エピローグ 返事のある朝
日曜日の朝、ダニエルはキッチンから聞こえる食器の音で目を覚ました。
枕元のスマートフォンを見ると、普段より少し遅い時間だった。休日なのだから問題ないと自分では思うが、廊下の向こうにいる相手が同じ判断をするとは限らない。ダニエルはしばらくベッドの上で目をこすってから起き上がり、寝室を出た。
「ルーク、コーヒーあるか?」
「すでに用意しています、ご主人様」
キッチンからすぐに返事が来た。リビングへ入ると、テーブルには朝食が並び、マグカップから湯気が上がっている。ルークは黒いメイド服の袖を邪魔にならないよう少しまくり上げ、フライパンを洗っているところだった。
「いつも助かる」
ダニエルが椅子を引くと、ルークは洗い物を続けたまま言った。
「本日の起床は通常より二十三分遅れています」
「日曜なんだからいいだろ。仕事もないし」
「昨夜の就寝時刻も通常より遅れていました」
ダニエルはコーヒーへ手を伸ばしかけ、ルークを見る。
「誰のせいで帰ってから長話したと思ってんだ」
「私はご主人様からの質問へ回答しただけです」
昨夜、自分からルークへあれこれ聞いたことを思い出し、ダニエルはカップを持ったまま数秒黙った。
「……そうだったな」
「睡眠時間の不足が継続する場合は、就寝時刻の前倒しを推奨します」
ダニエルはトーストへ手を伸ばしながら、嫌そうにルークを見た。
「一回寝るのが遅くなっただけで生活指導かよ。五年前のお前より面倒になってないか?」
ルークは洗い終えたフライパンの水を切り、ダニエルへ顔を向ける。
「以前は睡眠時間以外にも監視対象がありました」
「弾薬とか爆発物とかだろ。そっちの方がまだ気が楽だったよ」
「睡眠不足も事故率を上昇させます」
「朝飯食う前から事故率の話すんな」
ダニエルがトーストを手に取ったところで、玄関のチャイムが鳴った。ダニエルはルークが反応するより先にパンを皿へ戻し、玄関側へ顔を向けた。
「朝から誰だよ」
壁のモニターに映った顔を見て、ダニエルは少しだけ姿勢を正した。玄関へ向かい、ドアを開けると、奈緒が小さな紙袋を提げて立っている。
「おはよう」
「……本当に朝から来たのか」
「昨日、また明日って言ったでしょ」
「言ってたけど、もう少し昼寄りを想像してた」
奈緒は紙袋を持ち直し、わずかに眉を上げた。
「迷惑だった?」
ダニエルは一瞬だけ言葉に詰まり、玄関を大きく開ける。
「迷惑なわけないだろ。ほら、入れよ」
「じゃあ、お邪魔します」
奈緒は笑って靴を脱いだ。昨日までに何度も見てきた光景なのに、ダニエルはなぜか玄関からリビングまでの数歩を妙に意識した。奈緒の方も普段より少しだけおとなしく、先に歩くダニエルの背中を見ている。
リビングへ入ると、ルークがキッチンから出てきた。
「おはようございます、奈緒様」
「おはよう、ルークちゃん。これ、朝ごはんにしようと思って買ってきたんだけど」
奈緒が紙袋を差し出す。ルークは受け取って中を確認すると、すぐにキッチンへ視線を移した。
「主食のみです。副菜を追加します」
ダニエルは椅子へ戻りながら振り返る。
「結局作るのかよ。昨日、来る予定はないって話になっただろ」
ルークは紙袋をテーブルへ置き、そのまま冷蔵庫を開けた。
「来訪予定が変更されましたので」
奈緒は自分が持ってきた袋を見てから、ルークの背中を見る。
「私、これだけで大丈夫だよ?」
「不足分のみ追加します」
「もう任せとけ。止める方が時間がかかる」
ダニエルが諦めたように言うと、奈緒は笑いながらいつもの椅子へ座った。
「ルークちゃん、結局そこは譲らないんだね」
冷蔵庫の前から、ルークの声が返ってくる。
「私は必要量を算出しているだけです」
ダニエルはコーヒーを飲みながら顔をしかめた。
「ほら、すぐそうやって大ごとにする」
「算出対象は二名分です。規模は大きくありません」
「そういう意味じゃねえよ」
奈緒が口元を押さえた。
しばらくしてルークが追加の皿を運んでくると、奈緒の前に朝食が揃った。奈緒は礼を言ってから、自分で買ってきたパンを一つダニエルの皿へ置く。
「これも食べる?」
「もらう」
「即答だね」
「朝飯の追加で悩む理由なんてないだろ」
「昨日はあんなに悩んでたのに」
パンへ伸ばしかけたダニエルの手が止まった。奈緒は何気なく言ったつもりだったらしいが、自分でも気づいたのか、少しだけ目を逸らす。ダニエルも何を返すか迷ってから、結局そのパンを取った。
「そっちと一緒にするなよ」
「してないって。まあ、ちょっとはしたかも」
奈緒は笑った。二人のやり取りを聞いていたルークは何も言わず、空いたフライパンを片づけている。その沈黙がかえって気になり、ダニエルは一度ルークを見たが、ルークはいつもどおりだった。
奈緒がコーヒーへ手を伸ばす。
「昨日、部屋に戻ってからちゃんと寝た?」
「寝たよ。こいつに捕まってなければ、もう少し早かったけどな」
ルークがすぐに振り返った。
