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このスキル、やばスギル。【ファステ・フェルンの来歴譚】~1話目合流まで~  作者: 明日乃風


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第5話 戻らない



 朝の水差しを満たした時、屋敷ではまだ誰も起きていなかった。


 ファステは台所の火を確かめ、物置の小窓へ向かった。


 留め具は最後まで掛かっている。端へ結んだ布も外へ出ていない。


 次に来客用の布を数え、洗濯場へ運ぶ籠を分ける。


 朝食のパンを並べる前に、背後で足音が止まった。


「それ、私がやる」


 ノエルだった。


「では、こちらの籠をお願いいたします」


 ファステは来客用の布が入った籠を示した。


 ノエルが布を数え、端へ汚れがないか確かめる。ファステはパンを並べながら、その手元を見ていた。


 最後の一枚が畳まれる。


 ノエルが籠を持って出た後、ファステは布をもう一度見ようと手を伸ばした。


「任せるって言ったよね」


 ノエルはまだ入口に立っていた。


「はい」


「だったら、どうしてまた見るの」


「念のためでございます」


「私を守るため? それとも、信じてないから?」


 ファステは答えられなかった。


 ノエルが見落とせば、また責められる。担当を外されるかもしれない。


「何かあれば、ノエルが困ります」


「だからファステが全部見るの?」


「私が確認できることでしたら」


「それで、前と何が変わったの」


 ノエルは籠を床へ置いた。


「物置の時もそうだった。私が失敗して、あなたが代わりに払って、代わりに働いた。私は責められなくなったけど、毎日あなたが働いてるのを見ることになった」


「あれは、私にも責任がございました」


「だったら、私にもあなたを助ける責任がある」


 ファステは首を横へ振った。


「私は助けていただくようなことは――」


「手紙、届いてるよ」


 その言葉で、ファステの手が止まった。


「奥様の机の引き出しにあった。あなたが夜に持って出ようとした手紙と、もう一通」


「もう一通?」


「エルマさんから。あなたの名前が書いてあった」


 返事は来ていないと思っていた。


 エルマも仕事があり、目と脚を休ませなければならない。何度も書かせてはいけないと、自分に言い聞かせていた。


「何か、理由があって預かってくださっているのかもしれません」


「まだそう言うの?」


「先に確かめなければ」


「確かめたら、渡してくれると思う?」


 ファステは答えなかった。


「次に町へ出す洗濯物がある。その受け渡しに紛れて、仲介所へ持っていく」


「いけません」


「どうして」


「見つかれば、ノエルが責められます」


「危ないことは、全部あなた一人で受けるの?」


「そういう意味ではございません」


「じゃあ、どういう意味?」


 言葉を探している間に、廊下の向こうから人の動く音が聞こえ始めた。


 ノエルは籠を抱えた。


「今度は私が決める」


 許可を求める言い方ではなかった。


 ファステは止められなかった。


 けれど、協力するとも言えなかった。


     ◇


 セシリアが客を迎えた昼前、ノエルは執務室へ届け物を運んだ。


 ファステは台所で茶の用意をしていた。


 湯を沸かし、器を温める。セシリアの好みに合わせて茶葉を量る。


 決められた時刻を過ぎても、ノエルが戻らない。


 探しに行こうとした時、裏口からノエルが入ってきた。


「これ」


 エプロンの内側から、二通の封書を取り出す。


 一通は、ファステが夜に持ち出そうとした手紙だった。


 もう一通には、確かに自分の名が書かれている。


 封は一度開かれていた。端には、屋敷へ届いた日を示す小さな書き込みがある。


 ずっと前の日付だった。


 ファステは封書を開いた。


 エルマの文字は、以前より少し大きく、行がゆっくり曲がっていた。


 茶葉も金もいらない。


