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このスキル、やばスギル。【ファステ・フェルンの来歴譚】~1話目合流まで~  作者: 明日乃風


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第4話 置いていただくために



 荷物は、昨夜のうちにまとめてあった。


 着替えが一組。


 エルマへ渡すために買った茶葉。


 それから、まだ中身を入れられていない小さな財布。


 賃金を受け取るのはもう少し先だった。それでも、茶葉だけは持って帰れる。


 一日遅れてしまった分まで、叔母とゆっくり話そう。


 ファステは寝台の端へ置いた荷物を見てから、最後の仕事へ向かった。


 朝食用のパンを数え、台所の水差しを満たす。来客用の布を確認し、物置の記録へ昨日使った品を書き加える。


 ここまで終えれば帰れる。


 そう思って記録板を元の位置へ戻した時、廊下からベルタの声がした。


「ファステ、ちょっと来て」


 声が低い。


 ファステはすぐに物置の奥へ向かった。


 床に、細い水の跡が伸びていた。


 壁際の木箱は片側だけ色が濃くなっている。蓋を開けると、中に敷かれた布まで湿っていた。


「昨夜の雨だね」


 ベルタが小窓を指した。


 留め具が、溝へ半分しか入っていない。閉じたように見えても、風を受ければ隙間が開く位置だった。


 ファステは濡れた箱の中身を一つずつ取り出した。


 乾かせば使える布。包みを替えれば残せる香草。水を吸い、もう客へは出せない菓子。


 明日渡す予定だった保存果実の瓶にも、水が回っている。


「私が、最後に確認いたしました」


 ファステは壁の記録板を見た。


 最終確認の欄に、自分の印がある。


 昨夜は、セシリアに頼まれた品を探しに来た。その前にも後にも仕事があり、小窓を見た記憶までは残っていない。


「全部出すよ」


 ベルタが袖をまくった。


「使えるものまで駄目にすることはない」


「はい」


 二人で箱を運び出していると、マルタが来た。その後ろにセシリアもいる。


 セシリアは濡れた品と小窓を見て、最後に記録板へ目を向けた。


「あなたが確認したのね」


「はい」


「本当に?」


 問い返され、ファステは記憶を探った。


「物置へ来たことは覚えております。ただ、小窓を確かめたかは……申し訳ございません」


「今日は休みだったでしょう」


「こちらが終わり次第、帰る予定でございます」


「これを残して?」


 責める声ではなかった。


 だからこそ、ファステはすぐに首を横へ振った。


「いいえ。使えるものを分け、必要な品を手配してから参ります」


「私が残る」


 マルタが言った。


「物置は私の管理下です。ファステは昨日も休みを返上しました。今日は予定どおり帰します」


「任せていたのはファステよ」


「任せた者が休めないのであれば、それは分担とは申しません」


 セシリアは少し黙った。


「昼までに済むかしら」


 その質問はファステへ向けられていた。


 傷んだ品の数。町まで使いを出す時間。残った物で代わりを用意できるか。


 頭の中で順番を組み直す。


「済ませます」


「そう。では、お願い」


 ファステはうなずいた。


 エルマへもう一度、伝言を送った方がよい。


「奥様。町へ使いが出るのでしたら、叔母へ――」


「原因が分かってからにしましょう」


 セシリアは濡れた保存果実の瓶を見た。


「また日を違えたら、かえって心配させるわ。帰れる日が決まってから、正しいことを知らせなさい」


「……はい」


 それも配慮なのだろう。


 ファステはそう考え、自室へ戻った。


 玄関近くまで運んでいた荷物を、寝台の端へ置き直す。


 昼に帰れば、夜には着く。


 仕事が片づけば帰れる。


 今度は日を決めず、ファステは扉を閉めた。


     ◇


 昼を過ぎる前に、代わりの品はそろった。


 濡れた布は広げ、傷んだ食べ物はベルタと確かめて除いた。残せる香草は包み直し、記録へ理由を添えた。


 小窓の留め具には薄い布を結んだ。最後まで掛かっていなければ、布の端が外へ出る。離れた場所からでも分かるようにした。


「ここまでね」


 マルタが記録板を閉じた。


「あとは私がセシリア様へ報告します。食事を取って、帰りなさい」


「はい」


 返事をした直後、入口で何かが落ちた。


 ノエルが立っていた。


 足元に、空の洗濯籠が倒れている。


「どうしました?」


