第6話 自分で選んだ方へ
林へ入っても、屋敷の灯りは消えなかった。
ファステは町とは反対へ走った。柔らかな土を選び、足跡を深く残す。
追う声がそちらへ寄ったのを確かめてから、浅い流れへ入った。冷たい水が靴へ染みる。流れの中を進み、途中で斜面へ上がった。
町へ向かったノエルから、少しでも人を遠ざける。
以前のように、代わりに捕まるためではない。
ノエルも、自分も、逃げ切るためだった。
手首から血がにじんでいた。ファステは持ってきた布を裂き、水で汚れを落として巻いた。
パンは半分だけ食べた。水も口を湿らせる程度にする。
二つのカップを毎日洗っている。
エルマの文字を思い出した。
帰りたい。
初めて、はっきりそう思った。
屋敷へ戻るのではない。エルマのいる家へ帰りたい。
だが今は、どちらへ進めばよいのかも分からない。
後ろから声が近づいた。
ファステは水辺を離れ、暗い斜面へ入った。
◇
夜が薄くなる頃、窪地で小さな流れを見つけた。
濁った岸を避け、流れの速い場所から水を飲む。
食べられる根と木の実もあった。知らない草には触れず、分かる物だけを選ぶ。火は起こせない。煙を見られる。
屋敷では、いつも人数を先に数えた。
今は一人分でよい。
それでも木の実を半分残そうとして、手が止まった。
分ける相手はいない。
自分が食べなければ、残る者もいない。
ファステは一つずつ口へ運んだ。全部は食べられず、残りを布へ包んだ。
横倒しになった太い木の陰で身体を小さくする。
眠ってはいけないと思った。
けれど、目を開けた時には日が高くなっていた。
◇
「ファステ!」
遠くから名を呼ばれた。
「戻れば許してもらえる! ノエルはもう捕まったぞ!」
胸が強く鳴った。
真実かもしれない。
自分が戻れば、ノエルへの責任は軽くなるかもしれない。ベルタも問い詰められずに済む。
声の方へ、一歩だけ足を向けた。
今度は私が決める。
私を理由に、もう戻らないで。
ノエルの声が残っていた。
捕まったと決めつけ、ノエルが選んだことを自分の罪悪感で取り消してはいけない。
ファステにできるのは、約束を守ることだけだった。
返事をせず、斜面を下る。
大きな岩を回ったところで、人影が現れた。
逃げようとした足がもつれた。
腕をつかまれ、別の者に進路を塞がれる。
今度は、逃げ切れなかった。
◇
両手首を前でまとめられ、太い木へつながれた。
布の上から縄を掛けられても、傷は痛んだ。
追っ手たちは、森へ散った仲間が戻るのを待った。
ファステが目を覚ました時には高かった日が、木々の向こうへ少しずつ沈んでいく。
人の声が戻るたびに顔を上げたが、その中にノエルを連れた者はいなかった。
やがて幹の間から差していた光が消え、森にもう一度、夜が来た。
「夜が明けたら戻る」
追っ手の一人が言った。
「謝れば済む。奥様はお前を必要としている」
戻れば水がある。食事もある。手首の手当ても受けられる。
仕事へ戻れば、次に何をすればよいか迷わなくて済む。
「ノエルは……」
ファステは初めて尋ねた。
「町へ向かった者は、まだ戻っていない」
先ほどの声は、確かな報告ではなかった。
安堵してよいのかも分からない。
追っ手から水を与えられたが、縄は解かれなかった。
夜が長く続いた。
手首は腫れ、指先の感覚が薄くなる。
縄を切る物はない。力を入れても、木へつながれた部分は外れない。
ファステは目を閉じた。
二つのカップ。
ノエルと交わした約束。
仲介所で待っていると言ったマルタ。
眠りかけるたびに思い出した。
追っ手は、暗い斜面を避け、明るくなってから緩い道で戻る相談をしていた。
ここへ連れてこられる前、柔らかな土の先に急な斜面があった。途中には横倒しの木があり、下には低木が密集していた。
落ちれば怪我をする。
それでも、屋敷へ続く道ではない。
夜が明け、木につながれた縄が外された。
手首は縛られたまま、そこから延びた綱を一人が持つ。
「歩け」
ファステは、抵抗を諦めたように立ち上がった。
◇
屋敷へ向かう道を歩きながら、ファステは地面だけを見ていた。
柔らかな土が現れる。
その先は、追っ手たちが避けた急斜面だった。
ファステは縁へ足を置いた。
土が崩れる。
「おい!」
身体が斜面へ落ちた。
綱が張り、追っ手も前へ引かれる。
相手は斜面へ落ちる直前に、引き綱を放した。
肩が横倒しの木へ当たる。
息が止まり、次に低木へ落ち込んだ。枝が服を裂き、腕へ擦り傷を作る。
上から声がした。
追っ手はすぐには下りられない。
ファステは手首を縛られたまま立ち、斜面の下を走った。
浅い流れへ入る。縄が水を吸い、泥で滑る。
歯と指で結び目を動かした。
一度では外れない。
声が近づくたび走り、遠ざかると縄へ指を入れた。
ようやく片手が抜けた時、皮膚は赤く腫れていた。
水もパンも、捕まった木のそばへ置かれたままだった。
何も持っていない。
朝露を口にし、知っている木の実を食べる。
大きな岩。水音。傾斜した地面。横倒しの太い木。木々が薄くなった場所。足が沈むほど柔らかな土。
人の通る道らしい場所も横切った。
追っ手を避けるたび、方向を変えた。
どれを先に通ったのか、分からなくなった。
いつ眠ったのかも覚えていない。目を開けると、土の上に横たわっていた。
服には泥がつき、髪は枝に引かれてほどけている。
腕には、倒れた時や木へぶつけた時の痣が増えていた。
食べられる根を見つけたが、泥を落として少し口にするだけで走り出した。
どちらに屋敷があるのか。
どちらに町があるのか。
もう分からない。
それでも、後ろから聞こえる声とは反対へ進んだ。
◇
呼吸が整わない。
足が何度ももつれた。
ファステは後ろを振り返りながら、走ろうとした。
複数の声が近づいている。
「戻れ!」
「これ以上、皆へ迷惑をかけるな!」
前方には、向こう側の見えない茂みがあった。
横へ行けば木々は薄い。進みやすいが、追う者からも見つかりやすい。
茂みの向こうには、何がいるか分からない。
獣かもしれない。
追っ手の仲間かもしれない。
誰かがいたとしても、助けを求めれば迷惑をかける。
足が止まりかけた。
エルマがどうしているか分からない。
ノエルが仲介所へ着いたかも分からない。
マルタもベルタも、自分が逃げたことで責められているかもしれない。
罪悪感は、消えなかった。
それでも戻れば、ノエルが選んだことまで、なかったことになる。
自分で扉を開け、屋敷を出たことも、セシリアの許しがなければ間違いだったことにされる。
安全だから進むのではない。
自分で選んだ方だから、進む。
ファステは手首を袖で隠そうとした。破れた袖では、赤黒い跡を覆えなかった。
茂みの向こうから、小さな気配がした。
人か、獣か、分からない。
背後の声がさらに近づいた。
ファステは元来た方を見なかった。
茂みへ踏み込む。
枝が腕へ当たり、乱れた髪へ絡んだ。
足元の太い枝を避けきれない。
枝が折れた。
ここから第一話へ続きます