 仕事がうまくいかなかったのなら、なおさら帰っておいで。


 一度でいいから顔を見せてほしい。


 町の仲介所へ何度か聞きに行ったが、本人が残ると言っている以上、こちらから連れ出すことはできないと言われた。


 戻ってきた時に話せばよいから、今すぐ立派な返事を書かなくていい。


 最後には、二つのカップを毎日洗っている、とあった。


 使っていないのに洗う必要はない。


 そう思った途端、文字がにじんだ。


 返事がなかったのではない。


 エルマは、待っていた。


「仲介所へ持っていく」


 ノエルが言った。


「それから、エルマさんにも知らせてもらう」


「元へ戻してください」


「嫌」


「見つかれば、今度こそ――」


「分かってる」


 ノエルはファステの言葉を遮った。


「物置の時は、何が起きるか考えないで勝手にやった。今は分かってる。それでも私が決めたの」


「ですが」


「ファステが決めることだけが、本人の意思になるの?」


 台所の入口で、器の触れ合う音がした。


 ベルタが立っていた。


 二通の手紙を見ても、驚いた声は出さなかった。


「町へ出す洗濯物は、日が傾く前に取りに来る」


「ベルタさん」


「セシリア様はその頃、いつも帳面を見るため奥へ行く」


 ノエルがうなずいた。


 ファステは二人を見た。


「お二人まで巻き込むわけにはまいりません」


「止めるなら」


 ベルタは卓上の茶器を示した。


「あんたが自分で、その手紙を持って帰りな」


 帰る。


 エルマの家へ。


 二つのカップがある卓へ。


 道は覚えている。半日歩けば着く。


 それなのに、自分がそこへ入る姿を最後まで思い浮かべられなかった。


 ファステは手紙を胸元へ抱いた。


 一度だけだった。


「なくさないでください」


 ノエルへ返す。


 行かないでくださいとは、言えなかった。


     ◇


 洗濯物を取りに来た荷車が、裏手へ止まった。


 ノエルは布の間へ二通の封書を入れた。


 籠を持ち上げた時、背後からセシリアの声がした。


「中を見せなさい」


 ノエルの肩が固まった。


 廊下の先には、セシリアが立っている。


 以前より、出入りする荷は細かく確かめられるようになっていた。


 布を一枚ずつ退けると、封書が現れた。


「執務机から持ち出したのね」


「私が決めました。ファステには頼まれていません」


 セシリアは二通を手に取った。


「奥様」


 ファステは前へ出た。


「なぜ、叔母からの手紙を私へ渡してくださらなかったのでしょうか」


 声が震えないよう、両手を重ねた。


「あなたのためです」


 セシリアは迷わず答えた。


「弁償も仕事も終わっていない時に、帰ってこいという手紙を読めば、責任と感情の間で苦しむでしょう。落ち着いてから渡すつもりでした」


「いつ、落ち着いたと判断なさるのですか」


「あなたが、もう一度正しい判断をできるようになった時です」


 正しい判断。


 それを決めるのは、誰なのだろう。


 自分で残ると答えた。


 自分で弁償を申し出た。


 けれど、自分が何を知り、いつ選び直してよいかは、セシリアだけが決めていた。


「ノエル」


 セシリアが呼んだ。


「主人の机から物を盗み、外へ持ち出そうとした者を置いてはおけません」


 ノエルの唇が白くなる。


「損害を支払い、今日中に出ていきなさい。紹介状は出しません」


 紹介状がなければ、次の仕事を探すのは難しくなる。


「私が頼みました」


 ファステは、考えるより先に言っていた。


「手紙を持ち出すよう、私が頼んだのでございます。責任は私が負います」


「それを認めるなら、ノエルの処分は考え直してもよいわ」


「嘘です!」


 ノエルの声が響いた。


「私は頼まれていません。私が取りました」


「ノエル、今は――」


「あなたが代わりに罰を受けても、私は助けられたことにならない!」


 ファステは動けなくなった。


「物置の時だって、私は助かったんじゃない。あなたが払って、働いて、閉じ込められるところをずっと見ることになった」


