おまけ5 失意の彼ら
暗い暗い闇を背景に、誰かがぶつぶつと呟いている。よく見るとそれは銀に煌めく髪と翡翠の瞳の女で、ソイツの顔は窺えないが、なんとなく見覚えがあった。
俺の胸ほどの高さにあるその顔が、右から左へと闇のカーテンを払うようにその正体を覗かせる。
『あなたのことが、憎くて憎くて仕方がないの』
その顔はとても恐ろしく、そして無機質で、人間味を感じなかった。
「うわああぁぁ!」
あまりの恐怖に絶叫をあげながら、ベッドから飛び起きる。窓の外からは光が差し込んでいて、既に朝を知らせていた。
あのおぞましい人物の正体は、クラスメイトの紫崎 芽凛衣という女だ。あの特徴的な顔は忘れるはずもないが、学校で見せる雰囲気とは似ても似つかない。
俺が彼女にここまで怯えるようになったのは、忘れるはずもない。あの本性に気付かないまま、手を出してしまったことだ。
踏んではならない禁忌に手を出してしまったことで、何ヵ月経っても癒えることのない厄を負ってしまった。あれから毎晩、彼女が夢に出るのだ。
毎朝目覚めは最悪で、起きれば寝汗で気持ち悪く、学校に来るのも憂鬱だ。しかし、家で一人になるのは恐怖でしかない。間違いなく加速度的に心を壊していくだろう。
あの女が教室に入ってくる度、その声が聞こえる度に心が揺れる。ドクンと心臓が跳ねるのだ。
それは決して恋などではなく、まるで死を目の前にしたかのような気分だった。
そんな日々に心は蝕まれ、体重は激減。今までの友人たちとも女たちとも関わりがなくなっていく。スマホにはいつぞやに抱いた女からの連絡があるものの、どうにも相手をする気になれず無視ばかり。
そんな俺とは対照的に、あの生意気な陰キャの汐丸が、紫崎と楽しそうにしていやがる。あんなどこにでもいるようなパッとしないヤツが、能天気にヘラヘラしている姿を見ているとイライラしてくる。
ヤツだってあの女の本性を知れば、裸足で逃げ出すに違いない。
俺がこんなにも苦しんでいるというのに、なんという理不尽だろうか。もう、我慢の限界だった。
迎える放課後、立ち去るクラスメイトたち。その中には、あの二人の姿もある。
相変わらずムカつくニヤけ面を晒しながら、汐丸が紫崎とベタつきながら帰ろうとしていた。
俺の席は教室の廊下側で、入り口の目の前だった。つまり、あの二人が帰るためには俺の前を通るか、遠回りして後ろの入り口からでなければならない。特に理由がないのなら、まっすぐ俺の席の前を通ることになるだろう。というか、実際に目の前に来ていた。
そして気が付くと、事は既に起きていた。血の滲む俺の手、倒れる汐丸。突然の出来事に、教室は僅かに静まり返っていた。
誰ともなくポツポツと声を上げはじめ、クラスメイトたちが徐々に事態を理解し始めた。それは俺も同じであり、取り返しのつかないことをしてしまった俺は、バッグを勢いよく手に取って逃げるように教室から出る。
「待てよコラ」
しかし教室から数メートルも走りきらない内に、そんな声と共に地面へと突っ伏してしまった。その正体は北島であり、どうやら彼によって足払いをかけられたようだった。
「更斗を殴ったってどういうことだよテメェ」
怒気を孕ませた声で、北島は膝を曲げながらそう言った。事態を目の当たりにはしていなかったものの、目撃者の誰かの言葉を聞いたようだ。
そんな彼に俺は顔だけを上げるが、一向に言葉が出てくることはなく、口をパクパクとさせることしかできなかった。
騒ぎを聞き付けたのか、数名の教員たちがやってきた。俺は暴行を働いたということで、両親呼び出しの上に停学処分になるのだった。
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「なにかと思ったらそりゃあ災難だったね」
「本当だよ。御天原共々大人しくなってたから、いきなり殴られるとは思わねぇって」
俺の言葉に苦笑いで返すのは、彩斗のセフレである三陰 風夏である。御天原の名前を出したのは、彼女らが友人関係にあるからだ。
青崎に殴られた翌日、下校途中に街中で顔を合わせた風夏に怪我のことを尋ねられた次第である。
