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第3話 半身半妖(参)

挿絵(By みてみん)



月舟は空になった徳利を無造作に放り出すと、満足げに鼻を鳴らした。


「明日一日、休みを貰ったぞ」


 最後の一滴まで酒をあおり、濁った眼を神樂に向ける。


「お前に、この前ね失態を挽回出来る機会をやる。」

「あの村を偵察してまいれ」


 その言葉に、神樂の背筋が一本の鋼が通ったかのように伸びた。


「はい、月舟様」


 深く丁寧に一礼する。


 その後、神樂は膳に並べられた豪奢な料理を見つめた。


 松右衛門から提供された、脂の乗った魚、彩り豊かな煮物、そして白く艶やかな米。

 だが、その箸が動くことはなかった。


「......こちらを、重箱に詰めていただけますか」


 神樂の願いに使用人が首を傾げる。


「もし、ご飯が余っていれば......握り飯にして、いただけると......ありがたいのですが」


 消え入りそうな声。

 けれど、切実な懇願だった。


 使用人はその澄んだ瞳に毒気を抜かれ、にこりと微笑んだ。


「ええ、構いませんよ。たっぷり詰めておきましょうね」


 神樂が安堵の吐息を漏らし、再び深く頭を下げたとき。


「バシンッ!!」


 酔った月舟の大きな掌が、神樂の背を容赦なく叩いた。


「はしたないぞ、神樂! 慎みを持て!」


 酒で赤ら顔の主が、絡みつくような声で叱責する。


 使用人は苦笑を浮かべ、


「まあ良いではありませんか。まだ、育ち盛りの年頃なのですから」


 となだめた。


 神樂は耳まで朱に染めたが、何も言い返さず、手渡された重箱を宝物のように大切に抱え直した。


―――


 翌朝。

 わずかな仮眠をとった神樂は、単身、あの沈黙の村へと足を踏み入れた。


 瞬間、あの夜と同じおぞましい異臭が鼻腔を突く。


 死臭と、膿の腐敗臭。空気は鉛のように重く、家々の戸は固く閉ざされている。

 軒先には、ピクリとも動かぬ「影」が点在していた。


 その時だった。


「何しに来た!!」


 甲高い、刺すような怒声。


「よそ者は、帰れ!!」


神樂の前に、小さな影が立ちはだかった。


 十四歳ほどの少女。痩せ細った肢体に、あちこちが擦り切れた着物の袖。だが、その瞳だけは飢えた獣のように異様に鋭く、ぎらぎらと光っていた。


 小さな腕を精一杯に広げ、神樂の進路を遮るその頑なな姿が、昔の村人たちと重なった。


胸の奥が、きゅっと縮む。


それでも、神樂は立ち去れなかった。


「……お、お腹が、空いていませんか?」


 少女の肩が、びくりと跳ねた。


「少しだけですが、食べ物があります。よろしければ、いかがですか?」


 神樂は、少女の目を直視する事が、出来ず伏せ目がちに訊ねる。


「え……?」


 少女の瞳から険しい光がふっと消え、困惑が滲む。

 隠しきれない身体の渇望が、彼女の喉を小さく鳴らした。


「な、何を持っておるのじゃ……!」


 精一杯に強がってみせるものの、少女の視線は神樂の手元にある重箱へ釘付けになっていた。


 神樂は刺激しないよう、ゆっくりと膝をつく。

 そして震える指で慎重に蓋を外した。


 途端、朝の冷気の中に、白米の甘く芳醇な香りがふわりと広がる。


 中に整然と並んでいたのは、白く丸く、瑞々しく光る握り飯だった。


 少女の瞳がみるみる輝きを取り戻していく。


 ぐぅ――。


 正直な腹の虫が、大きな音を立てた。


 手を伸ばせば届く。

 それは今の少女にとって、まさしく命そのものだった。


 だが次の瞬間。


「も、もういい! 蓋を閉めてくれ!!」


 少女は悲鳴にも似た声を上げ、重箱を激しく突き返した。


「なぜですか? 遠慮なさらずに……」


「いいから早く!!」


 少女は唇を強く噛み締め、苦悶の表情で何度も唾を飲み込む。


 その姿を見て、神樂は小さく肩を震わせた。


(やはり……私の差し出したものなど、気味が悪いのですね……)


 胸の奥が、ちくりと痛む。


 神樂は視線を伏せ、静かに蓋を閉めた。


 風呂敷で包み直そうとした、その時だった。


 ぎゅっ、と。


 少女が神樂の手を強く握りしめた。


 神樂は目を見開く。


 子供に、こんなふうに何の敵意もなく触れられたことなど、一度もなかった。


 だからこそ、その小さな掌から伝わる温もりが、胸の奥へじんわりと染み込んでくる。


 だが、少女の手は痛々しいほど骨ばっていた。


「ついて来てくれ!!」


 少女は神樂の手を引いて走り出した。

 傾きかけた家々の狭い隙間を縫うように抜け、村の最も奥にひっそりと建つ、今にも崩れそうな粗末な建物へと辿り着く。


 ――戸を開けた瞬間、暴力的なまでの腐臭が神樂の鼻腔を直撃した。

 この村で、最も死に近い場所。


 薄暗い中では、七、八人の老人たちが、虚ろな眼差しで壁にもたれかかり、ただ静かに死を待っていた。


 茣蓙の端からは、土色に黒ずんだ足が何本もはみ出している。


「……こ、これは……!!」


 神樂は、戦慄で激しく震える。

 少女は唇を強く結び、血の味のする声を絞り出すように言った。


「『口減らし』にされた人たちじゃ……! 動けん者、働けん者から、ここに捨てられたんじゃ」


「なんて……酷いことを……!」


 あまりの惨状に、激しい悲しみと憤りが神樂の胸を焦がす。しかし、少女は悲痛な目で首を振った。

「違う!!そうせんと皆死ぬんじゃ!!」


 その時、部屋の奥の暗がりから、掠れた、掠れた声が響いた。


おぼろ! お前はもう、逃げろと言ったはずじゃ……!」


 骨と皮ばかりにやせ衰えた老婆が、少女――朧を、濁った眼光で鋭く睨みつけた。


「わしらのような死に損ないと、運命を共にしてはならん……!」


「トシばば! わちは、ばば達を見捨てる事なんか出来ん! それに……それに、おっとうと、おっかあが……!」


 朧の叫びが、死臭の立ち込める暗い部屋に虚しく響き渡った。


 朧の声が震え、視線が茣蓙の下の遺骸へと落ちる。

 神樂の胸が締め付けられた。


「......誰も、葬ってあげないのですか......?」


 朧は力なく首を振る。


「そんな体力が残っている大人は......もう、一人もおらん」


 一拍置いて、朧が神樂を真っ直ぐに見上げた。その瞳には、命を賭した光が宿っていた。


「それより、お前!」


 ぐいと神樂の袖を掴む。


「さっきの飯だ!! あれを、みんなに食べさせてやってくれ!!」


 叫びにも似た懇願。

 自分が飢えているにもかかわらず、まずここへ案内した理由。


 神樂は風呂敷を強く抱きしめ直した。

 その胸の奥で、かつて両親から与えられた温もりが、激しい焔となって燃え始めていた。


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