第8話 筋肉は理論を超える
魔王城・最深部。
黒曜石で造られた玉座の間は、重く、静まり返っていた。
音がない。
気配すら削ぎ落とされた空間。
そこに座すのは――
魔王オーマ。
この世界における“理”そのもの。
あらゆる魔法体系を極め、あらゆる戦術を把握し、
あらゆる戦場を支配してきた存在。
その前に、巨大な水晶が浮かんでいる。
戦場を映す、監視用魔導水晶。
そこに映っていたのは――
ポウセン。
魔王軍の切り込み隊長。
そして。
その前に立つ、異物。
竹助。
拳一つで、地形を消し飛ばす男。
映像の中で。
ポウセンが拳を解き、静かに言う。
「田舎に帰らせていただきます」
その瞬間。
水晶が暗転した。
*
沈黙。
誰も、息をしない。
魔王軍幹部たちが整列する中、
誰一人として口を開けなかった。
“理解できないもの”を前にした時の、あの沈黙。
魔王オーマは、動かない。
怒りはない。
焦りもない。
ただ――
思考している。
深く。
静かに。
徹底的に。
やがて。
「……これは」
ぽつりと呟く。
ほんのわずかに、眉が動く。
「……理解できん」
その一言で。
空気が、凍った。
ざわ……と。
小さな波のように、幹部たちの間に動揺が広がる。
(魔王様が……?)
(理解できない、と……?)
誰も声には出さない。
だが、全員が同じことを思っていた。
*
オーマはゆっくりと指を組む。
「拳圧で、山が消える」
「魔法反応、なし」
「分身は高速移動」
「攻撃は寸止め」
一つ一つ、確認するように言葉を並べる。
論理を組み立てるための言語化。
だが。
「……勝ち筋が、見えん」
結論は、あまりにもシンプルだった。
ざわっ――
今度は、はっきりと空気が揺れる。
魔族の一人が、耐えきれず口を開く。
「で、ですが魔王様……!」
声がわずかに上ずる。
「遠距離魔法で削れば――」
「無理だ」
即答。
一切の間がない。
「距離を取れば詰めてくる」
「拘束すれば破る」
「即死魔法?」
一拍。
「……おそらく効かない」
断言ではない。
だが、それは“ほぼ確定”を意味していた。
誰も、何も言えなくなる。
理屈として正しい。
だからこそ、どうしようもない。
*
その時。
一歩、前に出た者がいた。
重い足音。
筋肉の塊。
魔王軍四天王の一人。
ダービル。
「……納得できん」
低く、響く声。
空気を押し下げるような重み。
幹部たちの視線が、一斉に集まる。
「筋肉で無双?」
鼻で笑う。
「笑止」
拳を握る。
ギリ、と筋肉が軋む音。
「俺こそが、最高の筋肉だ」
その言葉には、揺らぎがなかった。
*
オーマは、静かにダービルを見る。
否定はしない。
ただ、問う。
「勝てるか?」
一拍。
ダービルは答えない。
答えられない。
だが――
視線は逸らさない。
逃げない。
「……やってみないと分かりません」
その言葉に。
オーマの口元が、わずかに緩む。
「いいな」
「それでこそだ」
だが。
続く言葉は冷酷だった。
「だが、現状では勝てない」
断言。
容赦がない。
逃げ場もない。
ダービルの拳が、わずかに強く握られる。
「だからこそ――」
オーマが指を鳴らす。
「対策が必要だ」
*
その言葉を待っていたかのように。
一人の男が前に出る。
ポウサン。
魔王軍参謀。
理論主義者。
感情を排し、常に最適解を導く男。
「……承知しました」
その声に迷いはない。
すでに結論に到達している声音。
「勇者タケスケ・ウチトの戦闘を分析した結果――」
指を鳴らす。
空間に魔法式が展開される。
筋肉の収縮。
負荷の流れ。
関節の可動。
呼吸。
すべてが数式として可視化される。
幹部たちがざわつく。
「なんだ……これは……」
「肉体の動き……?」
「魔法じゃない……?」
ポウサンは淡々と続ける。
「これは魔法ではありません」
「純粋な肉体運用です」
さらにざわめきが広がる。
「つまり――」
黒板に文字を書く。
《負荷・回復・栄養》
静寂。
誰も、その意味を理解できない。
「鍛錬理論です」
*
ざわ……ざわ……。
今度は抑えきれない。
「鍛錬……?」
「それだけで……?」
「そんなことで……?」
だがポウサンは止まらない。
オーマも止めない。
この場で唯一、話を“理解している二人”。
「現行の魔王軍訓練は、戦闘効率を重視」
「しかし筋肥大、出力向上という観点では――不十分」
一拍。
「甘い」
空気が震える。
だが反論できる者はいない。
ポウサンの言葉は、常に正しい。
「よって提案します」
資料を広げる。
「全軍に――」
一拍。
「筋トレを導入」
沈黙。
完全な沈黙。
そして。
「……は?」
誰かが、ついに声を漏らした。
「筋トレ……?」
「スクワット……?」
「魔王軍が……?」
動揺が広がる。
明らかに動揺している。
だが。
ポウサンは微動だにしない。
「必要です」
断言。
「勇者は、筋肉で世界法則を上書きしています」
「ならば我々も、筋肉で対抗するしかありません」
理屈は通っている。
だが――
納得はできない。
それが全員の本音だった。
*
オーマは腕を組む。
目を閉じる。
思考。
選択。
そして――
目を開いた。
「面白い」
その一言で。
すべてが決まる。
ざわっ、と空気が揺れる。
「本日より――」
ゆっくり立ち上がる。
その動作だけで、場が引き締まる。
「魔王軍、筋肉改革期に入る」
*
その宣言の中で。
ただ一人。
動かない男がいた。
ダービル。
腕を組み、睨むように前を見ている。
「……気に食わねぇな」
低く呟く。
「理屈で作る筋肉なんざ、筋肉じゃねぇ」
ポウサンが即座に返す。
「非効率です」
「効率?」
ダービルが笑う。
「そんなもんで鍛えた筋肉に、価値はねぇ」
一歩、踏み出す。
床が軋む。
「筋肉はな」
胸を叩く。
ドン、と重い音。
「信念だ」
沈黙。
ポウサンが、初めて言葉に詰まる。
「……理論的に説明が」
「できねぇだろ?」
ニヤリと笑う。
「それが筋肉だ」
*
オーマは、そのやり取りを見ていた。
そして、静かに呟く。
「……面白い」
理論のポウサン。
信念のダービル。
そして――
規格外の竹助。
「筋肉にも、種類があるか」
その視線は、遠くを見ていた。
*
その日。
魔王軍全域に、新たな命令が下された。
――朝礼前、腕立て百回。
――魔力行使前、スクワット五十回。
――詠唱は、プランク中に行うこと。
数秒後。
各地で悲鳴が上がる。
「なぜだぁぁぁ!!」
「腕が上がらん!!」
「詠唱が途切れる!!」
「筋肉が震える!!」
混乱。
混乱。
混乱。
魔王軍は、未曾有の危機に陥っていた。
筋肉的に。
*
玉座の間。
誰もいなくなった後。
オーマは一人、水晶を見つめる。
「勇者よ……」
静かに呟く。
「お前が現れなければ」
「俺は、最強のままだった」
一拍。
そして。
ほんのわずかに、笑う。
「……だが」
拳を軽く握る。
「悪くない」
「筋肉も」
*
その頃。
遠く離れた地で。
くしゃみをする男が一人。
「……プロテインが足りていないようだな」
竹助は今日も――
鍛えていた。




