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第12話 処理保留を解除します

 土曜日の夜、ダニエルの部屋では、夕食を終えたあとも奈緒がそのままテーブルに残っていた。


 食器を片づける音がキッチンから聞こえ、床では三番が壁際をゆっくり進んでいる。奈緒は飲みかけのコーヒーを両手で包み、ダニエルは向かいの椅子でタブレットを持ち、仕事とは関係のないニュースを眺めていた。二人とも、このあと特に何かをする予定はない。奈緒がこうしてしばらくくつろいでいくのも、最近では珍しくなくなっていた。


 三番がテーブルの下へ近づき、奈緒の椅子の脚を検出して速度を落とした。キッチンから戻ってきたルークはその動きを見ると、すぐに掃除機へ声をかける。


「三番、左側を通ってください」


 三番が進路を変えるのを見て、ダニエルはタブレットから顔を上げた。


「お前、また直接指示してるだろ」


「奈緒様の足元を避けました」


 ルークはそう答えながら、空になった皿を重ねている。奈緒が自分の足元を見ると、三番はもう椅子の反対側を何事もなかったように走っていた。


「放っとけよ。自分で避けれるだろ。そういう機能ついてるんだから」


「回避まで〇・八秒を要すると予測しました」


 ダニエルは一瞬ルークを見てから、三番へ視線を戻した。


「一秒も待てないのか。この速度で当たっても怪我しないって」


 そこで奈緒が笑った。


「私は助かったけどね。いきなり足元に来ると、ちょっとびっくりするし」


 ルークはその言葉を聞くと、当然のようにダニエルへ顔を向けた。


「奈緒様から肯定的な評価を得ました」


「そういう時だけ人の意見を採用するの早いな」


「有用な意見は採用します」


 ダニエルはタブレットを伏せ、今度は自分を指した。


「俺の『放っとけ』は?」


「今回の状況では有用ではありませんでした」


「お前がいると、三番、一生自分で判断する機会なくなるぞ」


 ルークは三番へ視線を向けた。掃除機はすでにテーブルの下を抜け、壁際へ向かっている。


「通常走行には介入していません」


 譲る気のない返事に、ダニエルはルークを見たまま眉を寄せた。


「絶対過保護になってるよな、お前」


「その評価には同意しません」


 ダニエルが何か返そうとしたところで、奈緒が吹き出した。二人がそろって彼女を見る。


「何だよ」


「いや、三番が来てから、ルークちゃんちょっと楽しそうだなって」


 ルークは奈緒へ顔を向けた。


「掃除効率は向上しています」


「そこじゃないと思うけどな」


 奈緒が笑いをこらえながら返すと、ルークは少し首を傾けた。


「では、どこでしょうか」


「三番の面倒を見るのが楽しいんじゃないかなってこと」


 奈緒が笑ったままコーヒーへ口をつける。ルークは納得していない様子だったが、それ以上追及せず、重ねた食器をキッチンへ運んでいった。


 ダニエルはその背中を見送ってから、小さく息をついた。


「最近、あいつと話してると俺の方が間違ってる気がしてくるんだよな」


「ルークちゃんも同じこと思ってるよ」


 奈緒の返事に、ダニエルは嫌そうな顔をした。


「それはそれで嫌だな」


 しばらくして三番が充電台へ戻ると、室内から小さな走行音も消えた。奈緒はコーヒーカップをテーブルへ置き、静かになったところで思い出したように口を開く。


「そうだ。ダニエル、来週の日曜は空いてる?」


 ダニエルはタブレットを取り直し、予定表を確認した。


「今のところ何もない。どこか行きたいのか?」


 奈緒は答える前に少しだけ口元を引き締めた。普段ならそのまま店の名前か映画の話でも始めそうなところで、今日は一度ダニエルの顔を見てから言う。


「じゃあ、今度は最初からデートってことで出かけない?」


 ダニエルの指が止まった。


 キッチンでは水道の音がしていたが、それもすぐに止まる。食器を片づけ終えたらしいルークが、向こうから淡々と声をかけた。


「今回は事前に分類が確定しました」


 ダニエルは否定しなかった。代わりにテーブルのマグカップへ手を伸ばし、もうほとんど残っていないコーヒーを一口飲んでから、何も言わずにカップを戻した。


 奈緒はその様子を見ていた。すぐに「違う」と返してこないことには、気づいているようだった。


「ルークちゃん、今回は合ってるよ」


 キッチンから戻ってきたルークが奈緒へ顔を向ける。


「奈緒様から承認を得ました」


 ダニエルは二人を見比べたが、やはり否定はしなかった。その反応を確かめてから、奈緒の笑みが少しだけ薄くなる。


「私、今回は冗談で言ってないよ」


 ダニエルはマグカップから手を離し、奈緒を見た。


「……分かってる」


「この前も、私は否定しなかったでしょ」


 奈緒がまっすぐこちらを見るので、ダニエルはわずかに姿勢を変えた。


「それも分かってるよ。ルークにも言われたし」