 ファステが近づくと、ノエルは一歩下がった。


「昨日、最後にここへ入ったの、私」


「ノエルが?」


「布を取りに来た。窓も見た。閉めたつもりだった」


 ノエルは記録板を見た。


「あなたの印があったから、そのままにした。私が見たって書かなかった」


 ファステは昨夜を思い返した。


 品を探し、数を確かめ、包みに傷がないかを見た。小窓へ近づいた記憶がないのは、ノエルが先に確認を終えていたからだった。


「なぜ、言わなかったのですか」


「一人でもできるって思ったから」


 ノエルの声が震えた。


「いつもファステが最後に見る。私の仕事なのに、ファステが見て、それで間違いがなかったことになる。だから昨日は、私だけで終わらせたかった」


 言葉が途切れる。


「ごめんなさい」


 ファステは、すぐに返事ができなかった。


 自分が手伝えば、ノエルは安心すると思っていた。


 確認を増やせば、失敗は減ると思っていた。


 けれど、ノエルは手伝われるたび、自分だけでは任せてもらえないと感じていたのかもしれない。


「私も、聞くべきでした」


「違う。私が勝手に――」


「二人とも、セシリア様の前で話しなさい」


 マルタの声は厳しかったが、怒鳴りはしなかった。


 隠したままにしてはいけない。


 三人でセシリアの部屋へ向かった。


 ノエルは同じ説明をした。


 セシリアは最後まで遮らずに聞いた。


「失敗より、黙っていたことの方が問題です」


「はい」


「あなたはしばらく、物置と来客用の洗濯物から外します。代わりに、中庭と裏庭の清掃をなさい」


 ノエルの指が、スカートの布をつかんだ。


 屋外の清掃は範囲が広い。洗濯と部屋の掃除を覚えてきたノエルには、自分の仕事を取り上げられることでもある。


「お待ちください」


 ファステは前へ出た。


「最終確認の欄には、私の印がございました。私が小窓まで確かめていれば、防げたことでございます」


「あなたはノエルが入ったことを知らなかったのでしょう」


「それでも、任されていたのは私です」


「だから一人へ任せすぎたと言っているのです」


 マルタが言った。


「確認できない量を持たせ、確認できなかったことだけを本人たちの責任にはできません」


「では、誰も責任を取らない家にしろと?」


 セシリアの声から、柔らかさが消えた。


「失った物は戻らない。黙っていたこともなくならない。仕組みが悪かったと言えば、何をしても許されるのですか」


「許すことと、同じ過ちを起こさないことは別です」


「奥様」


 ファステは二人の間へ声を入れた。


「傷んだ品は、私の賃金からお引きください。不足する仕事も私が行います。ですから、ノエルの担当は変えないでいただけませんか」


「ファステ!」


 マルタが振り向く。


 セシリアは、ファステだけを見た。


「あなたが自分で、そうしたいと思うの?」


 以前にも聞かれた言葉だった。


 自分で決めてよいのだと、安心した言葉だった。


 今は、その問いの向こうでノエルが震えている。


「はい」


「損害を負い、仕事を引き受ける意味は分かっている?」


「分かっております」


「なら、その判断を尊重します」


 セシリアはノエルへ向き直った。


「あなたへの処分は取り消します。ファステが負った責任を忘れないように」


 ノエルは顔を上げた。


「でも、それは――」


「大丈夫です」


 ファステは先に言った。


「私にも責任がございますから」


 大丈夫かどうかを考える前に、ノエルの処分がなくなったことへ安堵した。


     ◇


 翌日、廊下の先から声が聞こえた。


 セシリアとマルタだった。


「本人が申し出たのです」


「申し出れば、何でも受け入れてよいわけではありません」


「自分の意思を尊重してほしいと、あなたも何度も言ったでしょう」


「以前できると言ったことと、今も続けられることは同じではありません」


 ファステは足を止めた。


 立ち聞きをするつもりはなかった。


 けれど、自分のことだと分かってしまった。


「ファステは、自分で仕事を望みました。任せてほしいと答え、結果も出した。今回も自分で責任を選んだのです」


「あの子に選ばせれば、自分より先に全員の負担を数えます。それを知ったうえで尋ねるのは、選ばせていることになりません」


 ファステの胸が縮んだ。


 自分がもっと上手にできていれば、二人が争うことはなかった。


「使用人の配置を決めるのは私です」


「ですから、私は家政長として、今の配置では続かないと申し上げています」


