第1話 半身半妖(壱)
「神様は姫に言いました。――貴方を喰らいに、その首飾りの玉と同じ『十四の魔物』が襲い来るでしょう。もし魔物に喰われれば、貴方は永遠に穢れの一部となり、底なしの泥に沈むことになります。されど、もしすべての魔物を討ち果たしたなら、貴方の望みを一つ、どんなことでも叶えてあげましょう」
「ねえ、おかあ。姫様は全部の魔物を倒す事ができたの? それで、どんなお願いを叶えたの?」
幼い神樂が、母の膝に頭を乗せたまま無邪気な声を上げる。
母は縫い物の手を止め、愛おしそうに娘の黒髪を撫でた。
「さあねえ、魔物を倒した後のことまでは、誰も知らないわ。……もし、神樂がその姫様なら、何を望むの?」
「私だったらね!」
神樂は跳ね起きると、母親の腕をガシッと掴み、目を輝かせた。
「みんなに愛される人になりたい! そのためだったら、どんな怖い怪物だって、エイ! やー!ってやっつけちゃうよ!」
ーーーー
「神樂だ! 化け物(神樂)がいたぞ! 汚ねえ、こっちに来るな!」
乾いた礫が、神樂の足元で鋭く跳ねた。
村の子供たちが、泥にまみれた少女を遠巻きに囃し立てている。
「みんな! 『貰い人』に近寄るんじゃないよ! 穢れが伝染っちまう!」
母親たちが血相を変えて駆け寄り、我が子をひったくるように抱き寄せた。
神樂は何も答えない。感情を削ぎ落としたような冷たい顔で、ただ黙々と泥道を歩む。
その長い黒髪の隙間から覗く白い肌を、男たちの視線が舐めるように追った。
「あの容姿を見てみろ。このまま育てば、さぞ見事な女になるだろうに。勿体ねえ話だ」
「馬鹿を言うな。あの妖気に惑わされるんじゃねえ。美しすぎるのは、中身が化け物の証拠だ。今のうちに始末しておくべきじゃねえのか」
ーーー
「……夢?」
縁側の冷たい風に吹かれ、神樂は弾かれたように飛び起きた。
頬には、冷めかけた涙の跡が残っている。
しまった。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
隣には、静かに煙管を燻らせる初老の男・月舟の姿があった。
神樂は即座に膝をつき、深く頭を垂れる。
「月舟様……! 申し訳ございません。主の前で、不調法を……」
「構わん、たまには良い」
月舟は呆れたように笑い、白い煙を吐き出した。昨日まで数日間にわたって続いた穢れ討伐の強行軍。神樂の身体は、限界を迎えて気を失うように眠ってしまっていたのだ。
「早いものよのう……あれから、もう四年か」
細い目をさらに細め、遠い空を眺めながら、月舟がぽつりと言った。
「行き場を失い、身寄りもないお前をここまで仕上げるのは……わしも正直、骨が折れたぞ」
神樂の脳裏に、深泥池のほとりで絶望に伏していたあの日がよみがえる。
背中から異形の触手を伸ばし、泥にまみれて倒れこんだ自分を取り囲む、憎悪に満ちた村人たちの目。その人垣を冷然と掻き分け、自分を拾い上げたのが、この月舟だった。
「神樂がここまで精進出来たのは、ひとえに月舟様のおかげです」
神樂は平伏したまま、一点の曇りもない声音で言った。
「どうか……これからも穢れに取り込まれないよう、この神樂を導してください」
「世の者は、お前を恐れ、忌み嫌うであろう」
月舟はゆっくりと立ち上がり、神樂のすぐ前まで歩み寄った。
ぽん、と大きな手が神樂の頭に置かれる。有無を言わせぬ、重い掌だった。
「じゃが案ずることはない。わしの言いつけを守っている限り、わしは見捨てぬ。お前の全ては、わしが正してやるからのう」
その言葉を聞いた瞬間、神樂の胸にじわりと熱い陶酔が広がった。
彼がどれほど酷薄で、自分を都合のいい猟犬としてしか見ていないかなど、百も承知だった。それでも構わない。自分を「深泥池のバケモノ」ではなく、「神樂」という名で縛り、利用してくれるこの男の檻の中だけが、世界で唯一、自分が「人間」の真似事を許される場所なのだから。