 奈緒は少し眉を寄せる。


「ルークちゃんが気づいたかじゃなくて、ダニエルが気づいてたか聞いてるの」


 言われて、ダニエルは返事に詰まった。


 ルークは二人の間へ口を挟まず、そのままキッチンへ戻った。ダニエルには、こういう時に限って何も言わないのが妙に気になった。


 奈緒はダニエルを急かさず、少し待ってから椅子を引いた。


「ちょっと歩かない?」


 ダニエルもそれ以上その場で答えようとはせず、椅子から立ち上がった。


「そうするか」


     ◇


 二人が玄関へ向かうと、ルークもリビングから顔を出した。


「ご帰宅予定は何時頃でしょうか、ご主人様」


 靴を履いていたダニエルが振り返る。


「近所を少し歩いてくるだけだ。一時間もしないよ」


「承知しました」


 ルークの返事はいつもどおりだった。奈緒は玄関のドアへ手を掛けながら、ルークを振り返った。


「ルークちゃん、今度は時間まで測って送り出さないでね」


「必要ありません。出発時刻は記録されています」


 奈緒はドアを開けかけた手を止める。


「それ、測ってるのと同じじゃない?」


「記録です」


 言い切ったルークを見てから、奈緒はダニエルへ顔を向けた。


「やっぱり一時間以内に帰った方がよさそう」


「気にするな。あいつは昔からああなんだよ」


 背後からすぐにルークの声が飛んでくる。


「聞こえています、ご主人様」


 ダニエルは肩越しに振り返った。


「聞こえるように言ったんだよ」


 奈緒はまた笑い、今度こそ玄関の外へ出た。


     ◇


 外は昼間より少し冷えていた。


 二人はマンションを出て、駅とは反対側の住宅街へ向かった。何度も通ったことのある道だった。小さな公園の横を抜け、閉店後のクリーニング店や、まだ明かりのついているコンビニの前を通る。


 最初の数分は、どちらもさっきの話に戻らなかった。奈緒が仕事であった面倒な電話の話をして、ダニエルが自分の会社でも似たようなことがあると返す。いつもなら、そのままどうでもいい話だけで一時間くらい歩けただろう。


「さっきの返事、まだもらってない」


 ダニエルは前を向いたまま歩き続けた。


「……悪い。あそこじゃ答えられなかった」


 奈緒は隣を見た。


「うん。だから、今聞いてるの」


 ダニエルは小さく息を吐き、しばらく言葉を探したものの、結局そのまま口を閉じた。


 奈緒は少し歩調を落としたが、話題を変えようとはしなかった。


「付き合いたくないなら、そう言ってくれていいよ」


 ダニエルはすぐに奈緒を見た。


「そうじゃない」


 返事だけは迷わなかった。奈緒も立ち止まらず、そのまま隣を歩いている。


「じゃあ、何が引っかかってるの?」


 角を曲がり、公園の金網沿いを歩く。夜の遊具には誰もいない。街灯の光が歩道へ細く落ちる中、ダニエルは前を向いたまま、ようやく口を開いた。


「今までが楽だったんだよ。お前の部屋にも行けるし、うちにも来る。飯食って、くだらない話して、それで困ってなかった」


 言いながら、ダニエルは少しばつが悪くなった。奈緒の顔を見るでもなく、歩道の先を見ている。


「それを変えて、もし変にこじれたら嫌だった。付き合って、それで駄目になって、今までみたいに話せなくなるくらいなら……今のままでもいいと思ってた」


 奈緒はしばらく何も言わなかった。ダニエルも横を見ることができず、そのまま二人で歩き続ける。


「でも、何もしなかったら今のままがずっと続くってわけでもないよ」


 ダニエルが奈緒を見ると、彼女は前を向いたまま続けた。


「私が誰かと付き合ったら、今みたいにダニエルの部屋でご飯食べてるか分からないでしょ」


 その言葉で、ダニエルの足がほんの少し遅くなった。奈緒はそれ以上説明せず、そのまま先を歩く。


 数歩遅れてから追いついたダニエルは、奈緒の横顔を一度見てから口を開いた。


「それは……嫌だな」


 言ってから、ダニエルは自分の口から出た言葉に少し驚いた。


 奈緒は横目でその顔を見る。


「うん。私も嫌」


 その声から笑いが消えていることに気づき、ダニエルは今度はきちんと奈緒を見た。


「私、ダニエルが好きだよ。友達でいるのも好き。今までみたいなのが嫌だったわけじゃない。でも、もう友達だけでいいとは思ってない」


 ダニエルはすぐには返事ができなかった。奈緒は隣を歩いたまま、何も言わずに待っている。


「こういう時、何て返せば正解なんだろうな」


 ようやく出てきた言葉に、奈緒が少し呆れた顔をする。


「正解じゃなくて、本当のこと言って」


 ダニエルは困ったように片手で後頭部を掻いた。


「分かってる。分かってるけど、ちょっと待て」


「待ってるよ」


 戦場で判断を迫られた時なら、もっと早く答えを出せたはずだった。それなのに今は、奈緒を相手に何分も言葉を探している。ダニエルはようやく手を下ろし、彼女へ顔を向けた。


