第九章 世界規模の大宴会
その日、世界から「昼」が失われた。始まりは、大陸のあらゆる方角から沸き立った不気味な地鳴りであった。 王都、地方都市、辺境の村、さらには人知れぬ樹海や氷原に至るまで——地底を巡る巨大な魔力脈が一斉に逆流を始め、地上のありとあらゆる生命と大気から、魔力が容赦なく吸い上げられていったのである。人々が怯えて天を見上げると、そこには息を呑むような絶望の光景が広がっていた。青空を塗りつぶすように上空へ展開されたのは、大陸一つをすっぽりと覆い尽くすほどの超極大魔導陣。 無数の幾何学模様と禍々しい古代文字が重なり合い、その中心からは、世界を崩壊へと導く重圧と、血と硫黄の混ざり合った死の臭気が降り注ぐ。「な……なんだあれは……!?空が……空が魔法陣で埋め尽くされている……!?」「魔力が……身体から抜けていく……! 息が……息が苦しい……!」王国最高の魔導師たちも、各地の英雄たちも、ただその圧倒的な存在感の前に膝を折り、ガタガタと打ち震えることしかできなかった。その空の最頂点。魔法陣の中心に浮かび上がったのは、世界を「無」へと還さんとする旧時代の黒幕、滅世の魔導王アルザードであった。彼は天に向かって両腕を掲げ、高らかに嘲笑を響かせる。『ハッハッハ!愚かな人間どもよ!これぞ我が数千年の時をかけて完成させた、人類絶滅の終焉魔法——『万物崩壊の終極饗宴』である!!』アルザードの叫びとともに、天空の魔法陣から、赤黒い破滅の魔力が濁流となって渦を巻き始めた。それは単なる破壊の光線ではない。触れた者の肉体を分解し、魂を砕き、存在そのものを世界から消し去る、歴代最強にして最悪の巨大禁忌魔法であった。『この世界に満ちる全ての魔力をかき集め、一滴残らず破滅の力へと変換した!防ぐ術など存在しない!抗う術など存在しない!さあ、世界よ、絶望と共に消滅せよ!!』世界中の人々が涙を流し、神に祈りを捧げ、死の訪れを覚悟した。 歴史上、いかなる英雄も、いかなる守護竜すらも立ち向かえない、完全なる「世界の終わり」がそこにあった。
絶望が世界を包み込み、人々が悲鳴すら失っていたその時。学院の第一演習場——今は破滅の空を見上げる廃墟と化したその場所で、ただ一人、ゆっくりと優雅に日傘を広げる少女の姿があった。リゼット・アストリアである。強風に可憐な金髪とドレスの裾をなびかせながら、彼女はそっと首を傾げ、空一面を覆い尽くす赤黒い極大の魔法陣を見上げていた。「まあ……」リゼットの口から、可憐で清らかな感嘆の吐息が漏れる。「まあまあ……なんて大きなお料理でしょう……!」絶望に打ちひしがれ、地面に這いつくばっていた周囲の生徒や講師たちが、一斉にバッと首を跳ね上げた。「り、リゼット……!?何を言っているんだ! あれは『料理』なんかじゃない!世界を滅ぼす禁忌魔法だぞ!?」「逃げろ……いや、どこへ逃げても同じだが……とにかく正気になれ!!」怯える生徒たちの叫びを他所に、リゼットのエメラルドグリーンの瞳は、まるで「一生に一度出会えるかどうかという最高級のバイキング」を前にした子供のように、キラキラと眩い輝きを放っていた。「ご覧になりまして、爺?あの見事な色合い……!赤ワインとベリーをじっくりと煮詰めたような、甘酸っぱくも濃厚なソースの輝き……!そしてあの溢れんばかりのボリューム!これまでのどのお料理よりも、格段にスケールが大きくていらっしゃいますわ!」「ハハハ……お嬢様」彼女の背後に立つ老執事アルベール・グランシェは、呆れ果てたように肩をすくめつつも、その瞳には絶対の忠誠と誇りを宿していた。「大陸全土からかき集められた魔力でございますからね。まさに『世界最高峰の食材』を惜しげもなく放り込んだ、究極の特大メインディッシュと言えましょう」「ええ、ええ!まさにその通りですわ!ふふ……あのような最高の一皿を前にして、胸が高鳴らないわけがありませんもの!」うっとりと頬を手で包み込む美少女と、静かに頷く老執事。世界が終焉を迎えようとしている極限の状況下で、二人だけがまるで「超高級レストランのプレオープン」に招待されたかのような、異次元の空気を醸し出していた。『ぬ……? 何だあの女は……!?』天空のアルザードも、地上で起きている異常な光景に気づき、不快そうに眉をひそめた。『この我が放つ終極の破滅を前にして、恐怖におののくどころか……何だその品のない眼差しは!我を……我が至高の魔法を、まるで食べ物を見るような目で見つめるな!!』アルザードが怒声とともに骨の杖を振り下ろすと、空の魔法陣から、まずは「前菜」とばかりに、山一つを容易に吹き飛ばす巨大な赤黒い魔力弾が数十個、雨あられと降下し始めた。
ズドババババババッ!!