「……はい。月舟様のお言いつけには、どんなことでも従います。そしてこのご恩、一生忘れることはございません」
月舟の指先が、愛おしげに神樂の胸元へと伸びる。
先ほどまでどくどくと不穏に脈打っていた赤い玉に、その細い指が触れた。神樂の背筋に、本能的な悪寒が走る。しかし、身体は指一本分たりとも拒絶を示さなかった。
「神樂よ、次の仕事じゃ。ついてまいれ」
「……はい」
一瞬の躊躇もなく、神樂は静かに翻る黒い狩衣の背を追った。
―――
二人は馬を駆り、深い森を抜けた。
夕暮れの風が枯れ草を鳴らす中、視界に開けたのは広大な農地。その中心に、庄屋の屋敷が周囲を圧するように傲然と構えていた。
「闇祓の方々が参られたぞ!」
門をくぐると、待ちわびた使用人たちの声が迎えた。
幾つもの視線が、一斉に神樂へ向けられる。
その瞬間。神樂の肩がびくりと震えた。
気づけば、月舟の背へ半歩身を寄せている。視界を覆う主の黒い背中。それだけで、張り詰めていた息が少しだけ抜けた。
月舟は振り返りもせず、穏やかに囁く。
「だから余計なことは考えず、わしについて来ればよい」
「……はい」
神樂は顔を伏せたまま、主の足跡だけを追って廊下を進んだ。
襖が静かに開く。
奥の間では、豪奢な座布団にあぐらをかいた男――松右衛門が待ち構えていた。
異様なまでに肥え太ったその身体は、ただ座っているだけでびっしりと汗をにじませており、自力で動くことすら困難なように見える。傍らでは大勢の女中が付き切りで団扇を仰ぎ、口元へ食べ物を運び、代わる代わる肩をもんでいた。
黄色く脂ぎった小さな目が、神樂の姿を捉えた瞬間にぎらりと歪む。
「ほう……お前たちが闇祓か」
にたり、と唇の端が醜く吊り上がった。
「なるほどのう。噂には聞いておったが……これが例の娘か。確かに、こんな美しい女子は見たことがないわい。しかし、こんな清楚な娘の背中から、本当にあの忌まわしいものが生えてくるのかのう……」
粘つくような視線が、神樂の全身を貪るように這い回る。
その瞬間、神樂の肉体の奥――人間としては決して存在してはならない異形の器官が、生理的な嫌悪感に呼応して、じりじりと熱く脈打ち始めた。
『殺せ! 殺しちゃいな!』
脳髄に直接響く、もう一つの悍ましい声。背中の触手が皮膚を突き破らんばかりに身をよじる。
(ダメ!! 出てこないで!!)
神樂は必死に本能をねじ伏せようと息を詰め、耐えかねたように月舟の背後へさらに隠れようとした。
「……こら、神樂。松右衛門様に失礼だぞ」
月舟の、一切の反抗も許さない冷徹な声音。
神樂ははっと息を呑み、心臓が強く跳ねた。月舟を失望させてしまった――その事実だけで血の気が引き、指先が小さく震える。
(お願い、鎮まって……!)
神樂は覚悟を決めたように一歩前へ出ると、自身の内なる怪物を剥き出しの意志で抑え込み、深く、丁寧に頭を垂れた。
「……失礼いたしました」
その従順な様子に満足して、松右衛門は傲慢に頷いた。
「さて。この屋敷を騒がす『化け猫』について、詳しくお聞かせ願おうか」
月舟が先を促すと、松右衛門はねっとりとした口調で語り始めた。
「……二月ほど前からじゃ。夜になると、妙な音がし始めた。畳を擦る音。柱を叩く音。最近になって、蔵の米が減り始めたのだ。袋の底が裂かれ、こぼれた跡がある。見張りを立てても、鍵を二重にしても無駄だ。誰も入らぬはずの蔵から、米だけが消えてゆく」
松右衛門がごくりと醜く喉を鳴らす。
「人か、妖か……どちらにせよ、わしの財を奪う奴は生かしておけぬ。闇祓の名にかけて正体を暴き、始末してくれ」
その言葉と呼応するように、神樂の胸元で、赤く染まった玉がじりじりと不穏な熱を帯び始めた。




