第36話 ふたばの決断
対バンライブまで二週間。
ふたばが、練習に遅刻してきた。
「ごめん、遅れた!」
息を切らしながら、狸狸亭の二階に駆け込んでくる。
「大丈夫?」
片桐さんが、心配そうに尋ねた。
「うん、保育園から来たらちょっと遅くなっちゃって」
ふたばは、笑顔で答えたけれど、その顔には疲れが滲んでいた。いつもより目の下に少しだけクマができている。
「無理してない?」
理沙が、静かに尋ねた。
「大丈夫!それより、練習しよう!」
ふたばは、いつものように明るく笑った。でも、その笑顔の奥に、何か別の感情が隠れているような気がした。
練習が始まった。
『明日も笑えるように』の振り付けを確認していく。JIFを経験してから、動きに迷いがなくなっている。
でも、ふたばの動きが、ほんの少しだけ遅れる瞬間があった。
「ごめん、もう一回!」
ふたばが、自分で止めた。
「大丈夫だよ、ふたばちゃん」
片桐さんが、優しく声をかける。
「ううん、ちゃんとやりたい。もう一回!」
ふたばは、また踊り始めた。今度は完璧だった。でも、踊り終わった後、ふたばは大きく息をついた。
僕は、その様子を見ながら、胸の奥に小さな不安を感じていた。
練習が終わって、四人で狸狸亭のカウンターに座っていた。
マスターが、烏龍茶を出してくれる。
「お疲れさん」
「ありがとうございます」
四人で、静かに烏龍茶を飲んだ。
ふたばが、スマホを見ながら、小さく笑った。
「ねえ、見て。保育園の先生から写真が送られてきた」
画面を見せてくれる。そこには、小さな狸の子どもたちが、笑顔で手を振っている写真が映っていた。
「可愛い……」
片桐さんが、微笑んだ。
「うん。この子たちね、最初は人間社会に馴染めなくて、ずっと泣いてたんだ。でも、私が歌ったら笑ってくれて」
ふたばの声が、少しだけ震えた。
「それが、すごく嬉しくて」
その言葉に、片桐さんと理沙が顔を見合わせた。僕も、ふたばの横顔を見つめていた。
「今日もね、一人の子が泣いてて。お母さんと離れたくないって。でも、私が『ぽんぽんぺいん』歌ったら、泣き止んでくれたの」
ふたばは、スマホを見つめたまま続けた。
「先生が言ってた。『ふたばちゃんが来てくれるようになってから、子どもたちに笑顔が増えた』って」
その言葉が、静かにカウンターに響いた。
しばらく、誰も何も言わなかった。
マスターが、グラスを拭く音だけが聞こえる。
「……ねえ」
ふたばが、顔を上げた。その目は、少しだけ潤んでいた。
「あのね、言わなきゃいけないことがあって」
片桐さんと理沙が、ふたばを見つめる。僕も、手を止めた。
「対バンライブ、私にとって最後になるかもしれない」
その言葉が、空気を変えた。
「え……」
片桐さんが、小さく声を漏らした。
「保育園の子どもたち、私を必要としてくれてる。私がいると、笑顔になってくれる。人間社会に馴染めなくて困ってる子たちの、力になりたい」
ふたばの声が、少しだけ震えていた。
「アイドル、すごく楽しかった。片桐さんと、理沙ちゃんと、清水くんと一緒に歌って踊って。JIFのステージにも立てて。本当に、幸せだった」
ふたばは、涙を拭いた。
「でも……保育園の子どもたちのこと考えると、そっちに専念したいって思うの。わがままだよね、ごめん」
その言葉に、片桐さんが立ち上がった。
そして、ふたばを抱きしめた。
「わがままなんかじゃないよ」
片桐さんの声が、優しかった。
「ふたばちゃんらしい。すごく、ふたばちゃんらしい」
理沙も、二人に近づいた。
「私も、応援してる」
三人が、抱き合っていた。
僕は、その様子を少し離れたところから見ていた。
マネージャーとして、何か言うべきなのかもしれない。引き止めるべきなのかもしれない。
でも、ふたばの顔を見ていると、何も言えなかった。
保育園の子どもたちの話をしている時のふたばは、本当に輝いていた。ステージの上にいる時とは、また違う輝き方だった。
「……わかりました」
僕は、静かに言った。
「最高のライブにしましょう。ふたばさんの、最後のステージ」
その言葉に、ふたばが顔を上げた。
「清水くん……」
「僕は、マネージャーです。三人が輝けるステージを作るのが、仕事ですから」
僕は、笑顔で答えた。
ふたばが、また泣き出した。
「ありがとう……」
四人で、静かに抱き合った。
マスターが、カウンターの向こうから、静かに見守っていた。
その夜、帰り道。
僕は、一人で歩いていた。
ふたばが、アイドルをやめる。
それは、ふたばにとって正しい選択なんだと思う。
でも、ぽんぽこ♡トリオは、どうなるんだろう。
片桐さんと理沙は、二人でも続けるんだろうか。
それとも…
ぽんぽこぽん。
心臓が、重く鳴った。
空を見上げると、星が瞬いていた。
夜風が、頬を撫でていく。
僕は、ただ歩き続けた。
ふたばの笑顔が、頭から離れなかった。
保育園の子どもたちの話をしている時の、あの輝いた顔。
それを見て、僕は何も言えなかった。
マネージャーとして、それでよかったんだろうか。
今は、ただ最高のライブを作ることだけを考えよう。
ふたばの、最後のステージを。
そう、自分に言い聞かせた。
足音だけが、静かな夜道に響いていた。