「俺も奈緒が好きだ」


 奈緒の目が少し見開かれる。


 一度言ってしまうと、ダニエルは今度は途中で止めなかった。


「だから余計に、今までの関係を壊したくなかった。お前が近くにいるのが普通になってたし、それがなくなる方が怖かった」


 奈緒は数秒、何も言わなかった。それから眉を寄せる。


「そこまで言われると、ちょっと腹立つ」


 予想していなかった反応に、ダニエルも眉を上げた。


「何でだよ」


「好きなのに二年も何もしなかったってことでしょ」


 ダニエルは言い返しかけて、結局諦めたように視線を逸らした。


「……そこは悪かった」


「本当にね」


 奈緒は呆れたように言ったが、声は少し笑っていた。ダニエルもようやく肩の力を抜く。


「お前だって何も言わなかっただろ」


「私は結構出してたつもりだけど」


 奈緒に即座に返され、ダニエルは納得できない顔をした。


「分かるわけないだろ」


「ルークちゃんでも気づいてたのに?」


 そこを突かれ、ダニエルは顔をしかめる。


「それを言われると弱いんだよな」


 奈緒がとうとう笑い、ダニエルもつられて笑った。


 そのまま何歩か進んだところで、今度はダニエルの方から足を止めた。


「奈緒」


 呼ばれて、奈緒も立ち止まる。ダニエルは一度息を吐いてから、彼女を見た。


「俺も、お前と付き合いたい」


 今度は言い訳を付け足さなかった。


 奈緒は一瞬だけ目を伏せ、それからダニエルを見る。


「うん。……やっと言ってくれた」


 二人はしばらくその場にいた。脇を車が一台通り過ぎ、少し離れた家からテレビの音が漏れてくる。


 やがて奈緒が歩き出し、ダニエルも隣へ並ぶ。数歩進んだところで、奈緒の手がダニエルの手の甲に触れた。


 ダニエルが視線を落とすと、奈緒は前を向いていたが、少しだけ耳が赤くなっている。


「嫌?」


 ダニエルはその手を握った。


「嫌だったら、さっきの話は全部何だったんだよ」


 奈緒は手をつないだまま、横目でダニエルを見る。


「こういう時くらい、もう少し気の利いたこと言えないの?」


「今ので精いっぱいだ」


「そんなの顔見れば分かるよ」


 即答され、ダニエルは口をへの字に曲げた。


「だったら聞くなよ」


 奈緒は手を離さなかった。二人はそのまま、来た道を戻った。


     ◇


 マンションへ戻ったあと、ダニエルは奈緒を彼女の部屋の前まで送った。


「じゃあ、また明日」


 鍵を取り出しながら言われ、ダニエルは少し意外そうに奈緒を見る。


「明日?」


「付き合い始めたら、翌日は会っちゃ駄目なの?」


「そういう意味じゃない。予定は何も決めてないだろ」


 奈緒は鍵を差し込みながら笑った。


「じゃあ今決めればいいじゃん」


「展開が早いな」


 ドアを開けた奈緒は、部屋へ入る前に振り返った。


「おやすみ、ダニエル」


「ああ。おやすみ、奈緒」


 ドアが閉まってから、ダニエルは数秒そこに立っていた。それから自分の部屋へ戻る。


 玄関を開けると、リビングの明かりはついたままだった。ルークはソファの横で洗濯物を畳んでいて、三番は充電台に収まっている。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


