第3話 任せれば間違いない
十日後も、二つのカップは同じ場所にあった。
「ただいま戻りました」
「お帰り」
エルマはファステの顔を見たあと、手と足元へ視線を移した。
「何でしょう」
「痩せていないか見ている」
「十日で、そのようには変わりません」
「疲れてはいるね」
ファステは答える前に、自分の脚を見た。
半日歩いたからではない。
屋敷で働き始めてから、夜になると足が重くなる。
「覚えることが多かったので」
「嫌だった?」
「いいえ」
今度は迷わず答えられた。
ファステは持ち帰った包みを開いた。
賃金の一部。
屋根を直すための釘。
少しだけ新しい茶葉もある。
「先に座りなさい」
「お湯を沸かしてからでも」
「歩いて帰ってきた人が、どうして着いた途端に働くんだい」
エルマが椅子を引いた。
ファステは少し考え、包みを卓上へ置く。
「では、お湯を沸かす間だけ」
「茶を飲む間もだよ」
「分かっています」
二人で湯が沸くのを待った。
叔母の家では、火の音がよく聞こえる。
屋敷の台所では、鍋の音、人の声、運ばれる食器の音が絶えない。
静かな家へ戻ると、自分が思っていたより疲れていたことに気づいた。
湯が沸く。
ファステは二つのカップを温め、茶葉へ湯を注いだ。
「向こうでも、毎日しているのかい」
「お客様がいらっしゃる時に」
「自分の分は?」
「使用人の食事にも、お茶はございます」
「あんたが淹れるの?」
「それはベルタさんが」
「なら、今日はあんたの茶だね」
ファステは二つのカップへ交互に注いだ。
エルマの前へ、欠けていない方を置く。
補修した方を自分の席へ運ぶ。
洗い物へは行かなかった。
茶が温かいうちに、向かいへ座った。
「話しておくれ」
何から話すかは、帰り道で決めていた。
洗濯籠へ色の違う布を結んだこと。
ノエルが皆へ使い方を伝えてくれたこと。
肉が届かなかった日に、ベルタと残りの食材を使ったこと。
根菜を薄く切りすぎ、教えられて直したこと。
初めて扱う茶葉を、セシリアの好みに合わせて淹れたこと。
「よく気のつく娘だと、褒めていただきました」
「嬉しかった?」
「はい」
「そうかい」
エルマは茶を飲んだ。
「それで、食事は」
「皆さまと同じだけいただいております」
「座って?」
「はい」
「温かいうちに?」
「叔母様」
「大切なことだよ」
「温かいうちにいただきました」
エルマはようやく満足した。
「ノエルさんが、一緒に間違えたら直せばよいと言ってくださいました。マルタさんも、全部を一人で直す必要はないと」
「いい人たちだね」
「はい」
十日分の話は、カップ一杯では終わらなかった。
お湯を足し、残った茶葉でもう一度だけ淹れる。
薄くなったが、ファステはその味も嫌いではなかった。
「次は、また十日後です」
「茶葉がなくても帰っておいで」
「今日、買ってまいりました」
「それを向こうで使ってしまっても、という話だよ」
「残しておきます」
「あんたは、そういうところだけ頑固だね」
エルマは笑った。
ファステも笑い、自分のカップを両手で包んだ。
◇
屋敷へ戻ると、仕事は待っていた。
洗濯籠の印は、もう誰も確かめなくても使われている。
物置では、先に使う食材と保存する食材が分けられている。
在庫を記した紙を見れば、何が足りないか分かる。
以前より、仕事はしやすくなった。
そのはずだった。
「ファステ、これを見てください」
朝はマルタから、物置の記録を渡された。
「ファステ、夜の根菜なんだけど」
台所へ行けば、ベルタから食材を見せられた。
「ファステ、この布はどっち?」
廊下では、洗濯物を運ぶ使用人に呼び止められる。
どれも難しくない。
場所を覚え、決めた方法を知っているから答えられる。
ファステは一つずつ確認した。
物置へ向かう途中で、根菜を見る。
台所から戻る時、洗濯籠を確かめる。
来客の予定を聞き、茶葉の量も記録する。
「少し、集まりすぎていますね」
マルタに言われた。
「何がでしょう」
「あなたへ尋ねる仕事です」
「私が分かることでしたら、お答えいたします」
「分かる者が一人では困ります」
マルタは在庫の紙を指した。
「これは私も見ます。食材はベルタ。洗濯はノエル。最終的な判断まで、すべてあなたがする必要はありません」
「ですが、皆さまが今の分け方に慣れるまでは」
「慣れるためにも、本人たちへ聞かせるのです」
正しいと思った。
それでも、呼ばれれば答えた方が早い。
「ファステ」
セシリアの声がした。
来客用の部屋には、使い終えた茶器が残っていた。
「今日のお茶も、よかったわ」
「ありがとうございます」
「前より、香りが長く残るようになったでしょう?」
「茶葉を蒸らす時間だけでなく、カップを温める時刻も変えました」
「そう。私は何も言っていないのに」
セシリアは空になったカップを見る。