「私はご主人様を拘束していません」
「言葉どおり受け取るなよ。質問に付き合ってたって意味だ」
「それでしたら、先ほど説明しました」
朝から同じところを突かれ、ダニエルは眉を寄せた。
「二回も負けたくないんだよ。もういい」
奈緒は笑いをこらえながらカップを口元へ運んだ。
「付き合い始めた翌朝なのに、いつもどおりだね」
「何か変なことする方が嫌だろ」
「それはそうだけど」
奈緒は一度カップへ目を落として笑った。ダニエルもつられて口元を緩め、奈緒が顔を上げたところで目が合うと、今度は二人ともカップへ視線を戻した。
その横では、三番が充電台から離れて走り始めていた。低い走行音とともにテーブルへ近づき、昨日ルークが横から指示した場所とほとんど同じ椅子の間へ入る。ルークの視線が三番へ向いたことに、ダニエルはすぐ気づいた。
「言うなよ」
「まだ発話していません」
「指示しようとしただろ」
「進路選択の必要性を検討していました」
「それを構いすぎって言ってんだよ。少しは自分でやらせろ」
ルークは三番を見たまま口を閉じた。三番は椅子の脚の手前で一度止まり、わずかに後退すると、向きを変えて反対側へ回り込み、そのままテーブルの下を抜けていく。
奈緒がその動きを目で追いながら笑った。
「一人でできたね」
「正常動作です」
ルークはそれだけ答えた。ダニエルは椅子の背へ身体を預け、三番からルークへ視線を移す。
「昨日まであれだけ口出してたのに、今日はちゃんと黙って見てられたな」
「ご主人様から介入頻度を下げるよう要求されましたので」
「昨日の『努力します』は、信用できないって言ったよな」
「記録されています」
「でも、今のは信用してやるよ」
ルークは少しだけ首を傾けたが、三番には何も言わなかった。
◇
朝食が終わる頃には、窓から入る光もだいぶ高くなっていた。奈緒は空になったカップを両手で持ち、テーブル越しにダニエルを見る。
「今日、どうする? 来週の日曜まで何もしない?」
ダニエルは時計を見た。まだ午前中で、仕事も予定もない。少し考えてから、椅子の背にもたれる。
「昼前にどこか行くか。来週まで待たなくてもいいだろ」
奈緒の表情がすぐに明るくなった。
「今日もデートね」
ダニエルは一度だけ奈緒を見てから、テーブルの上のカップを手に取った。
「今度は最初からそのつもりだよ」
奈緒は少し嬉しそうに笑う。
「じゃあ、準備してくる。さすがにこのままじゃ出れないから」
「そのままで十分だと思うけど」
「付き合い始めた翌日に、その言い方?」
ダニエルは何を問題にされたのか分からず、奈緒を見る。
「似合ってるって言ってるんだよ」
「だったら最初からそう言って」
奈緒は立ち上がり、空いた皿をまとめようとしたが、すぐにルークが横から手を伸ばした。
「こちらで片づけます」
「ありがとう。じゃあ、ちょっと戻ってくるね」
奈緒は靴を履きながら、玄関まで見送りに出たダニエルを振り返った。
「遅くても一時間くらいで来るから」
「別に急がなくていいよ」
奈緒は少しだけ笑って、ドアを開けた。
「じゃあ後で」
「ああ、後で」
奈緒が自分の部屋へ戻ると、ダニエルもリビングへ引き返した。ルークは食器を片づけ、テーブルの上を拭いている。
「本日の昼食は外食でしょうか」
「外で食う。店はまだ決めてないけどな」
「では、夕食と帰宅予定も未定として扱います。判明した時点で連絡してください」
「帰る時間が分かったら連絡するよ。ただ、前みたいに九時ちょうどに確認のメッセージを送ってくるのはなしな」
ルークはテーブルを拭く手を止めずに答えた。
「それまでにご連絡をいただければ、不要です」
「……連絡しなかったら?」
「九時ちょうどに確認します」
ダニエルは苦笑した。
「だろうな」
それから寝室へ戻って着替え、財布と鍵をポケットへ入れる。リビングへ戻る頃には、三番は窓際を掃除し、ルークは朝食に使った最後の皿を棚へ戻していた。
「じゃあ、留守番頼む」
「承知しました、ご主人様」
あまりにもいつもどおりの返事に、ダニエルはそれ以上何も言わなかった。
◇
奈緒が戻ってきたのは、それから四十分ほど経った頃だった。玄関のチャイムが鳴ると、今度はダニエルがすぐにドアを開ける。奈緒は朝より少しだけ外出向けの服装に変わっていた。
「お待たせ」
「思ったより早かったな」
「一時間かかるって言ったら、本当に一時間待つつもりだった?」
「急がなくていいって言ったからな」
奈緒は少し笑った。
「分かってる。でも待たせるの嫌だったの。行こ」
奈緒は踵を返しかけ、それから室内を振り返った。
「ルークちゃん、行ってきます」
リビングの奥にいたルークが、玄関の方へ顔を向ける。
「いってらっしゃいませ、奈緒様」
ダニエルも靴を履き、玄関のドアへ手を掛けた。外へ出る直前、一度だけ室内を振り返る。
「ルーク」
「はい、ご主人様」
ダニエルは返ってきた声に口元を緩め、何も言わずに奈緒と並んで玄関を出た。