「ただいま」


 靴を脱いでリビングへ入ると、ルークは畳みかけのシャツから顔を上げた。


「奈緒様とのお話は終わりましたか?」


「終わったよ」


 ダニエルはジャケットを椅子の背へ掛け、そのまま少し立っていた。ルークは次の質問をせず、洗濯物へ手を戻す。そのせいで、逆に言わないままにする方が落ち着かなかった。


「……奈緒と付き合うことになった」


 ルークの手が一度止まった。


「承知しました」


 それだけだったので、ダニエルは少し待ってからルークを見る。


「……それだけか?」


 ルークは畳んでいたシャツを重ねた。


「他に必要な応答がありますか?」


「いや。別にないけど」


 答えたあと、ダニエル自身も何を期待していたのか分からなくなり、ソファへ腰を下ろした。


 ルークはもう一枚の洗濯物を畳み終えてから、ダニエルを見る。


「では、お二人の交際に関する処理保留を解除します」


 何のことかは、ダニエルにもすぐに分かった。ソファへ背を預けたまま、苦笑する。


「……そっちの保留が先に片づくとはな」


「処理はご主人様ご自身で完了されましたので」


 その返事に、ダニエルはルークへ顔を向けた。


「勝手に処理するなって言ったの、ちゃんと守ってたんだな」


「記録されています」


 ダニエルは呆れたように笑った。


「変なところだけ律儀だな。そんなの記録しといて意味あるのか?」


 ルークは少しも迷わず返した。


「今回使用しました」


 ダニエルは一度口を開いたが、反論できずに閉じた。


 ルークは特に勝ち誇ることもなく、残りの洗濯物を畳み始めた。その様子を見ながら、ダニエルは少し考えてから口を開く。


「付き合うってことになると、お前の方で何か変える必要あるか?」


 ルークは手を止めずに答えた。


「奈緒様の来訪頻度に変更はありますか?」


「付き合い始めたその日に分かるかよ」


「では、変更が判明した時点で対応します」


 ダニエルは眉を寄せた。


「何に対応するんだ」


「来客予定、食事量、飲料、室温設定等です」


 そこまで具体的に並べられ、ダニエルは手を振った。


「そこは今までどおりでいい。必要になったらその時言うよ」


「承知しました」


 あまりにも普段どおりの返事に、ダニエルは少し笑った。


「……普通だな。もう少し何か言うかと思った」


 ルークは手にしていた洗濯物を一度膝の上へ置き、ダニエルを見る。


「何を言えばよいのでしょうか」


「それが俺にも分からないんだよ」


 ルークは数秒考えた。


「奈緒様との関係が良好に進展したことは、望ましいと判断します」


 あまりにルークらしい答えに、ダニエルは苦笑する。


「急に報告書みたいになったな」


「ご主人様が発言を要求されましたので」


「すまん。俺が悪かった」


 ルークは何事もなかったように洗濯物へ視線を戻し、ダニエルもそれ以上は求めなかった。


 部屋にはいつもどおりルークがいて、三番が充電台に収まり、テーブルには奈緒が使ったカップがまだ一つ残っている。


 ダニエルが時計を見ると、もう遅い時間になっていた。


「明日の朝飯も、いつもどおり頼むな」


 ルークは洗濯物を抱えて立ち上がった。


「承知しました。奈緒様の分も必要でしょうか?」


 ダニエルの動きが一瞬止まる。


「何で奈緒の分まで作るんだよ」


「明日の来訪予定はありませんか?」


「ない。まだ何も決めてないよ」


 返事を聞いたルークは、そのまま寝室側へ向き直った。


「では、ご主人様の分だけ用意します」


 ダニエルは洗濯物を運ぼうとするルークの背中へ声をかけた。


「……お前は相変わらずだな」


 ルークが振り返った。


「朝食の準備についてでしょうか?」


「それもそうだけど。ここんところ色々変わったのに、お前だけいつもどおりだなと思ってさ」


「私は必要な作業を続けるだけです」


 ダニエルは少し笑った。


 その時、三番の充電台から短い電子音が鳴った。


 ダニエルはそちらへ顔を向けた。充電台に収まった三番の向こうには、洗濯物を抱えたルークがいる。テーブルの前には、さっきまで奈緒が座っていた椅子が、引かれたままになっていた。


「三番まで増えたし、お前は身体替えないって言うし、奈緒とは付き合うことになるし……最近うちだけ変わりすぎじゃないか?」


 ルークは洗濯物を抱えたまま、少し考えた。


「現在の生活に問題がありますか?」


 ダニエルは部屋を見回した。


 問題がないわけではない。三番はルークがすぐ介入するせいで、どう見ても必要以上に世話を焼かれている。ルークはいまだに「ご主人様」としか呼べないし、奈緒とのことだって、明日から急に何もかも上手くいく保証などない。


 それでも、今さら全部を前の状態へ戻したいとは思わなかった。


「いや。別に困ってない」


「では問題ありません、ご主人様」


 ダニエルは数秒黙ってから、ルークを見る。


「お前、最近それで何でも片づけようとしてないか?」


「問題がありますか?」


 ルークは首を傾げた。


 ダニエルは充電台の三番へ一度目をやってから、もう一度ルークを見た。


「それと、三番に構いすぎるのもやめろ。少しは自分で掃除させろ」


「努力します、ご主人様」


「その返事、全然信用できねえな」


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