「あなたに任せれば間違いないわね」
その言葉は、これまでのどの褒め言葉より嬉しかった。
自分の判断まで、信じてもらえた。
「今後も、お任せください」
ファステが答えると、セシリアは満足そうにうなずいた。
◇
来客用の布に、小さな染みが残っていた。
端に近い。
広げなければ見えない場所だった。
「申し訳ありません」
ノエルが頭を下げる。
「確認したつもりだったのですが」
「つもりでは、客人へ出せないでしょう」
セシリアの声は強くなかった。
それがかえって、ノエルの肩を固くした。
来客まで時間がない。
「代わりの布がございます」
ファステは物置へ向かった。
同じ大きさのものが、予備の棚にあった。
取り出して状態を確認し、マルタへ見せる。
「こちらでよろしいでしょうか」
「問題ありません」
布を交換する。
間に合った。
セシリアは新しい布を見たあと、ノエルへ向き直った。
「ファステなら、先に気づいていたでしょうね」
「はい。申し訳ありません」
「責めているのではないの。あなたも、次から同じように確かめればよいでしょう」
「はい」
セシリアは部屋を出ていった。
ノエルは染みの残った布を畳んでいる。
「ノエルさん」
「ありがとう。助かった」
「今後は、私も最後に確認いたします」
ノエルの手が止まった。
「どうして?」
「私が確認していれば、先に交換できました」
「これは私の仕事だよ」
「ですが、来客用の布は大切です」
「分かってる」
初めて、ノエルの声が強くなった。
ファステは言葉を止めた。
「ごめん」
ノエルはすぐに目を伏せた。
「今日は、ほかの部屋も重なってたから。ちゃんと見たと思ったんだけど」
「お疲れだったのではありませんか」
「ファステだって、いろいろしてるでしょう」
「私は、まだ大丈夫です」
ノエルは返事をしなかった。
「最後の確認だけでも、お手伝いさせてください」
「いらない」
「ですが」
「一人でできるから」
染みの残った布を抱え、ノエルは洗濯場へ戻っていった。
失敗した直後だから、落ち込んでいるのだろう。
少し時間を置けば、また話せる。
ファステはそう考えた。
翌朝、洗濯場の確認表には、新しい項目が増えていた。
来客用の布。乾燥後、ファステへ確認。
「これは」
「マルタさんが増やしたの」
ノエルは洗濯物を見たまま答えた。
「一人でできると申し上げたのですが」
「でも、決まったから」
ファステが布を確認すると、ノエルはすぐに次の籠へ向かった。
「ノエルさん」
「何?」
「こちらは問題ございません」
「そう」
礼はなかった。
けれど、今は仕事の途中である。
ファステも、次の布へ手を伸ばした。
◇
庭仕事を担当する男が、熱を出した。
朝から立つことも難しく、数日は休ませることになった。
「無理に戻してはいけません」
マルタは担当を書いた紙を広げた。
「水運びと薪は分けます。急がない庭仕事は後へ。ほかに止められるものは」
「明後日の会食は止められないわ」
セシリアが言った。
予定になかった客が増え、用意する部屋と食事も増えている。
「短期で人を頼みます」
「今から来られる人がいる?」
「町へ聞かなければ分かりません」
「返事を待つ間に、会食が終わってしまうわ」
セシリアは紙を見た。
「今いる者で、数日だけ分けられない?」
「休む時間を削れば可能です」
「それは困るわ」
セシリアは使用人たちを見た。
「できないことを、無理にしろとは言いません」
「私が水運びもします」
ノエルが先に言った。
「洗濯と掃除は?」
「間にできます」
「先日は、確認が重なって見落としたのでしょう」
ノエルが黙った。
ファステは紙を見た。
水運び。
薪。
会食の食材。
来客用の布。
「食材と物置の確認は、一度にできます」
全員がファステを見る。
「薪の残りを確認する時に、明後日までの食材も見ます。紅茶は、先に茶葉と器を分けておけば、直前の準備を減らせます」
「洗濯は」
「急ぐ物だけ、ノエルさんと先に分けます。乾いた後の確認は、別の作業から戻る時に」
「休む時間は残りますか」
マルタが尋ねた。
「数日でしたら」
「答えになっていません」
「病気の方へ無理をさせるよりよいと思います」
それには、マルタも反対しなかった。
「私は、もっとできます」
ノエルが言う。
「ファステに全部見てもらわなくても」
「無理をして、また見落としては意味がないでしょう」
セシリアは責める口調ではなかった。
「今は、ファステへ任せた方が確実よ」
ノエルは紙へ視線を落とした。
「……分かりました」
ファステは安心した。
ノエルが無理をしなくて済む。
休んでいる男も、治るまで戻らなくてよい。
「では、この順番でいたします」
仕事は増えた。
それでも、組み直したとおりに進んだ。
会食の日には必要な物が揃い、料理も時間に間に合った。