「ですが、あなたへの処分は」


「なくなってない。あなたに移っただけ」


 ノエルの目から涙が落ちた。


「あなたが私を守ろうとするたび、奥様は私を見せればあなたが言うことを聞くって分かった。だから、私を理由にもう戻らないで」


 守っているつもりだった。


 自分が代われば、ノエルは傷つかずに済むと思っていた。


 だが、ノエルは傷ついていた。


 ファステが耐えるほど、次に従わせる方法が増えていた。


「ファステ」


 セシリアが二本の鍵を差し出した。


「ノエルを物置へ連れていきなさい。外から鍵を掛けて、頭を冷やさせます」


 ファステは鍵を見た。


「あなたが正しく管理できると証明しなさい」


 断れば、別の者がノエルを連れていく。


 鍵も渡されない。


「承知いたしました」


 ファステは鍵を受け取った。


     ◇


 物置までの廊下を、ノエルと二人で歩いた。


「逃げて」


 ノエルが小さく言った。


 ファステは返事をしなかった。


 物置へ入る。


 小窓の留め具。積まれた箱。以前、雨が残した床の色。


 毎日見てきた場所だった。


「食事と水をお持ちします」


「そんなのいらない。ファステが――」


「必要です」


 ファステは外へ出て、扉を閉じた。


 鍵を掛ける。


 金属の音が、手の中へ伝わった。


 この命令には従わない。


 初めて、胸の中ではっきり言った。


 セシリアへは、ノエルは静かにしていると報告した。


「鍵を渡しなさい」


「夜の食事を運びます。朝には在庫の確認もございますので、私が持っていてもよろしいでしょうか」


 セシリアはしばらくファステを見た。


「ようやく、自分の責任が分かったのね」


「はい」


「では任せます」


 ファステは頭を下げた。


 それから、いつもどおりに働いた。


 ノエルの食事として、固いパンと水を用意する。ベルタはパンを一つ多く置いたが、何も言わなかった。


 洗濯場では、使用人通用口の金具が開くたび鳴っていた。


 作業台には油差しが出されている。


 ファステは布を運ぶついでに、ほんの少しだけ油を差した。


 夜番の灯りは、決まった頃に母屋の反対側へ移る。


 廊下には踏めば鳴る板がある。


 洗濯籠を運んでいても、誰も不思議に思わない道がある。


 どれも、毎日の仕事で覚えたことだった。


 自分用には、水と固いパン、布、小さな石鹸を用意した。


 自室の荷物を開く。


 エルマへ持ち帰るはずだった茶葉を手に取った。


 持っていきたい。


 けれど、荷は軽い方がよい。途中で水や食べ物を増やすこともある。


 茶葉を持っていても、生きて帰れなければ二人で飲めない。


 ファステは缶を荷物へ戻した。


 捨てるのではない。


 取り戻すために、今は置いていく。


     ◇


 夜番の灯りが母屋の向こうへ消えた。


 ファステは物置へ食事を運んだ。


 鍵を開けると、ノエルが扉のすぐ近くに立っていた。


「食べながら聞いてください」


「何を」


「洗濯場の通用口から出ます。町へ向かい、仲介所でマルタさんを訪ねてください」


 ノエルがファステの顔を見た。


「一緒に行くよ」


「二人同時では、すぐに気づかれます。ノエルが先に出てください。私は朝の支度を整え、発見を遅らせます」


「また残るの?」


「いいえ」


 すぐに答えた。


「仕事へ戻るためではございません。時間を作って、私も出ます」


「本当に?」


「あなたの代わりにはなりません。私も出ます」


 ノエルはパンを握ったまま、何度もファステの顔を見た。


 二人で洗濯場へ向かう。


 鳴る板を避け、灯りの届かない壁際を通った。


 布を入れた大きな籠をノエルへかぶせる。遠くから見れば、洗濯物を運んでいるように見える。


 通用口の金具は、音を立てずに開いた。


 外の暗がりへ出たところで、ノエルが振り返った。


「手紙は必ず仲介所へ」


「ファステが来なかったら、届けない」


「それでは困ります」


「だったら約束して」


 ファステは屋敷を見た。