「なら、もう家政長として任せることはできません」


 しばらく、何の音もしなかった。


「そうですか」


 マルタの声は静かだった。


「では、今日で辞めさせていただきます」


 ファステは廊下へ出た。


「お待ちください」


 二人がこちらを見る。


「私のことでございましたら、私は問題なく――」


「一緒に出る気はある?」


 マルタは真っすぐ尋ねた。


 エルマの家まで続く道が、頭に浮かんだ。


 寝台の上には荷物がある。茶葉も入っている。


 今から出れば、夜までには帰れる。


 だが、傷んだ品の弁償は終わっていない。ノエルの処分は、ファステが引き受けることで取り消された。マルタまでいなくなれば、残る仕事はベルタたちへ回る。


「まだ、終えていない仕事がございます」


「仕事は明日も増えるよ」


「賃金も、まだ受け取っておりません」


「それを理由に残るなら、いつまでたっても出られない」


「私は、必要としていただいております」


 言葉にすると、それが最も正しい理由に思えた。


「ですから、大丈夫です」


 マルタは目を閉じた。


「ここに置いてもらうために、全部できる者になる必要はないんだよ」


 エルマにも似たことを言われた。


 できることを全部引き受けないこと。


 けれど、今は自分が引き受けなければ、誰かが責められる。


「町の仕事を取り次いだところを覚えているね」


「はい」


「何かあれば、そこへ来なさい。私も今回のことを伝えておく」


 セシリアは止めなかった。


「どうぞ。ファステが自分で決めたことです。尋ねられれば、本人もそう答えるでしょう」


 マルタは返事をせず、ファステを見た。


「その『大丈夫』を、私は信じていないよ」


 その日のうちに、マルタは屋敷を去った。


 玄関の扉が閉まる音を聞いた時、ファステは追いかけたいと思った。


 だが、手には翌日の仕事を書いた紙があった。


 マルタがいなくなった分まで、順番を決めなければならない。


 外には、助けを求められる場所がある。


 そう思うと少しだけ息がしやすくなった。


 ファステはその安堵を胸の奥へ置き、最初の仕事へ線を引いた。


     ◇


 新しい家政長が決まるまで。


 初めに聞いたのは、その言葉だった。


 数日が過ぎても、代わりは来なかった。


「今、別の者へ渡せば混乱するでしょう」


 セシリアは記録をめくりながら言った。


「あと数日だけお願い。あなたなら分かっている仕事ですもの」


「はい」


 数日後には来客の予定が入った。


「これが終わるまでは、配置を変えない方がよいと思うの」


「はい」


 来客が帰る頃には、保存食の仕込みが始まった。


 その次には寝具を替える日が来た。


 仕事には終わりがある。


 けれど、一つが終わる前に、次の終わりが示された。


 ファステは約束を破られたとは思わなかった。


 屋敷には予定があり、誰かが行わなければならない。新しい者が来れば、教える時間も必要になる。


 今だけは、自分がする方が早い。


 賃金からは、傷んだ品の代金が差し引かれた。


 それが終わる頃、仕事着と食事の費用が書き加えられた。傷んでいないと思っていた包みからも、後になって使えない品が見つかったという。


 計算を見せてほしいと思った。


 だが、セシリアは自分を信じて仕事を任せてくれた。


 その信頼を失ったのは自分である。


 疑うようなことを言えば、戻りかけた信頼をまた遠ざける気がした。


 尋ねないまま、ファステは紙へ受け取りの印をつけた。


 町から人が来たのは、それからさらに何日か過ぎた頃だった。


 最初に仕事を紹介した女性とは別の者だったが、同じ仲介所から来たという。


「マルタさんから、最初に聞いていた条件と違ってきていると相談がありました」


 応接室にはセシリアもいた。


「確認していただいて構いません」


 セシリアは穏やかに答えた。


「私はファステを引き留めてはいません。損害への責任も、本人が申し出たものです」


 仲介所の者がファステを見た。


「仕事を無理にさせられていますか」


「いいえ」


「辞めたいと伝えて、拒まれたことは?」


「ございません」


 辞めたいと、まだ言ったことはない。


「今、ここを辞めたいですか」


 ファステは答えようとして、ノエルを見た。


 扉の外で、来客用の布を抱えている。目が合うと、ノエルは怯えたように首を横へ振った。


 辞めてほしくないという意味なのか。


