第2話 半身半妖(弐)
その夜から、蔵の警護が始まった。
土壁に囲まれた頑丈な内部には、年貢の米俵が、山のごとく積み上げられている。
警護を始めて三日目の深夜。
神樂は俵の山を背に、冷たい板敷きの上で正座していた。
背筋は一寸の狂いもなく垂直に伸び、呼吸は細く、長く、深い。
闇の揺らぎ、空気の震え、塵ひとつの落下すら逃さぬよう、全神経を研ぎ澄ます。
――その真横で。
月舟は徳利を抱えたまま眠っていた。
(月舟様に頼ることは許されない。)
神樂は三日三晩、不眠不休で座し続けていた。
そして。
カサ……サササササ……。
天井の梁から、乾いた木肌を擦る音がした。鼠の軽やかな足音ではない。もっと重く、粘りつくような……そして、異常に速い。
カサササササ……ッ!!
梁から梁へ。滑るように移動していく気配が、闇の上方でピタリと息を潜めた。
灯明の炎がふっと揺れ、俵の山に歪な影を投げた、その瞬間。
「チッ!! 早く居なくなれば良いのに!」
甲高い、若い女の声が静寂に響いた。苛立ちを隠そうともしない、明瞭な舌打ち。
ただの獣ではない。言葉を操る「知性」がある。
神樂は即座に床を蹴った。衣服を乱すことすらなく、重力を無視したような跳躍で天井の梁へと肉薄する。
一瞬、灯明の薄明かりが逆光となり、梁の上に黒いシルエットを浮かび上がらせた。
それは、四つん這いになった人間の娘の輪郭だった。いや、違う。肩の骨が異常に盛り上がり、頭部からはピクリと動く三角形の耳が突き出ている。さらにその背後、壁に投影された「影」は、尋常ならざる歪み方を見せていた。
一つの身躯から、まるで蠢く大蛇のように太く長い尾の影が伸び、生き物のように壁をのたうち回っているのだ。
暗闇の中で、二つの眼光だけが獣のようにぎらりと金色に爆ぜ、迫り来る神樂を捉えた。
「――っ、でた!」
その影は、人間の関節ではあり得ない方向へぐにゃりと身体を反転させると、蔵の高窓を内側からぶち破り、夜の闇へとすり抜けた。
吹き込む猛烈な夜気。神樂は着地と同時に蔵の戸を跳ね除け、月明かりの下へ飛び出した。
塀の向こうを、細い影が獣の速度で駆けていく。神樂は迷いなく、その深淵へと追い縋った。
タタタタッ!!
月明かりの下、神樂は夜の森を猛然と駆けていた。
蔵から逃げ出した「化け猫」の背中が、闇の向こうで朧げに揺らめいている。
だが、田んぼを抜けた瞬間、風向きが変わった。
鼻腔を、おぞましい異臭が突き刺す。甘ったるく、重く、喉の奥にねっとりとへばりつくような臭い。
視線の先に広がっていたのは、見すぼらしい家屋が肩を寄せ合う、ひっそりとした農村だった。
干されたまま放置された洗濯物が、腐ったような臭いを放ちながら風に揺れている。戸口に座り込んだ老人は、目を開けたまま微動だにしない。生きているのか、それともすでに死んでいるのか。
別の家からは、肺を削るような乾いた咳と、今にも途絶えそうな赤子の細い泣き声が漏れていた。
腐敗と膿、そして拭いきれぬ「終わり」の予感。風が吹くたびに、濃厚な死臭が容赦なく村を撫でていく。
その瞬間、神樂の胸元で、首飾りの赤玉が「どくん」と嫌な熱を帯びて跳ねた。
松右衛門の蔵に山のごとく積み上げられていた白米。そして、この村を覆う飢えと病の死臭。
二つの情景が脳裏で最悪の形で結びつき、神樂の足が、一瞬だけ泥に捕らわれたように鈍る。
「――っ!」
我に返ったときには、追っていた影はどこにもなかった。
跡形もなく、闇の彼方へと消え失せていた。
静まり返った農村に、揺れるのは痩せた葦の葉だけ。追跡の糸は完全に切れ、致命的な失態だけが重く沈殿する。
冷たい夜気の中、神樂はただ一人立ち尽くし、胸に芽生えてしまった「割り切れぬ思い」を、衣服の上から赤玉ごと強く握りつぶすようにして抑え込んでいた。
ーーー
翌朝。蔵の外。
遮るもののない朝の冷気の中、月舟の怒声が容赦なく空気を引き裂いた。
「何をやっとるんじゃーーー!!」
激しく地面を穿つ、乾いた杖の音。
「この役立たずめが!」
神樂は冷たい土の上で正座し、額を擦りつけるように深く平伏していた。
指先から伝わる土の冷たさが、自らの失態の重さをそのまま突きつけてくるようだった。
「……申し訳ございません。追跡の最中、村の異変に気を取られ……妖を見失いました」
「敵を追う最中に、他事に心を奪われるとは何事だ」
月舟は吐き捨てるように、底冷えするような軽蔑を込めて言い放った。
その視線は、使えない道具を値踏みする冷徹な飼い主のそれだった。
「見ず知らずの村と任務どちらが大切なのじゃ!!」
「神樂。順序を違えるな。お前の主が誰であり、何を命じたのか、その頭で今一度よく考えよ」
神樂の拳が、袖の中で強く握りしめられる。
「……すみませんでした。お許しください」
神樂は奥歯を噛み締めた。
だが一方で、どうしてもあの村の光景が脳裏から離れなかった。
月舟は射抜くように彼女の頭頂を睨みつけ、やがて不快そうに小さく鼻を鳴らした。
「許すかどうかは、次で決める。失態は取り返せ。あの妖は、己の目的のために必ずまた現れる」
神樂はゆっくりと顔を上げた。
泥に汚れた額とは対照的に、その瞳に宿るのは、底知れぬ悔しさと、自らを追い詰めるように研ぎ澄まされた決意の光だった。
「……はい」
主に見捨てられる恐怖を、剥き出しの忠誠心でねじ伏せ、神樂は月舟の足元に向け、深く、静かに一礼した。




