第4話 半身半妖(肆)
神樂は、年寄りたちのあばら屋から運び出した冷たい亡骸を、村外れの朽ち果てた廃寺の堂奥へと静かに横たえた。野犬に荒らされぬよう、せめてもの処置だった。
「薪も用意できず、荼毘に付すこともかなわぬ不義理、どうかお許しください」
亡骸の前に膝をつき、深々と頭を下げる。
ふっと、背後で枯れ葉を踏む微かな足音が止まった。見れば、朧が神樂の袖をすがるように握りしめている。その小さな掌から、微かな体温が伝わってきた。
忌み嫌われて生きてきた自分が、この幼い命に縋られている。
(私は今、人という存在に近づけているのだろうか)
その温もりに安堵した、まさにその瞬間だった。
――じり、と。
神樂の背中の奥で、人間にはない「異形の器官」が、悍ましい歓喜に震えてニュルリと蠢いた。
『……細い首だ。今ここで握りつぶせば、どれほど容易く、甘い肉を貪れるだろう』
内側から湧き上がる怪物の捕食衝動。神樂は激しい吐き気に襲われ、衣服の上から胸元の赤玉を、壊さんばかりに強く握りつぶして本能をねじ伏せた。
「……お姉ちゃん、ありがとう」
朧の無邪気な声が、神樂の耳に冷たく突き刺さる。神樂は引き攣る唇を隠すように、ただ黙って少女の細い肩へと手を置いた。
―――
廃寺から戻る道すがら、神樂は村の「現実」をその目に焼き付けることとなった。
すれ違う村人たちは皆、頬がこけ、目は落ち窪み、漂うのは逃れようのない飢えと死の臭いだ。あちこちが掘り返された痩せた畑の傍らでは、幼い子供たちが無言で草の根を引き抜き、土を払ってそのまま口へ運んでいる。
それは食事ではない。生き延びるための、最後のあがきだ。
「……すまんのう、旅のお人」
すれ違い様、白髪混じりの男が砂を噛むような声で呟いた。
「冬を越せる食い物が、もうどこにも無いんじゃ。……松右衛門様に見つかれば、草の根すら年貢として毟り取られる」
逆らえば罰が下り、従えば餓死が待つ。
彼らの歩む泥道は、最初からどこにも繋がっていない。神樂は胸元でじりじりと熱を帯びる赤玉の痛みに耐えながら、ただ無言で歩みを速めた。
―――
「えらい遅くなったのう。……で? 収穫はあったのか?」
滞在先の宿へ戻ると、月舟が待っていた。徳利を弄るその声音はいつも通り飄々としていたが、その双眸の奥には、いつになく冷徹な焦燥が刺のように混じっている。
神樂は膝をつき、胸の奥から溢れ出る言葉を抑えきれずに吐露した。村人たちの窮状、そして庄屋・松右衛門の非道。
「……このままでは、あの村は冬を越せずに全滅します。なんとか松右衛門様に、米を融通していただくよう、月舟様からお伝えできませんでしょうか」
それは、祈りにも似た懇願だった。
月舟はしばし沈黙し、やがて温度のいっさい消えた声で、ぽつりと言った。
「……人のような口を利くではないか、神樂よ」
月舟はゆっくりと立ち上がり、平伏する神樂のすぐ前まで歩み寄る。そして、その大きな掌で、神樂の両肩を骨が軋むほどの力で掴んだ。
「勘違いするな。あの豚が村をどれほど飢え殺そうが、わしの知ったことではない。わしらは松右衛門殿に雇われておる身。雇い主の利益を損なう言葉を、二度と垂れ流すな」
「……っ、ですが……!!」
反射的に、拒絶の声が漏れた。
その瞬間、月舟の瞳が冷徹な刃となって神樂を貫いた。
「あぁ!?」
脳髄に直接響くような、圧倒的な威圧感。
月舟は掴んだ肩にさらに力を込め、神樂の身体を床へとへし折るように圧し付けた。
「お前はまた、あの深泥池の泥に戻りたいのか? ……順序を違えるなと言ったはずじゃ。お前を『人間』の形に繋ぎ止めてやっているのが誰か、その足りん頭でよく思い出せ」
「……っあ、……」
絶対に越えてはならぬ一線。それを踏み越えかけた恐怖に、神樂の血の気が一気に引いた。震える唇を噛み締め、涙を堪えて言葉を喉の奥へ押し戻す。
「……申し訳、ございませんでした。……主は、月舟様、ただお一人です」
服従を誓う神樂の頭頂を、月舟は冷たく見下ろし、不快そうに鼻を鳴らして手を離した。
―――
それから、三日目の夜。
松右衛門の蔵の中は、酒の酸えた臭いが充満していた。傍らでは、月舟が深く笠を被ったまま身じろぎもせず、静かに呼吸を立てている。その寝姿が、逆に「失敗は許されない」という無言の圧殺感となって神樂を縛り付けていた。
その時。
ガササササッ!!
天井の梁を、何かが這う微かな音がした。
神樂の瞳が、闇の中で底知れぬ紅へと染まっていく。音を殺して米俵の陰へ滑り込み、ただ鼓動の音だけを数えながら時を待つ。
月光が差し込む床板の上へ、梁から音もなく降り立ったのは、小さな四足のシルエットだった。
尖った耳にしなやかな尾。しかし、その纏う空気は明らかに妖気を孕んだ「妖」のそれだ。
ガサッ……ガササ……。
鋭い爪が米俵を容易く引き裂き、白米がさらさらと零れ落ちる。妖は小さな手で器用に袋を広げ、こぼれる米を詰め込み始めた。
その隙を、神樂は見逃さなかった。
床板を鳴らさぬよう重心を絶妙に逃がし、背後三尺まで音もなく詰め寄る。
ニュルッ、ブシュルルルルルッ!!!!
声など発しない。神樂の両指から、皮膚の代わりに薄く光る粘膜で覆われた二本の異形(触手)が、獲物を屠る矢のごとき勢いで鋭く放たれた。
舞い上がった米粒が、月明かりを跳ね返して白銀の火花のように煌めく。
「今度は、逃がさない!!」