来客用の布にも、染みはなかった。
「助かりました」
仕事を終えたあと、マルタが言った。
「ですが、これを普段の形にはできません」
「はい」
「休んでいる者が戻れば、担当も戻します」
「分かりました」
ファステも、そのつもりだった。
◇
二度目の休日を迎える前日になっても、庭仕事の男は戻らなかった。
熱は下がったが、まだ身体を動かせないという。
会食に来た客の一人が、予定を一日延ばした。
ファステの荷物には、エルマへ持ち帰る茶葉が入っている。
「明日は休みなさい」
マルタが言った。
「ですが、お客様が」
「紅茶は私が引き継ぎます。在庫の場所も聞きました」
「洗濯物の確認は」
「ノエルの仕事です」
「マルタさんのお仕事が増えます」
「それを決めるのは私です」
エルマと同じことを言われた。
ファステはうなずこうとした。
「少し、よろしい?」
セシリアに呼ばれた。
「明日は、あなたの休日だと聞いたわ」
「はい」
「予定どおり帰って構いません」
「ありがとうございます」
「ただ、あなたがいてくれれば助かるのも本当なの」
セシリアは隠さずに言った。
「お客様は、今日と同じ紅茶を望んでいるわ。在庫も、あなたが一番分かっている。残ってくれるなら確実でしょう」
強制ではなかった。
帰ってよいと、先に言われている。
「別の方法を探すこともできます」
セシリアが続けた。
「どうするかは、あなたが決めてちょうだい」
エルマが待っている。
二つのカップもある。
茶葉がなくても帰ってくればよいと言われた。
「帰ればいいじゃない」
近くにいたノエルが言った。
「マルタさんが代わるって言ってるんだから」
「ですが、マルタさんには、ほかのお仕事もございます」
「いつもそうやって、全部自分の仕事にするの?」
ノエルの言葉に、ファステは目を瞬いた。
「そのつもりでは」
「ノエル」
マルタが止めた。
「申し訳ありません」
ノエルは頭を下げた。
誰へ謝ったのか、ファステには分からなかった。
今、自分が帰れば、マルタの仕事が増える。
ノエルも来客用の布を確認しなければならない。
ベルタは食事を用意する。
明日一日だけ残れば、客は帰る。
「一日、ずらします」
「よいの?」
「はい。明後日に帰ります」
セシリアは、ファステの顔を見た。
「無理をしてはいない?」
「一日でしたら、大丈夫です」
「分かったわ。ありがとう」
町へ向かう使いへ、エルマへの伝言を預けた。
仕事で一日遅れること。
心配はいらないこと。
茶葉も一緒に預けようとして、やめた。
これは、自分で持って帰りたい。
ファステは包みを、開かなかった荷物へ戻した。
◇
その夜、客は満足して部屋へ戻った。
食器を片づける。
残った食材を分ける。
明日の朝に使う分を前へ出す。
「もう休みなさい」
マルタが言った。
「これだけ終えましたら」
「明日でもできます」
「明日の皆さまが、すぐに使えるようにしておきたいのです」
「あなたは明日、帰るのでしょう」
「ですから、今のうちに」
マルタは何か言いかけ、やめた。
「遅くなりすぎないこと」
「はい」
ファステは、自分のために紅茶を淹れた。
今日使った茶葉の残りである。
カップを温め、湯の温度を待ち、短い時間だけ蒸らす。
作業台の端へ置いた。
先に食材を分ける。
それが終わったら、座って飲む。
在庫の紙に、記入されていない箱があった。
中を確かめる。
来客用の布も、明日の朝に返す分が残っている。
ノエルは先に食事へ行ったらしい。
ファステは一枚ずつ確認した。
「まだ働いていたの?」
セシリアが入口に立っていた。
「もう少しで終わります」
「無理をしなくてよいと言ったでしょう」
「私が気になって、確かめているだけです」
セシリアは整えられた食材と、書き足された在庫の紙を見た。
「本当に、何でも気づくのね」
「まだ、見落としていることもございます」
「それでも、あなたに任せれば間違いないわ」
期待されている。
その期待を、間違いにはしたくなかった。
「一つだけ、お願いしてもよい?」
「はい」
「明日の朝、客人が持ち帰る品を物置から出しておいてほしいの。朝でも構わないけれど」
ファステは作業台の端を見た。
カップから、まだ細い湯気が立っている。
今なら、温かいうちに飲める。
品を出してからでも、すべて冷めるとは限らない。
「任せてください」
セシリアが去ったあと、ファステは物置へ向かった。
品を探し、数を確かめ、包みへ傷がないかを見る。
戻った時には、カップから湯気が消えていた。
ファステは席へ座らず、その場でひと口飲んだ。
香りは弱い。
好きな味かどうか考える前に、残りも飲んだ。
空になったカップを洗う。
仕事はすべて終わった。
けれど、その夜に温かいものを飲む時間だけは、もう戻らなかった。