 自分のために残らないでほしいという意味なのか。


 分からなかった。


 ただ、自分が去れば、取り消された責任がどこへ戻るかは分かった。


「自分で残っております」


「本当に?」


「はい。問題はございません」


 仲介所の者はすぐには立たなかった。


「マルタさんは、こちらで待っています。考えが変わったら、いつ来ても構いません」


「ありがとうございます」


 助けが来たのだと、ファステは分かっていた。


 そして、自分で断った。


 これで誰も困らない。


 そう思ったのに、胸の中には何も残らなかった。


 担当者が帰ると、セシリアは小さく息をついた。


「外の者へ誤解を与える書き方は、これから控えなさい」


「私が、何か書いたのでしょうか」


「マルタへ話したつもりがなくても、心配させる振る舞いをしたのでしょう。あなたは必要とされて、望んでここにいる。それが正しく伝わらなければ、皆が迷惑を受けます」


「申し訳ございません」


 それから手紙は、屋敷の使いへ預ける決まりになった。


 ファステはエルマへ、帰れないことを書いた。


 仕事が終わらないこと。


 今月も賃金を渡せないこと。


 けれど、セシリアは読み終えると、紙を返した。


「これでは、叔母様を不安にさせるわ」


「ですが、事実でございます」


「あなたは罰として働かされているの?」


「いいえ」


「賃金を奪われたの?」


「弁償と、必要な費用でございます」


「なら、誤解されないように書きなさい」


 ファステは新しい紙を受け取った。


 仕事を任され、元気にしている。


 落ち着いたら帰る。


 それだけを書いた。


 返事は来なかった。


 手紙が届いたかは分からない。


 エルマも仕事がある。目を休めながら縫えば、返事を書く時間がないこともあるだろう。


 何度も書かせてはいけない。


 ファステはそう考え、次の手紙を出さなかった。


 寝台の端にあった荷物は、いつしか棚の下へ移っていた。


 中には、茶葉が残っている。


 次に帰る日まで取っておこうと蓋を閉じる。


 その日があといくつ眠れば来るのか、もう思い浮かばなかった。


     ◇


 ファステは、誰かに呼ばれる前に仕事を見つけるようになった。


 食事は座って取った。


 ただし、最後まで座っていることはなくなった。


 パンを食べながら翌日の順番を考え、飲み物を半分残して立つ。


「ここは私がします」


 ノエルが言うこともあった。


「では、お願いいたします」


 任せた後も、ファステは離れた場所から確かめた。


 ノエルが気づくと、二人とも何も言わなかった。


 セシリアの足音がすると、ノエルはファステから離れた。


 何度目の延期か、ファステは数えなくなっていた。


 ある夜、仕事を終えた後に自室へ戻り、棚の下の荷物を開けた。


 茶葉の隣に、書き直す前の手紙を隠していた。


 仕事で帰れない。


 賃金を渡せない。


 それでも元気にしているから、心配しないでほしい。


 最後の一文だけは、書き直した手紙と同じだった。


 これを自分で届けよう。


 夜のうちに町まで行くことはできない。だが、街道へ出れば、朝早く町へ向かう荷車へ預けられるかもしれない。


 仕事はすべて終えた。


 届けたら、すぐに戻る。


 逃げるのではない。


 ファステは手紙を服の内側へ入れ、裏口へ向かった。


 夜の屋敷では、小さな音もよく響く。


 人が踏めば鳴る板。風で揺れる窓。閉めると金具が鳴る扉。


 毎日使う場所だから、どこを通れば静かなのかは分かっていた。


 裏口の鍵へ手を伸ばす。


「何をしているの」


 背後から声がした。


 ファステの指が止まった。


 セシリアが灯りを持って立っていた。


「叔母へ、手紙を届けようと思いまして」


「誰の許可を得て?」


「仕事は終えております。街道まで行き、預けた後はすぐに戻ります」


「仲介所の者には、自分で残っていると言ったでしょう」


「はい。辞めるつもりはございません」


「それなのに、黙って出ていくのね」


「手紙を届けるだけでございます」


「見せなさい」


 ファステは服の内側から紙を出した。


 セシリアへ渡そうと腕を伸ばす。


 手首をつかまれた。


 強い力だった。


 紙が指から落ちる。


「奥様、痛――」


 言葉を最後まで出す前に、ファステは口を閉じた。


 無断で出ようとしたのは自分である。


「申し訳ございません」


「あなたは、自分の立場が分かっていないのね」