「ひいっ!降ってきた!終わりだぁぁぁっ!!」 人々が悲鳴を上げる。だが、リゼットは怯むどころか、嬉しそうにパッと手を打った。「まあ! シェフ(黒幕)からのアミューズ・ブーシュ(一口前菜)ですわね!」リゼットが可憐に一歩前へ踏み出す。
「『ひとときの食卓』——最大展開!!」
ガシャンッ! カチャアンッ!!
リゼットを中心に、白銀の眩い光が弾けた。その光は演習場どころか、王都全体、さらには遠くの大地までも覆い尽くすほどの広大な領域へと拡大していく。降り注ぐ破滅の魔力弾群が、リゼットの展開した領域に触れた瞬間——。
シュワシュワシュワ……♪
それらは全て、巨大な銀のスープボウルの中へと吸い込まれ、甘酸っぱいベリーの香りを漂わせる「冷製ベリーコンソメスープ」へと一瞬で姿を変えてしまった!「な……なにぃぃぃっ!?」天空のアルザードが目玉を飛び出させんばかりに驚愕する。「モグ……ゴクン♪ まあ!見た目の禍々しさに反して、とても爽やかな酸味が効いていて美味ですわ!食欲がそそられますこと!」上品にスープを平らげ、ペロリと可憐な舌で唇を舐めるリゼット。『バ……バカな……!我が魔力弾を……一瞬で無害化……いや、味わって飲み込んだというのか!? この女、一体何者だ!!?』「何者、とお尋ねになりましても……」リゼットは日傘を優雅に畳むと、空の黒幕に向かって凛とした美しさで微笑みかけた。「わたくしはただの……アストリア公爵家筆頭令嬢、リゼット・アストリアでございますわ」「さあ、爺!ぼんやりしてはいられませんわ!」リゼットは振り返り、両手を腰に当てて力強く宣言した。「あのような大きなメインディッシュ……一人でいただくには、少々お行儀が悪いというもの。ですが……残すことなど、アストリア家の名誉にかけて絶対に許されませんわ!」「……お嬢様。まさかあの空全体を覆う破滅の魔法を……『フルコース』としてすべて平らげるおつもりで?」「勿論ですわ、爺!」リゼットは不敵に、そして最高にチャーミングに胸を張った。「前菜、スープ、魚料理、肉料理、そして食後のデザートまで……!あちらのシェフが世界中からかき集めて作ってくださった最高の大宴会……!わたくしが最後のひとしずくまで、綺麗に美味しくいただいてみせますわ!!」「……クックック」アルベールは思わず低く笑い声を漏らした。そして、胸に手を当て、深く深く、これまでで最も敬意を込めた一礼を捧げた。「……恐れ入りました。世界が絶望に沈もうとも、お嬢様の食欲……いいえ、『食への敬意』は留まるところを知りませんな。このアルベール、お嬢様が最高のフルコースを完食されるその瞬間まで、全身全霊でお給仕させていただきます!」アルベールが腕を振るうと、空中に何千、何万という純銀のナイフとフォーク、そして輝く大皿が召喚され、リゼットの背後に壮麗な「銀の陣形」を作り上げた。その圧倒的な光景に、絶望していた全校生徒も、防衛陣を組んでいた騎士たちも、息を呑んで立ち上がった。「おい……見ろよ……」「リゼット様が……あの空の災厄を食おうとしている……!?」 「マジかよ……世界を救うとかじゃなくて……『大宴会』を始めようとしてるのか……!?」恐怖と絶望に満ちていた世界に、希望という名の「呆れと感動」が波及していく。『ぬうぅぅぅ……舐めるなよ、小娘ぇぇぇッ!!』空のアルザードが狂乱し、全身の魔力を激しく滾らせた。『戯れ言はそこまでだ!全魔力解放!この世界ごと、貴様もろとも破滅の渦の中に消し去ってやるわァァァァッ!!』
ゴオオオオオオオオオッ!!!!!
天空の巨大魔法陣が眩い赤黒い光を放ち、ついに世界を滅ぼす「本命」の巨光が、大気を圧殺しながら地上へと解き放たれる!
だが——。
リゼット・アストリアは、一切の恐れを見せることなく、ただ可憐にドレスの裾をふわりと持ち上げた。「皆様!これよりアストリア公爵家主催——『世界規模の大宴会』を開宴いたしますわ!!」希望の光と、お嬢様の無限の胃袋が、世界最大のフルコースへと立ち向かう。世界を賭けた、史上最も暴虐で、最も優雅な「お食事」の火蓋が、いま切って落とされたのだった——。




