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第5話 半身半妖(伍)


 妖猫の姿が、かき消えた。

 神樂の放った触手を、疾風のごとき身のこなしで翻弄したのだ。空を切った一撃が虚しく床板を抉り、暗がりに土煙が舞う。

 闇の奥で、金と紅の混じった双眸が不気味に発光した。


(避けた……っ!)


 神樂が息を呑んだ刹那、妖猫が爆発的な踏み込みで地を蹴った。

 床板が悲鳴を上げて弾け、こぼれた米粒が白銀の火花のように飛び散る。怪物は神樂の懐へ一直線に躍り込んだ。

 茶色の剛毛に覆われた左腕が、どろりと醜く膨張する。そこから突き出したのは、剃刀のごとき鋭利さを備えた五本の鉤爪。月光を跳ね返し、冷徹な閃光を放つ爪が、神樂の喉笛を掻き切らんと振り下ろされる。

 死の予感が頬を撫で、断たれた髪の先が音もなく舞った。

 あと指一本分、その極限の間合いで、神樂は後方へ身を投げた。

 着地と同時に横転。

 月舟との苛烈な修練で叩き込まれた「死線の歩法」が、土壇場で彼女の命を繋ぎ止めた。


「負けない……!」


 神樂は二本の触手を鞭のようにしならせ、空間を制圧しにかかる。

 だが、妖猫の進撃は止まらない。天井、壁、柱――重力を無視した軌道で縦横無尽に跳ね回り、神樂の猛攻を紙一重の差で嘲笑う。

 そして、再び死の間合いの内側へ。

 膨れ上がった左腕が迫る。その瞬間、ぬるり、と神樂の背の皮肉が脈打った。

 出現した第三の触手が、不意を突いて妖猫へ放たれる。

 しかし、妖は壁を蹴ってそれさえも軽々と回避した。

 だが、それこそが神樂の狙いだった。

 かわされた触手は闇を這う蛇のごとく、背後の太い柱へと絡みつく。それを支点に、神樂の身体が強引に反転した。

 妖猫が次の爪を繰り出すより早く、もう一本の触手がその腕を猛烈な速度で巻き取る。

 肉と骨が軋む鈍い音が蔵に響いた。

 逃れられぬ剛力に、妖猫の身体が引きずられる。柱を軸に半円を描き、強引に神樂の正面へと引きずり戻された。

 関節が悲鳴を上げ、触手が細い腕を容赦なく締め上げる。


「はっ、あ、……っ」


 荒い呼吸を吐く神樂の意志に応じ、背中の異形はさらに太さを増し、妖猫の身体をずるりと宙へ吊り上げた。

 左腕を絡め取られ、宙吊りにされた怪物は、牙を剥いて必死に空を掻く。

 だが、激しくもがいていたその動きが、ふと止まった。

 差し込んだ月明かりが、二人の顔を等しく照らし出す。

 神樂の澄んだ緑の瞳。妖猫の燃えるような金の瞳。

 至近距離で視線がぶつかり合った瞬間、神樂の全身の血が凍りついた。


「……あ、あなたは……!!」


 神樂の喉が戦慄に震える。

 同時に、妖猫の瞳も見開かれた。


「お前……っ!!!!」


 発せられたのは、獣の唸りではなく、明瞭な人の言葉だった。

 耳は尖り、頬には妖の紋様が刻まれている。だが、その相貌には、忘れようのない面影があった。あの飢えた村で出会った、少女の面影が。


「お前だったのか!!」


 吊るされたまま、おぼろが絶叫した。


「騙してたのか!! いい人だと思ってたのに……!!!」


 牙を剥いたまま、その声が子供らしい悲痛な響きに崩れる。

 金の瞳に宿っていたのは敵意ではない。ぽろり、と大粒の涙がその頬を伝って零れ落ち、神樂の胸を万力で締め付けるような激痛が襲う。


「騙してなんかない!!」


 思わず叫び返していた。


「村の人を助けたいと思った気持ちに、嘘なんてなかった!!」


 その言葉と共に、神樂の目からも涙が溢れ出した。だが、朧は激しく首を振る。


「わしらの村の作物を、根こそぎ奪っておいて……よくもそんなことが言えるな!!」


 声が裏返る。


「村が生きられる分だけでも残してくれていたなら……っ。おとうも……おかあも……死ぬことはなかったんだ!!!」


 蔵の中の空気が、一瞬で氷結した。


「おとうを返せ!! おかあを返せ!!」


 朧は牙を剥いたまま、子供のように泣きじゃくっていた。触手に吊るされた小さな身体が、小刻みに震えている。先ほどまで暴れていた尻尾は力なく垂れ下がっていた。

 神樂は、血が滲むほど唇を噛み締めた。

 松右衛門という強欲な豚が、この地でどのような略奪を繰り返してきたのか。だが、そんな言い訳が朧にとって塵ほどの価値もないことは、誰より自分が分かっていた。

 そのとき。


「……やはり、お前は人間の真似事をするたびに、そうやって手痛く裏切られるのう、神樂」


 背後の闇から、しっとりと冷えた声が響いた。

 振り返ると、いつの間にか月舟が音もなく立ち上がっていた。その手に握られた杖の先が、月光を浴びて鈍く光っている。


「月舟、様……っ。起きて、おられたのですか」


「当たり前じゃろう。あの豚に頼まれた獲物がどんなものか、この目で値踏みさせてもらったわ。……よくぞ正体を暴いた。でかしたぞ、神樂」


 月舟の声音は不気味なほど穏やかだったが、その視線は、罠にかかった獣を冷たく見下ろす猟師のそれだった。

 放たれる圧倒的な威圧感に、朧は最後の抵抗の力を奪われ、消えそうな声で「おとう……おかあ……」と呟いた。その弱々しい響きに、神樂の心臓は狂おしいほど激しく波打つ。

 月舟が一歩、平伏する神樂の横へと歩み寄り、冬の夜風よりも冷酷な声で命じた。


「神樂よ。そろそろ頃合いだ。お前がわしの忠実な猟犬であることを、今ここで証明してみせよ」


 空気が、さらに一段階凍りつく。


「お前のその触手で、その獣を、くびり殺せ」


 ――殺せ。

 その一言が絶対の呪縛となって神樂の脳髄を貫いた瞬間、胸元の赤玉が爆発せんばかりの熱を帯びた。

 熱い。皮膚が焼き切れるような痛みのなか、背中の触手たちが『そうだ、殺せ! その温かい髄をすすれ!』と、血に飢えた怪物の歓喜でニュルニュルと身をよじる。

 しかし、神樂の指先には、廃寺で触れた朧のあの細い肩の温もりが、まだ呪いのように、愛おしく残っていた。

 朧の喉が、ヒュッと小さく鳴る。

 神樂の紅い瞳が、激しく揺れた。

 吊るされた、小さな命。

 唯一の檻であり、光である師匠の命令。

 そして、己の肉体から湧き上がる怪物の渇き。

 夜の蔵は、しんと静まり返っていた。

 少女の、あまりにも残酷な決断を待つかのように。

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