「戻るつもりでございました」


「戻ると言えば、何をしても許されると思っているの?」


 足音が近づいた。


 ノエルとベルタが、廊下の角から現れた。


 セシリアはようやく手を離した。


「ファステを部屋へ」


「奥様?」


 ノエルが聞き返した。


「今夜は休ませます。衝動で外へ出ないよう、扉は外から閉めておきなさい」


「そんなこと――」


「この者がいなくなれば、物置の損害と残された仕事を誰が負うと思うの」


 ノエルの顔から色が消えた。


「大丈夫です」


 ファステはノエルへ言った。


「朝まで休むだけです。お願いいたします」


「でも」


「私が無断で出ようとしたのです」


 セシリアが床の手紙を拾った。


「これは預かります」


 ファステは、自分で部屋へ戻った。


 ノエルは最後まで扉の外に立っていた。


「ごめんなさい」


「なぜ、ノエルが謝るのですか」


「私があの時、余計なことをしなければ」


「もう終わったことです」


「終わってない」


 ノエルの声が細くなる。


「何も、終わってないよ」


 扉が閉まった。


 外側で、鍵が動く音がした。


 ファステは取っ手へ触れた。


 回しても、扉は開かない。


 助けを呼ぼうとは思わなかった。


 朝まで大人しくしていればよい。


 自分が騒がなければ、ノエルは責められない。


 手首には、指の形に赤い跡が残っていた。


 そこへ触れると痛んだ。


 それよりも、またノエルを責任の前へ立たせてしまったことの方が苦しかった。


     ◇


 朝になると、扉は開いた。


 廊下にはセシリアがいた。


「落ち着きましたか」


「はい。ご迷惑をおかけいたしました」


「私は、あなたを罰したかったのではありません」


 セシリアはいつもの穏やかな声で言った。


「衝動で仕事を捨てれば、後であなたが困ると思ったのです。一晩休んで、考える時間を与えました」


「私は、捨てるつもりでは――」


「なら、行動で示せばよいでしょう」


 ファステは口を閉じた。


「経験のなかったあなたを雇い、仕事を教え、任せてきました。失敗した後も、ここへ置いています」


「はい」


「ここを出ても、これほどあなたを必要とする家はありません。あなたも、それは分かっているはずです」


 必要とされている。


 以前は、胸が温かくなる言葉だった。


 今は、背中を押されているのか、退く場所を塞がれているのか分からなかった。


 帰る家はある。


 二つのカップも、エルマも待っている。


 けれど、渡すはずの賃金はない。屋根を直す金もない。連絡もせず帰れば、叔母へ新しい負担を持ち帰ることになる。


 ここで弁償を終え、信頼を戻せばよい。


 もっと役に立てば、また休みをもらえる。


「仕事へ戻らせていただけますか」


 ファステは自分から言った。


 セシリアは満足したようにうなずいた。


「ええ。あなたなら分かってくれると思っていました」


 台所へ行くと、ベルタがファステの手首を見た。


 赤かった跡は、薄い紫色へ変わっている。


「今日は休みな」


「大丈夫です」


「まだ何も聞いてないよ」


 その言葉は、エルマが朝に言った言葉と同じだった。


 以前なら、ファステも笑っていた。


「本当に、大丈夫でございます」


 布を巻き、袖口で隠す。


 ベルタは何か言おうとしたが、廊下から呼ぶ声がして、ファステは先に台所を出た。


 夜、仕事が終わった後に一人分の紅茶を淹れた。


 茶葉の量は間違えていない。


 カップも先に温めた。


 湯を注ぎ、長すぎない時間で茶葉を上げた。


 ひと口飲む。


 薄いのか、濃いのか分からなかった。


 もう一度飲んでも、自分が好きな味なのか思い出せない。


 淹れ方を変えようとは思わなかった。


 空になるまで飲み、カップを洗う。


 手首を覆う布が濡れないよう、袖を押さえた。


 明日の仕事は、まだ頼まれていない。


 それでも、朝になれば必要になる物は分かっている。


 食材を出す。


 水を満たす。


 来客用の布を確かめる。


 物置の小窓を見る。


 先に終えておけば、誰も困らない。


 もっと役に立てば、信頼を戻せる。


 役に立ち続ければ、ここへ置いていただける。


 ファステは灯りを持ち、誰にも頼まれていない仕事へ手を伸ばした。


 大丈夫です。


 今度は声にせず、胸の中だけで繰り返した。

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