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第8話 筋肉は理論を超える

魔王城・最深部。

黒曜石で造られた玉座の間は、重く、静まり返っていた。

音がない。

気配すら削ぎ落とされた空間。

そこに座すのは――

魔王オーマ。

この世界における“理”そのもの。

あらゆる魔法体系を極め、あらゆる戦術を把握し、

あらゆる戦場を支配してきた存在。

その前に、巨大な水晶が浮かんでいる。

戦場を映す、監視用魔導水晶。

そこに映っていたのは――

ポウセン。

魔王軍の切り込み隊長。

そして。

その前に立つ、異物。

竹助。

拳一つで、地形を消し飛ばす男。

映像の中で。

ポウセンが拳を解き、静かに言う。

「田舎に帰らせていただきます」

その瞬間。

水晶が暗転した。

沈黙。

誰も、息をしない。

魔王軍幹部たちが整列する中、

誰一人として口を開けなかった。

“理解できないもの”を前にした時の、あの沈黙。

魔王オーマは、動かない。

怒りはない。

焦りもない。

ただ――

思考している。

深く。

静かに。

徹底的に。

やがて。

「……これは」

ぽつりと呟く。

ほんのわずかに、眉が動く。

「……理解できん」

その一言で。

空気が、凍った。

ざわ……と。

小さな波のように、幹部たちの間に動揺が広がる。

(魔王様が……?)

(理解できない、と……?)

誰も声には出さない。

だが、全員が同じことを思っていた。

オーマはゆっくりと指を組む。

「拳圧で、山が消える」

「魔法反応、なし」

「分身は高速移動」

「攻撃は寸止め」

一つ一つ、確認するように言葉を並べる。

論理を組み立てるための言語化。

だが。

「……勝ち筋が、見えん」

結論は、あまりにもシンプルだった。

ざわっ――

今度は、はっきりと空気が揺れる。

魔族の一人が、耐えきれず口を開く。

「で、ですが魔王様……!」

声がわずかに上ずる。

「遠距離魔法で削れば――」

「無理だ」

即答。

一切の間がない。

「距離を取れば詰めてくる」

「拘束すれば破る」

「即死魔法?」

一拍。

「……おそらく効かない」

断言ではない。

だが、それは“ほぼ確定”を意味していた。

誰も、何も言えなくなる。

理屈として正しい。

だからこそ、どうしようもない。

その時。

一歩、前に出た者がいた。

重い足音。

筋肉の塊。

魔王軍四天王の一人。

ダービル。

「……納得できん」

低く、響く声。

空気を押し下げるような重み。

幹部たちの視線が、一斉に集まる。

「筋肉で無双?」

鼻で笑う。

「笑止」

拳を握る。

ギリ、と筋肉が軋む音。

「俺こそが、最高の筋肉だ」

その言葉には、揺らぎがなかった。

オーマは、静かにダービルを見る。

否定はしない。

ただ、問う。

「勝てるか?」

一拍。

ダービルは答えない。

答えられない。

だが――

視線は逸らさない。

逃げない。

「……やってみないと分かりません」

その言葉に。

オーマの口元が、わずかに緩む。

「いいな」

「それでこそだ」

だが。

続く言葉は冷酷だった。

「だが、現状では勝てない」

断言。

容赦がない。

逃げ場もない。

ダービルの拳が、わずかに強く握られる。

「だからこそ――」

オーマが指を鳴らす。

「対策が必要だ」

その言葉を待っていたかのように。

一人の男が前に出る。

ポウサン。

魔王軍参謀。

理論主義者。

感情を排し、常に最適解を導く男。

「……承知しました」

その声に迷いはない。

すでに結論に到達している声音。

「勇者タケスケ・ウチトの戦闘を分析した結果――」

指を鳴らす。

空間に魔法式が展開される。

筋肉の収縮。

負荷の流れ。

関節の可動。

呼吸。

すべてが数式として可視化される。

幹部たちがざわつく。

「なんだ……これは……」

「肉体の動き……?」

「魔法じゃない……?」

ポウサンは淡々と続ける。

「これは魔法ではありません」

「純粋な肉体運用です」

さらにざわめきが広がる。

「つまり――」

黒板に文字を書く。

《負荷・回復・栄養》

静寂。

誰も、その意味を理解できない。

「鍛錬理論です」

ざわ……ざわ……。

今度は抑えきれない。

「鍛錬……?」

「それだけで……?」

「そんなことで……?」

だがポウサンは止まらない。

オーマも止めない。

この場で唯一、話を“理解している二人”。

「現行の魔王軍訓練は、戦闘効率を重視」

「しかし筋肥大、出力向上という観点では――不十分」

一拍。

「甘い」

空気が震える。

だが反論できる者はいない。

ポウサンの言葉は、常に正しい。

「よって提案します」

資料を広げる。

「全軍に――」

一拍。

「筋トレを導入」

沈黙。

完全な沈黙。

そして。

「……は?」

誰かが、ついに声を漏らした。

「筋トレ……?」

「スクワット……?」

「魔王軍が……?」

動揺が広がる。

明らかに動揺している。

だが。

ポウサンは微動だにしない。

「必要です」

断言。

「勇者は、筋肉で世界法則を上書きしています」

「ならば我々も、筋肉で対抗するしかありません」

理屈は通っている。

だが――

納得はできない。

それが全員の本音だった。

オーマは腕を組む。

目を閉じる。

思考。

選択。

そして――

目を開いた。

「面白い」

その一言で。

すべてが決まる。

ざわっ、と空気が揺れる。

「本日より――」

ゆっくり立ち上がる。

その動作だけで、場が引き締まる。

「魔王軍、筋肉改革期に入る」

その宣言の中で。

ただ一人。

動かない男がいた。

ダービル。

腕を組み、睨むように前を見ている。

「……気に食わねぇな」

低く呟く。

「理屈で作る筋肉なんざ、筋肉じゃねぇ」

ポウサンが即座に返す。

「非効率です」

「効率?」

ダービルが笑う。

「そんなもんで鍛えた筋肉に、価値はねぇ」

一歩、踏み出す。

床が軋む。

「筋肉はな」

胸を叩く。

ドン、と重い音。

「信念だ」

沈黙。

ポウサンが、初めて言葉に詰まる。

「……理論的に説明が」

「できねぇだろ?」

ニヤリと笑う。

「それが筋肉だ」

オーマは、そのやり取りを見ていた。

そして、静かに呟く。

「……面白い」

理論のポウサン。

信念のダービル。

そして――

規格外の竹助。

「筋肉にも、種類があるか」

その視線は、遠くを見ていた。

その日。

魔王軍全域に、新たな命令が下された。

――朝礼前、腕立て百回。

――魔力行使前、スクワット五十回。

――詠唱は、プランク中に行うこと。

数秒後。

各地で悲鳴が上がる。

「なぜだぁぁぁ!!」

「腕が上がらん!!」

「詠唱が途切れる!!」

「筋肉が震える!!」

混乱。

混乱。

混乱。

魔王軍は、未曾有の危機に陥っていた。

筋肉的に。

玉座の間。

誰もいなくなった後。

オーマは一人、水晶を見つめる。

「勇者よ……」

静かに呟く。

「お前が現れなければ」

「俺は、最強のままだった」

一拍。

そして。

ほんのわずかに、笑う。

「……だが」

拳を軽く握る。

「悪くない」

「筋肉も」

その頃。

遠く離れた地で。

くしゃみをする男が一人。

「……プロテインが足りていないようだな」

竹助は今日も――

鍛えていた。

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