それでも、足は止まらない。
止まった瞬間に――死ぬからだ。
*
その混沌の中を、シエルは静かに進んでいた。
黒いローブを纏い、フードで顔を隠している。
足音はない。
気配も薄い。
まるで“そこにいない”かのように。
*
その周囲には、即席の混成部隊が展開していた。
騎士三人。
冒険者四人。
トロール三体。
種族も立場も違う、寄せ集め。
だが――
(この規模なら制御できる)
シエルは冷静に判断していた。
大部隊は崩れやすい。
命令は遅れる。
混乱は連鎖する。
だがこの人数なら違う。
目が届く。
判断が早い。
そして――生き残れる確率が高い。
*
「前来るぞ!!」
騎士の叫びが、空気を裂いた。
その直後。
ズンッ――
地面が、沈んだ。
振動が、足の裏から骨に伝わる。
嫌な予感。
本能が警鐘を鳴らす。
*
――来た。
*
砂煙の向こう。
揺れる影。
やがて、輪郭がはっきりする。
巨体。
盛り上がる筋肉。
圧倒的な質量。
ただ“そこにいる”だけで、空気が重くなる。
*
獣王軍幹部。
その背後には、複数の獣人たち。
牙。
爪。
血走った目。
どれもが“戦うために生まれた存在”。
*
幹部が、ゆっくりと口を開いた。
「我は――」
一歩、踏み出す。
地面が軋む。
「獣王軍団幹部、ガルバ」
胸を叩く。
ドン、と鈍い音が響く。
「会ったからには、皆殺しだ」
*
空気が凍る。
誰もが理解していた。
――格が違う。
*
シエルは、小さくため息をついた。
「……面倒」
その声には、恐怖も焦りもない。
ただ純粋な“手間”への嫌悪だけがあった。
*
次の瞬間。
戦闘が、爆発した。
*
ドゴォン!!
トロールの拳が振り抜かれる。
一体の獣人が宙を舞い、地面に叩きつけられる。
骨の砕ける音。
*
同時に、シエルはもう動いていた。
視界から消える。
一瞬で間合いを詰める。
背後へ。
ナイフ。
一閃。
*
血が、飛ぶ。
一人、沈む。
*
「数を減らす」
「先に」
短く、的確な判断。
*
だが――
*
ズンッ!!
*
ガルバの拳。
*
騎士の一人が、吹き飛んだ。
空中で身体が歪む。
地面に叩きつけられる。
動かない。
*
「がっ……!」
*
(……まずい)
*
冒険者が魔法を放つ。
火球。
だが――
ガキン。
拳一つで、粉砕された。
*
「……は?」
誰かが、呟く。
*
(このままじゃ)
(削られる)
(確実に)
*
一人ずつ。
確実に。
*
シエルは、一歩前に出た。
*
「そいつ、私がやる」
*
騎士が振り返る。
「無茶だ!」
*
「いいから下がって」
低い声。
温度のない声。
拒絶の余地がない声。
*
一瞬の迷い。
だが――
全員が、退いた。
*
空気が変わる。
一対一。
*
ガルバが、笑う。
「ほう」
「一人で来るか」
*
シエルは、ゆっくりとローブに手をかけた。
*
――脱ぎ捨てる。
*
布が落ちる。
軽い音。
*
露わになる身体。
黒のタイトインナー。
引き締まった細いライン。
無駄のない構造。
“速さ”のために最適化された肉体。
*
騎士が、思わず呟く。
「……美しい……」
*
シエルは短剣を逆手に構える。
*
横目で、ガルバを見る。
*
「……殺したら楽なんだけど」
一拍。
「しょうがない」
*
消えた。
*
速い。
圧倒的に。
*
「見えん……!」
*
背後。
ナイフ。
*
だが――
ガキン。
止められる。
*
「……読まれてる?」
*
ガルバが振り向く。
「本能だ」
*
拳。
*
ドォン!!!!
*
直撃。
*
シエルの身体が吹き飛ぶ。
地面を転がる。
肺の空気が一瞬で抜ける。
視界が揺れる。
*
「……っ」
呼吸ができない。
*
(やば……)
*
ガルバが近づく。
ゆっくりと。
逃がさない歩き方。
*
「速さは認めよう」
一歩。
「だが――」
さらに一歩。
「当たれば終わりだ」
*
拳が振り上がる。
*
シエルは、動かない。
*
(それでいい)
*
「終わりだ」
*
振り下ろされる――
その瞬間。
*
ピタリと止まる。
*
「……?」
*
腕が、動かない。
*
膝が崩れる。
*
ドスン。
巨体が倒れる。
*
沈黙。
*
シエルが、ゆっくりと起き上がる。
肩で息をしながら。
*
「……やっと、きいた」
*
ナイフを軽く振る。
血を払う。
*
「獣人って……無駄に丈夫」
一拍。
「めんどくさい」
*
騎士が呟く。
「毒……か……」
*
シエルは、小さく頷く。
*
「避けながら」
「全部、刺した」
*
誰も、言葉を失う。
*
ガルバは動かない。
完全に沈黙。
*
騎士が、震える声で言う。
「……いつの間に……」
*
シエルは、その場に座り込む。
力が抜ける。
*
深く、息を吐く。
*
「……わりにあわない」
*
空を見上げる。
遠く、戦いの音が響いている。
*
「ちょっと休む……」
*
目を閉じる。
*
その背後で、戦場はまだ動いている。
だが――
この場所だけ。
ほんの一瞬だけ。
静寂が戻っていた。