「そんで怪我は大丈夫なの?って聞くまでもないかもだけど」
「まぁな。いきなりだったから倒れはしたけど、あいつも随分ヒョロヒョロになってたから思ったより力がなかったみたいで、軽く腫れたくらいだよ」
「そっか、無事なら良かった。それはそうとね、その御天原ちゃんのことなんだけどさ。こないだ久しぶりに会ったのよ」
名前が出たからだろう、そう話題を持ち出した風夏に相槌を打つと、彼女は話を進める。
「なんだか随分としおらしくなっちゃったみたいでさ、前はキャンキャン喚いてたのにそんな素振りも見せなくなっちゃって、なんだか別人っていうか陰気でつまんない感じ。まぁ多分、あれが素なんだろうけど」
まるでどうでも良さそうに、風夏がそう言った。彼女の言う通り、最近の御天原は誰とも関わるでもなく、とても静かに過ごしている。そうなった理由は明白だが、わざわざ言うまでもないだろう。
「前は更斗くんのこととか、紫崎さんのことをどうにかしてやるって息巻いてたけど、そんなこともなくなったから安心して良いと思うし、もう無視で良いんじゃない?」
「だな。俺も関わる気はないし、どうでもいい」
そう返答して芽凛衣を見ると、彼女も俺の言葉に合わせて首肯した。
「だよね。私としても、友達に嫌がらせした子なんて関わりたくないし、放置でいいかな。最近生意気でウザかったし」
風夏にとっても腐れ縁みたいなものだったのだろうか、御天原より俺たちとの関係を大切にしてくれるようで、悪い気はしない。
彼女の本質は、中学時代に散々相手にしてきた連中のソレだろうが、無理に敵対しようとも思わない。仲良くしているのならそれでいいのだ。
「それはそうとさ、更斗くん?」
「なんだよ改まって……」
話が一区切りしたのも束の間、風夏が両手を後ろに、ふっと笑みを浮かべて一歩前に。少し背の低い彼女が、自然なのか故意なのか上目遣いになる。
そんな彼女に、思わず背中を引いてしまう。
「キミが嫌じゃなかったらさ、エッチしようよ」
突然投げられた言葉に、俺も芽凛衣も衝撃のあまり固まってしまった。なに?ヤりてぇだとこのやろう。聞き間違えたにしたってとんでもない。
「は?」
「いやぁ、紫崎さんがいるのにって話なんだけどさ、私はほら誰かと付き合いたいわけじゃないけど、エッチするのは好きだし。更斗くんのことはずっと気になってたからさ」
「いやだからって」
聞き間違いという線はすぐになくなり、かわりにその言葉がかけられた理由が語られる。風夏は確かに可愛いし別に嫌ではないが、かといってそういうことをする気にはなれない。
「そうだよねぇ、だからって聞くかって話だよね。でもどうしても聞きたくてさ、ムリならムリで答えが欲しかったの。別に更斗くんと付き合いたいとか奪いたいとか、ましてや二人を引き裂きたいってわけじゃないからね」
一歩前に出た足を戻した風夏が、あっけらかんと言い放つ。その様子からも、彼女の言葉が嘘でないことが分かる。
最後の言葉は俺だけでなく、芽凛衣に向けたものでもあるのだろう。半ば本気ではあるものの、期待はしていないようだ。
「まぁムリなら仕方ないか。ほいじゃ、私はそろそろ行くね」
「あ、おう……」
内容が内容だけに困っている俺たちに、風夏が話を終わらせて、手を振りながら踵を返す。そんな彼女に俺は生返事しか返すことができず、芽凛衣は ん…と短く返した。
「……なんだったんだあれ」
「さぁ?でも良かったの?」
立ち去っていく背中を見送りながらポツリと溢すと、芽凛衣がそう問いかけてくる。それに顔だけ向けて ん?と返す。
「三陰さんとエッチしなくて」
「なに言ってんだ、まったく困らないし勃たねぇよそもそも」
やはり恋人として気になるのだろうことであったが、俺としては答えた通りだ。先の通り、風夏とはそんな気分にはなれない。おそらく、彼女以外の女の子相手でも。
そんな気分になる相手はただ一人だ。
「やるなら芽凛衣とだけだな」
「うぇへへそっか♪じゃあ早く帰ろ!」
そのただ一人の女の子は、嬉しそうに頬を緩めた。そんな可愛い彼女の手を改めて握って、家に向かって歩みを進めた。