 仕事が残っている。


 自分がいなければ、朝には困る者がいる。


 それでも、戻ってはいけない。


「戻りません」


 声は小さかった。


 ノエルはうなずき、町へ続く暗がりへ走った。


 ファステは一度、屋敷へ戻った。


 物置には、食べ終えた器と灯りを残す。扉を外から閉じれば、遠目にはまだノエルがいるように見える。


 朝の水差しを満たした。


 食材を出した。


 来客用の布をそろえた。


 仕事のためではない。


 異変に気づかれる時刻を遅らせ、自分も逃げるためだった。


 自室から食料と水を取り、洗濯場へ向かう。


 通用口が見えた時、背後で扉の開く音がした。


「いないぞ!」


 物置の方角から声が上がった。


 ファステは走った。


     ◇


 通用口を抜け、林へ向かう。


 敷地の境界までは、まだ距離があった。


 背後から複数の足音が迫る。


「止まれ!」


 ファステは止まらなかった。


 腕をつかまれ、地面へ倒された。


 息が抜ける。


 起き上がる前に両手を背へ回され、細い縄が手首へ食い込んだ。


「ノエルはどこへ行った」


 答えなかった。


「聞いている!」


 黙ったまま、土の上へ指を押しつけた。


 命令へ返事をしなかったのは、初めてだった。


「町だ。何人か追え」


 足音が二つ、街道の方角へ離れていく。


 残った一人がファステの腕を引いた。


「戻るぞ」


 最短なら中庭を通る。


 そこへ出れば夜番に知られ、見張る者が増える。


「息が……」


 ファステは歩みを止めた。


「何だ」


「洗濯場からでしたら、人を起こさずに戻れます」


 相手は舌打ちした。


 ファステが騒ぎを避け、戻ることを受け入れたと思ったのかもしれない。


「歩け」


 進路が変わった。


 洗濯場の脇には、古い干し台がある。


 下部の金具がささくれ、布を傷めるため、いつも端布を巻いていた。交換するたび、どこが最も鋭いかを指で確かめている。


 そこへ近づいた時、ファステは足をもつれさせた。


 背中から倒れ、縛られた手を金具へ押し当てる。


「立て」


 腕を引かれた。


 縄は切れていない。


 数歩進み、もう一度膝を折る。


「お前――」


「申し訳、ございません」


 起こされる短い間だけ、同じ場所を金具へ擦りつけた。


 手首が熱く痛んだ。


 三度目に体重を預けた時、縄の表面がほつれた。


 結び目に、わずかな隙間ができている。


 ファステは袖に隠した小さな石鹸へ指を伸ばした。


 石鹸を縄と皮膚の間へ押し込む。


 滑りができた。


 相手が腕を取ろうとした瞬間、片手を強く引いた。


 皮膚が擦れ、縄から手が抜ける。


「待て!」


 近くの洗濯籠を蹴り倒した。


 干してあった濡れた布を引き、二人の間へ落とす。


 相手が布を払っている間に、ファステは走った。


「戻れば、まだ許してもらえるぞ!」


 背後から声が追う。


「ノエルのことも軽くしてもらえる! 聞こえているのか!」


 足が一度だけ止まりかけた。


 自分が戻れば、ノエルが助かる。


 何度も、その方法を選んできた。


 あなたが代わりに罰を受けても、私は助けられたことにならない。


 ノエルの声を思い出す。


 ファステは振り返らなかった。


「戻りません」


 自分にだけ聞こえる声で言った。


 敷地の境界を越える。


 ノエルが向かった町とは反対の林へ入った。


 追う者を、少しでも分けなければならない。


 手首には、縄が食い込んだ跡が残っている。地面へ倒された腕も痛んだ。


 安全な場所は見えない。


 ノエルが仲介所へ着いたかも、エルマが手紙を受け取れるかも分からない。


 それでも、自分で屋敷の外へ出た。


 背後で灯りが増えた。


 何人もの声が、自分の名を呼び始める。


 ファステは林の奥へ踏み込んだ。


 戻りません。


 今度は声にせず、走り続けることで答えた。

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