第37話 馬の骨
『度一切苦厄』
人が持つすべての苦から解き放たれた。
もちろん、俺のことではない。
観自在菩薩さまのことだそうです。
解説本からの抜粋です。
陽菜は無口だが、俺には
「あきら兄ちゃん」
と呼んで、手をつなごうとする。
安全のため、弁当屋までの道では、必ず車線から遠い位置を歩かせる。
2車線の道だと余裕はあるのだが、路上駐車があると、車が来ないタイミングで歩かないと危険を感じる。
やった事がない児童との行動。
色々な事に視野が広がる。
雨傘は透明がいい。
ポンチョって、自由でいい。
だけど靴に水が入ったようだ。
ゴム長を履かせておけばよかった。
もうすぐという所だったので、抱っこすると、陽菜と顔が近い。
「あきら兄ちゃん」
そう言って、俺の顔をしげしげと見ている。
愛想笑いをしてしまった。この俺が…
雨の日の昼過ぎ。
狭い店内のイートインスペースで、靴と靴下を脱がせた。
「すみません。雨なのにゴム長を履かせなかったので…」
「いいんですよ。あきらさん」
お店のおばちゃん達が、総出で陽菜の面倒を見ている。
オーナーさんだろう人から
「なにか食べて行って!」
そう言われて、トンカツ弁当を注文すると、味噌汁も一緒に出てきた。
これで650円は安い。料金を払おうとしたら
「お金はいいんだよ。あきら兄ちゃん」
「あずまさん、ありがとうございます」
麻衣さんが頭を下げたので、俺もお礼はしっかり言った。
「本当に、揚げたて、出来立てで、おいしかったです。ごちそうさまでした!」
麻衣さんは、もう少し働くようなので、俺はここで失礼した。
「バイバイ」
陽菜の声に送られて、マンションに戻った。
喫茶店に戻っても、もう何も食べられそうにないからな。
夏休みは、何度か陽菜を弁当屋まで連れて行った。
そして2回に1回は、ごちそうになってしまった。
今までにないほど親孝行をしたな~。
そんな思いに浸っていたら、祖母が
「蘭さん、料理教室に通ってるそうね」
「そうそう。『憩』に行ったの?」
「お友達と帰りに寄ったら、オーナーさんが言ってたのよ。やっと女の子らしくなって来たって」
「なるほど…」
「蘭さんが戻って来て、うちに来てお料理作りましょうか?って言ってくれたけど、お断りしちゃったわ」
「そうだね」
祖母は、自分のテリトリーに他人が入って来るのを好まない。
普通なら、マンションに一人でいると寂しいとか思うだろうが、そうではない。
父にべったりでは無かったように、俺がここに来る前から一人でいた。
俺と祖母が仲良くなったのも、俺が祖父の仏壇にお経を唱えるようになってからだ。
もちろん祖父のDNAの一部は俺に受け継がれているし、そういう思いもあって読経している。
「そういえば、健一のおじさん、どうして遠山なの?」
「あ~ それね」
当時、一家は大阪に住んでいた。
健一さんは石山の長男で、真面目で優等生だったそうだ。
そして、関関同立と言われる関西学院大学に進学。
後に教師となって、自然が大好きな伯父さんは、あの奈良の山奥にある学校の先生になった。
そこで役場で働いていた遠山由美子さんと恋愛して、婿に入ったそうだ。
当時から、村では評判の良かった夫婦だったが、不幸にも、由美子さんは白血病で亡くなる。
その後、健一さんは住職の跡取りになった。
祖父が亡くなって、独身の父が東京勤務だった事から大阪の家を売って、このタワーマンションを買ったそうだ。
その後、父も結婚して、大阪に転勤になった後は、祖母はここでずっと一人暮らしだ。
元々、関東の人だった事もあり、友達のほとんどは首都圏にいるらしい。
夏休みが終わる頃、父の借家に呼ばれた。
父と継母、高橋麻衣さんとは交際して1年半、同居1年になっていて、色々な事に結論を出さないといけない時期が来ていた。
だが、難しいのは陽菜の存在である。
婚外子で認知されていないため、母の名字を名乗り、高橋陽菜。
入籍すると麻衣さんは石山麻衣になるが、ここで陽菜を養子にするかどうかが問題になる。
この悩みはマンションに来た時に、父のボヤキとして俺の耳にも入っていた。
現状、高橋麻衣と高橋陽菜は、父である高橋ホールディングカンパニーの社長からの支援で経済的に自立している。これは、どこの馬の骨とも分からないミュージシャンと縁が切れたからだ。
そして、陽菜を石山の養子にすると、石山誠(父)の相続権と介護の義務を負う事になる。
もちろん、入籍しても、経済的には個別のままという契約も可能だ。
だが、継母の父親は、高橋HCを麻衣ではなく、陽菜に継がせたいらしい。
高橋HCには、ビルメンテナンス会社、設備機器会社、警備会社があり、それぞれシナジー効果を発揮しているグループ会社だそうである。
そこで俺なりにネットでいろいろと調べておいた事を伝えた。
「養子にしなくても、名字の変更許可の申し立ては、15歳未満は法定代理人、つまり親権者の麻衣さんが行えます」
「そうなのか…」
「認知されていれば、相手の同意も必要でしたから、その点は良かったですね」
「良く調べたな…」
「ですけど、麻衣さんの御父上は、反対するかも知れません」
「なぜだ?」
「むしろ、ネームバリューとしては、『石山』姓よりも『高橋』姓の方が上と考えているでしょう」
「なるほどな…」
そして、どうも麻衣さんは妊娠した可能性が高いらしい。
だからこそ、結論が今、必要だと考えたからだ。
この問題に関しては理解が難しかったのだが、一応、調べてある。
「生理予定日から1週間ほど経ってから、測定したんですよね?」
「ええ、説明書にそう書いてあったから…」
「でしたら99%以上は妊娠しているでしょう。原理的に、受精卵の着床を促すホルモンを検出するので、精度は高いと言われています」
「そうか…」
「でももし、男の子が生まれたら、麻衣さんの御父上は、心変わりをするかも知れません」
「なぜ?」
「馬の骨の子供よりも、官僚の子供、それも男の子がいいと考えても不思議はありませんから…」
「は~~」
「は~~」
ため息がハモった。




